さてそれでは岡崎を紹介しましょう。町は家康の父祖・松平清康によってつくられ、家康もここで生を受けました。しかし8歳の時に今川家の人質となり、父広忠も家臣に殺されてしまいます。桶狭間の戦いの後、19歳の時にここ岡崎城に戻り、十年後に浜松城に映るまで居城することになります。家康が駿府城から江戸に入ったのが1590(天正18)年8月。同年10月には、豊臣側の田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりましたが、その際に外敵を防ぐために屈折の多い道にしたのですが、これが二十七曲り。岡崎といえば八丁味噌、岡崎城から八丁(約900m)離れた八丁村でつくられたところから命名されたそうです。原料の大豆、矢作川の湧水と舟運、吉良の塩と好条件にめぐまれ、江戸時代にはこの地の特産となりました。別名三州味噌、原料は大豆と塩だけ、長期保存可能で、寒暑にも変味せず、携帯に便利という特色があり、三河武士の兵糧として用いられました。城下町の面影と八丁味噌蔵が当地の目玉です。そうそうわが敬愛思慕する菅江真澄がここ岡崎の出身なのですね。残念ながら関連した史跡はないようですが。あるのかな。
十分ほどで二十七曲りの碑に到着、このあたりから屈曲の多い道がはじまります。近くでおちょぼ口の
フェイス・ハンティング物件をゲット。
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岡崎げんき館の前を通り過ぎると、煙草屋兼本屋さんがありました。そうそう昔はよくこういうお店があったんですよねえ。その先には「旭綿機製作所」というビルがありましたが、さすがは三河木綿の里です。
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「根石の子どもは根石で守る 根石声かけ隊 岡崎警察署」という剛毅な垂れ幕に、国家権力なんぞ○くらえ!という不屈の闘志を感じ…たいところですが、警察がからんでいるのでそう単純にはいかないでしょう。異形な縦長看板のあるお宅を見かけましたが、文字は判読できず。
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ここで岡崎市郷土館(旧額田郡公会堂と物産陳列所)に寄り道をします。解説板の内容をまとめると、
公会堂は1913(大正2)年に竣工、設計は吉田栄蔵、中央に櫛型ペディメントを設けたルネサンス様式。物産陳列所も同年に竣工、妻面にハンマービームを用いたスティックスタイル…と言われてもどういうスタイルなのかわかりませんが。いずれも、瀟洒で上品で愛らしい好建築でした。なお公会堂と物産陳列所がそろって残っているのは貴重だそうです。
本日の二枚です。