なお帰国後、箱根湯本駅でもらった「日本とスイスの150年」というパンフレットに、「ジュネーヴと東京都品川区は姉妹都市」であるという一文がありました。
1657年に遡る品川寺の大梵鐘は長く行方知れずとなっていました。パリ万博の展示用に搬出されて紛失したと考えられていましたが、明治政府が大砲にするためスイスの鋳造所に依頼したという説も。実際、14世紀からの伝統を誇るアーラウのリュエッチ鋳造所で、あわや消滅の危機にあった鐘を救ったのがアリアナ美術館創立者のルビリオ氏でした。美術蒐集家であった彼は鋳造所を訪れた時、一目でこの鐘に惹かれ買い取りました。その後、美術館の庭に設置されていた鐘のことが日本側に伝わり返還を希望。美術館の所有者となっていたジュネーヴ市の理解と好意により、数奇な運命をたどった鐘は1930年に故郷の品川寺へ帰還することとなったのです。そんな鐘が結んだ縁から品川区とジュネーヴ市は1991年9月9日に友好都市提携を交わしました。
また、旅をしたあとに読書をしていると、たまたま訪れた所に関する記述に出あうことがよくあります。今回も二つほど遭遇しましたので紹介します。
『明治維新を考える』(三谷博 岩波現代文庫)
ただし、彼ら(※維新を主導した政治家たち)は、「革命」という行為や言葉を特に忌避していたわけではない。薩摩出身の政府高官、西郷隆盛の従兄弟に当たる大山巌は、1872年(明治5)留学先のジュネーヴで、ロシア出身のナロードニキ、L・I・メーチニコフと出会い、彼を日本に招いて明治政府のお雇いとした。王政復古に尽力した直後の大山は、国際的なお尋ね者だったメーチニコフに対し、同じ革命家としての共感を感じたのではないだろうか。(p.2~3)
『ニッポンの裁判』(瀬木比呂志 講談社現代新書)
2013年5月、ジュネーブの国連拷問禁止委員会において、日本政府報告書の第二回審査が行われた際、アフリカの最高裁判事が、「自白偏重で取調べに弁護人の立会権もない日本の刑事司法は、中世並みではないか?」という趣旨の発言を行った。これに対し、日本の人権人道担当大使は「日本は刑事司法の分野で最も先進的な国の一つだ」と答え、会場から苦笑が漏れると、さらに、「笑うな。シャラップ」と発言して会場を静まりかえらせた。
このやりとりは、インターネットを通じて、たちまち世界中に広まってしまった。日本でも、多数のブログ、記事、書物に記載があるが、感情をむき出しにした反応は、日本の現状にいかに問題が大きいかを認めたも同然であり、かなり恥ずかしい事態であるといわなければならない。それにしても、こういう情報時代においては、しかるべき場所には、最低限自分の発言のもつ意味に気付くことのできる水準の人を出すべきではないだろうか? 近年の日本政府やその首脳部、政治家や官僚の悲しむべきレヴェルの低さ、意識の低さを象徴する出来事のように思われる。(p.107~8)
後者については、矢吹丈風に言うと「おおよそ品も格も知性もひとっかけらもねえってやつだぜ、まったく」。この問題だけでなく、原発事故への対処、辺野古新基地やTPP問題、アメリカへの属国的服従、集団的自衛権に関する動きなど、ほんとうに日本の政治家と官僚の低劣さと廉恥心の欠如には目を覆いたくなります。ま、国民は己の知的レベル以上の政治家・官僚を持ち得ないという鉄則から言えば当然のことなのですけれどね。