箱根大平台(2):林泉寺(12.4) : 散歩の変人

箱根大平台(2):林泉寺(12.4)

 春の桜、六月の紫陽花の時期は見ものですが、その他にはとりたてて名所はありません。あえて挙げれば、共同浴場「姫之湯」、浅間山の伏流水が湧き出た名水「姫の水」くらいでしょうか。ま、だから観光客が押しかけず、閑静な雰囲気が味わえるのですけれどね。ただどうしても紹介しておきたいのが、曹洞宗の古刹、林泉寺です。ここは、大逆事件に連座して処刑された内山愚童が住職をつとめていたお寺さんです。箱根登山鉄道大平台駅の階段をのぼり、国道1号線沿いに強羅方面に歩いてすぐのところにあります。日本近代の大きなターニング・ポイントとなったこの事件に関心を持つ方ならば必見。「日本文壇史17」(伊藤整 講談社文芸文庫)と「小説 大逆事件」(佐木隆三 文春文庫)を参考にしながら、彼について紹介しましょう。
 内山愚童は、1874(明治7)年、新潟県北魚沼郡小千谷に生れました。佐倉惣五郎や大塩平八郎を尊敬し、「農地を解放して夫人に参政権を」と論じやがて全国放浪の旅に出ます。19歳のころ、井上円了の家に住み込み仏教を学び、22歳で得度して林泉寺の住職となりました。同時に創刊された『平民新聞』の定期購読をはじめましたが、第二号の自己紹介文で彼はこう述べています。「余は仏教の伝道者として、いわく一切衆生はことごとく仏性を有し、いわくこの法は平等で高下なく、いわく一切衆生はわが子である。これが余の信仰の立脚地とする金言にして、社会主義のいうところの金言と、まったく一致することを発見して、ついに社会主義の信者になったのである」 幸徳秋水とは、知人である加藤時次郎(平民病院院長)を通して知り合うことになり、秋水は幾度かここ林泉寺を訪れます。天皇制を否定する『入獄記念/無政府共産』や兵士に脱走をすすめる『帝国軍人座右之銘』などを秘密出版、目をつけた警察が林泉寺を家宅捜査したところ、活字印刷機とダイナマイトを発見、「出版法違反」「爆発物取締罰則違反」により逮捕にいたります。そして大逆事件に連座して1911(明治44)年1月24日に刑死。享年三十六。処刑前に数珠を手に取ろうとしない愚堂をいぶかった教誨師・沼波政憲に対して、愚堂は「たとえ念珠をかけてみたところで、どうせ浮かばれっこないのです」と言って微笑すると、癖である肩を怒らせる歩き方で絞首台へ向かったそうです。
 当時の首相は桂太郎ですが、この苛烈な冤罪事件を仕組んだのはどうやら山県有朋のようです。伊藤整氏は前掲書の中でこう述べられています。
 山県有朋は、この頃陸軍系統の長老として、軍政専門の立場から次第に内政一般に広く関与し、日本国家の存在理念を一貫して把握実践する責任は自分にありと考えるようになっていた。彼は社会主義者が活躍しはじめた明治三十年頃から、その取扱いに苦慮し、社会主義なるものの内容を理解せぬまま、これを明治政府にとって最も危険な国賊だと考えていた。鴎外に研究を命じ、その研究の一部を鴎外は平出修に洩らしていたのだった。また日露戦争当時、ロシアを内部から崩壊に導いたのは社会主義の革命運動であることを知って、社会主義の危険なことを更に痛切に考えるようになった。山県にとって陸軍出身の政治家桂太郎は最も動かしやすい駒にすぎなかった。(p.66)
 なお曹洞宗は彼の僧籍を剥奪し「宗内擯斥」処分としましたが、1993(平成5)年にようやくその処分を取り消し、名誉を回復しました。そして2005年(平成17)年には、彼を顕彰する碑をここ林泉寺に建立したという次第です。墓地の右手、上方にありますが、後学のため転記しておきます。
内山愚童師の顕彰によせて 曹洞宗

其土地で死ぬ積で無ければ
其土地の人を救ふことは出来ぬと思ひます

 内山愚童師が友人・石川三四郎に語った仏教者としての叫びの声です。
 こう語った仏教者は、ここ箱根の大平台とそこに住む人びとをこよなく愛し、民衆の苦しみや喜びを自らの苦楽として仏の道を真っ直ぐに歩んでいました。その途上、三十六歳の若さで刑死したのです。本人の遺言によって、その亡きがらはこの林泉寺の墓地に埋葬されています。愚童師のこころは今も、ここに生きているのです。

 一九一一(明治四十四)年一月二十四日、箱根林泉寺住職内山愚童師は、「大逆罪」により幸徳秋水らとともに処刑されました。これが世にいう「大逆事件」です。この事件は、当時の政府が社会主義運動を一網打尽に壊滅させることを最大の目的とした、極めて冤罪性の強い暗黒裁判でした。愚童師の場合は、当時の不条理な国家権力への非難が昂じた発言にすぎなかったのです。
 曹洞宗も国家権力へ追随するかたちで、死刑執行の前年一九一〇年(明治四十三)年六月二十一日付で「宗内擯斥」処分とし、愚童師の僧籍を剥奪しました。
 当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、二本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、その後の日本の体制のあり方と進路を決定づけました。これによって民衆は愚童師のいう「独立自活・相互扶助」の主体性をもつことを禁止され、人権や自由が抑圧され、世論が時の政治権力に都合の良いように操作されて、軍国主義の破局へと突き進んでいきました。
 宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。
 宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、あまりに不誠実であり冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての名誉を踏みにじったまま、八十有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです。
 一九九三(平成五)年四月十三日、ようやくにして「宗内擯斥」処分を取り消し、宗門僧侶としての名誉の回復を宣言いたしました。
 私達は今日、愚童師の先見性に改めて刮目しなければなりません。
 「戦争は総て罪悪也」
 「人類の終局目的は独立自活・相互扶助にある」
 「女子は男子の附属物ではない」
と、あらゆる戦争を拒み、独立自由と、異なる立場の人々との共存を理想として掲げ、女性の人権尊重までも主張しています。
 ここに、愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門の罪過を心より懺謝するものです。
 最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀い、泰然として死に臨んだ愚童師に対し、その確固たる信念を永く顕彰し、宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを改めてここに誓願します。

 二〇〇五年(平成十)年一月二十四日
 なお、大逆事件で無期懲役となりのち獄中で縊死した高木顕明に対して、擯斥(僧籍剥奪/宗門追放)処分を課した真宗大谷派は、その三年後の1996年にその取り消し・謝罪・名誉回復を決定しました。同じく無期懲役のち獄中で病死した峰尾節堂に対しての、臨済宗の処分の有無やその後の経過についてはわかりません。こんど調べてみよう。

 この事件は決して過去のものとして忘却の淵に沈めることはできません。国家に抗う者や国家の利益を脅かす者への、権力による仮借ない迫害と弾圧、あるいは無視と排斥。そして国家権力の爪牙となって、そうした非人間的な行為を「合法」という糖衣でくるみ、隠蔽してしまう司法。沖縄の米軍基地問題、乱立する危険な核(原子力)発電所と福島第一原発事故、教員に対する「日の丸への起立・君が代斉唱の強要」、すべてこの文脈からとらえられる事態だと考えます。さまざまな圧力・暴力とともに、「国家を愛せ・国家に従順であれ」とつきまとう恐るべきストーカーのような国家・日本。その始点としての大逆事件にはこれからもこだわり続けていきたいと思います。「独立自活・相互扶助」を理想として掲げながら…

 拙ブログで紹介した大逆事件に関する史跡・旧跡等をあらためて紹介します。よろしければご照覧ください。
明科・湯河原「天野屋」市ヶ谷刑場跡・管野スガの墓幸徳秋水の墓古希庵函館市文学館雲魚亭大逆事件顕彰碑大石誠之助・高木顕明・峰尾節堂の墓大石誠之助宅跡養老館・浄泉寺・西村伊作記念館

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2012-05-05 07:14 | 関東 | Comments(0)
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