散歩の変人

『流麻溝十五号』

 やれやれ、いろいろと報道を読んでいると、どうやら自公政権は能登の復興に本腰を入れる気はないようですね。地域のトリアージをすでに始めているのかもしれません。そのくせ軍事費には湯水のように税金を投入しようとする。その理由として彼ら/彼女らは中国の脅威、とりわけ"台湾有事"を強調しますが本当でしょうか。自公政権の口車に乗らず、冷静に事態を見つめていきたいと思います。まず私たちは、中国の政府は、中国の人びとは、台湾の政府は、そして台湾の人びとは、それぞれ現状についてどう考えているのかを知ることが大事だと思います。
 その台湾の人びとが今どう考えているのかを伝えてくれる記事が『週刊金曜日』(№1482 24.7.26)に掲載されていたのでぜひ紹介します。野嶋剛氏による『新龍中国67 書店で感じ取る台湾人の「脱中国」』という記事です。

 では、台湾の人々が対中関係で「統一か独立か」で迷っているかというと、まったくそういうことはない。統一には興味はない。独立は無理。だから現状維持という名の「事実上の独立」を守る、ということに尽きる。国民党・馬英九(マーインジュウ)政権と民進党・蔡英文政権の16年間を経て、台湾では議論が着地点を見出した感がある。(p.34)

 そう考えると、台湾で起きているのは反中国ではなく、独立運動の激化でもなく、現在進行形の「脱中国」であると理解するのが妥当なのである。台湾独立については「すでに独立した主体である」ということを台湾の人々は表明しており、その「すでに」の中に、中国の激怒を招く独立宣言は当分「冷凍」しておく意味が込められている。ただ、心のなかでは、静かに脱中国が着実に進んでいる。(略)
 台湾について講演や執筆する機会をいただくと、いつもこの話をしているのだが、台湾理解で最も大事なことは「台湾人こそが台湾理解を欲している」という逆説的な台湾人の心情を、どのように私たちは受け止めるべきか、ということである。
 いま彼らは、台湾は台湾で、中国ではない、という価値観の社会に生きている。しかし、1990年代ぐらいまでは、台湾は中国で、台湾人は中国人である、という価値観が主流だった。この価値観の転換は本来革命的なもので社会暴動などが起きてもおかしくなかったが、そこは民進党も国民党もケンカはしても流血だけは避ける、という暗黙の了解を守ってきた。だから台湾の政治的変化は非常に漸進的であったし、だからこそ「静かな革命」と呼ばれたりもしたのである。
 しかし、台湾人の熱い火は「知的欲求」となって台湾の社会をなお包んでおり、まだ温度を失っていない。7月に公開が始まった台湾映画『流麻溝十五号』もまた白色テロという戦後台湾の痛史発掘に賭けた創作者の執念が結実したものだ。
 台湾における台湾史ブームは新しいアイデンティティを固めていく人々の「自分探し」の発露であり、騒がしい政治や軍事の話とは別に、台湾に関心を持つ日本人に知ってほしい一面である。(p.34~5)

 なるほど、たいへん参考になりました。その台湾の戦後史を描いた映画『流麻溝十五号』を吉祥寺アップリンクで観てきました。公式サイトから引用します。

イントロダクション
 日本統治時代が終わり、1949年に中国での共産党との戦いに敗れた蒋介石とともに台湾にやってきた台湾国民政府による、恐怖政治下で戒厳令が敷かれていた時代「白色テロ」。台湾南東岸に位置する面積約16平方キロの自然豊かな島・緑島*。第二次大戦後、この島には30年以上もの間、政治犯収容を目的とした教育施設と監獄が置かれていた。思想改造及び再教育を目的とした「新生訓導処*」は1951年から1970年まで設置され、収監された人々は名前でなく番号で管理されていた。
 映画のタイトルとなった『流麻溝十五号』は、身分も年齢も違う女性たちが収容されていた住所である。当時、政治思想犯として拘留されていた者の中には14歳の子どももいた。今回、監督を務めたのはこれまでも一貫してジェンダー平等の視点から数々の作品を手掛けてきた周美玲(ゼロ・チョウ)。高校生・余杏惠(ユー・シンホェイ)を演じたのはシンガーソングライターとしても活動する余佩真(ユー・ペイチェン)。モダンダンサー・陳萍(チェン・ピン)を演じるのは数多くの作品に出演している連?涵(リェン・ユーハン)。一児の母で看護師でもある嚴水霞(イェン・シュェイシア)を演じるのは、2008年に日本公開した周美玲監督作『彷徨う花たち(原題:漂浪青春)』で映画初出演を果たし、女優業にとどまらず、監督、脚本家、作家と活躍する徐麗?(シュー・リーウェン)。
 民主化の道を歩み始めて37年―。台湾初の女性政治犯を扱った映画を日本公開する。
*緑島:台湾の南東岸に位置する面積約16平方キロの小さな島。日本統治時代は火焼島と呼ばれ、戦後の1949年に緑島と改名された。
*新生訓導処:政府単位の管轄下にある訓練組織で、1950年に台北の内湖に設置されていたが、1951年に緑島に移される。思想犯や政治犯を監督し更生させるための最大の強制収容所であり、労働更生と思想改革の二重の機能を果たしていた。当時、各部隊は120~160人。最大収容人数は2000人を超え、計12部隊で構成されていた。その内の第6部隊に当たるのが女生分隊だった。

ストーリー
 1953年、自由を口にするものは政治犯としてすぐに捕まる時代。政治的弾圧が続く中、罪を課せられた者は思想改造および教育・更生のため緑島に収監されていた。連行された者たちは、名前ではなく番号に置き換えられ、囚人として「新生訓導処」に監禁、重労働を課せられる日々を余儀なくされた。
 純粋な心を持つ、絵を描くことが好きな高校生・余杏惠(ユー・シンホェイ)。ひとりの子どもが生まれて間もなく投獄された正義感の強い、看護師・嚴水霞(イェン・シュェイシア)。妹を拷問から守るため自首して囚人となった陳萍(チェン・ピン)。
 次々と迫る不条理に対しても思考は止めず台湾語、北京語、日本語などあらゆる言語を駆使しながら一日一日を生き延びようと過ごす人々。時の為政者は何をしてきたのか。考えることは罪なのか。これまで閉ざされていた歴史に、また一つ光が射す。

 冒頭、船で孤島に送られてきた新入りの女性たちが、私服を脱がされて囚人服を着せられ、そして名前を奪われて以後は番号で呼ばれることになります。そして強制労働、国民党政権への忠誠心と中国や共産主義への憎悪を注入する思想教育と、息が詰まるような場面が続きます。あらためて負の歴史から目を背けずにしっかりと向き合おうとする周美玲監督の姿勢には頭が下がります。
 しかしそうした圧力に毅然と抗う嚴水霞の凛とした姿がこの映画の核となっています。忠誠を誓うという血書を提出することを"志願"しろと、事実上の強制を命じられても、「志願なら拒否します」とやり返す。島民から手に入れた新聞を密かに囚人たちに回覧する。妊娠している囚人の労働を軽減するよう、看守にかけあう。不安に怯える余杏惠を、さまざまな言葉で勇気づけ励ます。

 自治…それは、自分であること。台湾人が自分で自分を管理することよ。

 馬鹿みたいに洗脳されちゃダメよ。自分を見失わないこと。奴らに10やれと言われたら、8やればいいの。

 自分を鍛えて勉強するの。

 そして禁止されている男性囚人との接触をあえて行い、思いのたけを語り合う嚴水霞。

「なぜ台湾は自治ができないんだ。人材がいない?」「いるわ。火焼島に大勢。そうでしょ」「そうだね。医者、看護婦、技術者、教師、大学生。みな知識人だ。人材はいるんだ。新しい国をつくれる」

 台湾人である自分を見失わないこと、台湾人の手によって台湾という国をつくること、監督の熱いメッセージを感じました。台湾における民主化の原点はここにあると思います。
 しかし仲間の密告により新聞を回覧する中心となったことが発覚し、凄絶な拷問の末に本島にある軍法処に送られてしまいます。ここでは政治犯の生死を決定する裁判が行われます。嚴水霞の運命やいかに。そして余杏惠は、陳萍はどうなったのか?

 負の歴史を知り、それと向き合い、自分たちは何者なのか、自分たちはどうなりたいのかを考える。そうした台湾の人びとの熱い思いを代弁するような映画でした。これはそのまま、私たち日本に生きる人間にも跳ね返ってくる問いです。その問いに真摯に答えるには、やはり忘れたい歴史、目を背けたい歴史に向き合うしかないと考えます。それをしようとしない限り、何度でも負の歴史は繰り返されるのではないでしょうか。

 最後に、パンフレットに掲載されていた周美玲監督の言葉を紹介します。

"What is the sin of thinking?"―考えることの罪とは?
"Why is it a sin to think? "―なぜ考えることが罪なのか?
 考えようともせず、考えることをやめてしまう―
 そんな日が自分に訪れたら、どんなに悲しいだろう
 『流麻溝十五号』は、考えることをやめられない女性政治犯たちを描いています。
 彼女たちの心は解放されます。しかし、その思想のせいで肉体は監禁され、虐げられ、殺されてしまうのです。
 このような不条理が起こったのは遠い過去ではなく、私たちの祖母の世代は今なお消えない恐怖を抱いているかもしれません。
 これらの不条理が終わり、永遠になくなることを心から願います。
 しかしながら世界の他の場所では、今なお同じことが繰り返されているのが現実です。不条理に対して私たちにできることは、忘れ去られないように物語を語り継いでいくことだけ。
 そうしないと、いつまた不条理の脅威が戻ってくるかわからないのです。
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# by sabasaba13 | 2024-11-25 07:32 | 映画 | Comments(0)

『アディクトを待ちながら』

 『アディクトを待ちながら』、この映画のことは、『週刊金曜日』に掲載されたナカムラサヤカ監督のインタビューで知りました。お恥ずかしい話、そもそも「アディクト」という言葉も初耳でした。(※依存症患者) 一読、これは観るべき映画だと得心し、山ノ神が所用のため一人で池袋のシネマ・ロサに観にいきました。チラシから引用します。

イントロダクション
 やめたい。やめたい。誰か助けて。依存症は一生治らない-日本人の大多数はそう思っているだろう。政府やメディアが作り上げたイメージによって、多くの人が依存症を克服している事実を知らない。主演の高知東生を始めとし、この映画には実際の回復を続けている依存症者、またはその家族を多数起用、リカバリー・カルチャーの重要な要素の一つである、チーム一丸となり病に立ち向かう姿は、さながら撮影隊が映画に臨む姿勢とオーバーラップする。スリリングなラストの即興芝居は、依存症の苦難を本当に経験したキャスト陣による映画への挑戦である。やめ続ける人、そして待ち続ける人々の生き様を丁寧に描いた、ナカムラサヤカ監督の最新作。

ストーリー
 数々のヒット曲を持つ大物ミュージシャン、大和遼が覚醒剤と大麻の所持で逮捕された。人々は驚き、落胆し、大きなニュースとなった。あれから2年、依存症患者らで結成されたゴスペルグループ「リカバリー」が音楽ホールでコンサートを開こうとしていた。そのメンバーには大和の名前があった。あの事件以来、沈黙を守ってきた大和ついにカムバックする。出演の知らせを聞いたコアなファン続々と会場前に集まった。薬物、ギャンブル、アルコール、買い物、ゲームといった依存症者で構成される依存症ゴスペルグループ「リカバリー」。メンバーたちは互いに支え合い、スリップ(依存症の再発)することなくコンサートにこぎつける。しかし、大和は開始時間を過ぎても現れない。逃げたのか? それともスリップ? 果たしてコンサートは開催できるのか-。

 映画の前半はコンサート開催までの練習や準備を描きます。それと同時進行で、アディクトやその家族の苦悩や治癒への血のにじむような努力が描かれます。中でも買い物依存症の女性の描写には心奪われました。サラリーマン金融に手を出して買い物を続ける主婦。それを娘に見咎められて彼女はこう言います。

 もう、自分じゃどうにもできないのよ。やめたい。やめたい。誰か助けて。

 買い物はもうしたくはない、それはわかっているけれどもやめられない。やめたい、でもやめられない。誰かに助けてほしい。依存症とは、単に意志の弱い者が陥るものでそれは自己責任であるという一般的な見方を覆してくれるシーンです。依存症とは病気であり、誰かが助けなければいけない。
しかし世間は、依存症患者を冷たく突き放してしまいます。

 大体、クスリで捕まるなんてヤバいやつじゃん。クズだよ、クズ。

 薬物って中々やめられないっていうじゃない。ね。だからさ、まあ1回手だしちゃうと人生終わるっていうか。大和遼もさ例外じゃないっていうか。やっぱりこういうのはちゃんと刑務所入んないとダメなのよ。

 これさ、もうまたクスリやってますって眼してない。

 性根が腐ってんのよ。

 ダメなやつはダメなのよ。

 しかしそうした冷たい視線に抗って、依存症患者同士が、あるいは家族や関係者が支え合い助け合う場面も心打たれました。患者に共感を持つある女性(※ポスター下の女性)がこう言います。

 あなたたち人生で1回も間違った事ないんですか? そんなことないですよね? 依存症になった人たちと私たち、大した違いなんてないんです。泣いたり笑ったりしてなんとか生きてる同じ人間。たまたまいろんな条件が重なって、脳が病気になってしまっただけ。私たちも風邪ひきますよね? それって性根が腐っているからですか? 違いますよね?

 そして後半は、なかなかやってこない大和遼(※ポスター上の男性)をやきもきしながら待つ様子が描かれます。タイトルの「アディクトを待ちながら」は、サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」にひっかけたものだと思いますが、大和遼を待つということを含意しているのでしょう。あるいは依存症患者の回復を待つということも意味しているのかもしれません。
 大和は間に合うのか、やってこずコンサートは中止になるのか、なぜ彼は姿を現わさないのか、スリップしてまったのか、それとも何か事情があるのか。手に汗握るスリリングな場面でした。もちろんネタはばらしませんが、あっという結末が待っています。乞うご期待。

 というわけで、依存症についての偏見や先入観が払拭され、その実相や患者の苦しみや痛みを感じることができた映画でした。あるアディクトの言葉が今も心に残ります。

 いくら他人から好かれても、自分が自分の事好きになれなかったからだろ。依存症になるってさ。

 依存症になるということは、自分が好きになれない、あるいは自分に価値がないと思う、そうした心の病、"孤立の病"ではないかと考えました。ある意味、現在の日本社会が、そうした病を生む温床になっているのかもしれません。お金を手に入れ欲望を実現するために競争を強いられ自己責任で結果を受け入れさせる社会。いつ自分が依存症になってもおかしくない、そういう社会に生きているのだと痛感しました。そんな社会でいいのかという思いとともに。
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# by sabasaba13 | 2024-11-24 20:07 | 映画 | Comments(0)

伊勢志摩編(10):四日市(18.9)

 興味深いのは、石油化学コンビナートを礼賛する学校の校歌が、公害の劇化にともなって変更された事例ですね。塩浜小学校と四日市南高校の事例が紹介されていました。

塩浜小学校
【旧校歌】
 港のほとり 並びたつ
 科学の誇る 工場は
 平和を護る 日本の
 希望の 希望の 光です
 塩浜っ小(こ)  塩浜っ小(こ) 僕達は
 明日の日本 築きます

【新校歌】
 南の国から 北の国
 港出ていく あの船は
 世界をつなぐ 日本の
 希望の 希望の しるしです
 塩浜っ小(こ)  塩浜っ小(こ) 僕達は
 明日の日本 築きます


四日市南高校 「南高 同窓会会報 第35号」 2004(平成16)年7月10日
 母校、南高は昭和三十四年四月に開校した。一期生として入学した我々は、富州原の仮校舎でスタートした。校章も仮、高橋先生作詞、二五先生作曲の仮の校歌、運動場や体育館はもちろん借りものと、仮と借りで肩身の狭い思いをしたものである。
 しかし、翌年には新校舎が完成、正式な校章も出来上がり、順次高等学校としての全容が整っていった。
 そして昭和三十八年、念願の校歌が制定された。作詞は当時新進の詩人・谷川俊太郎、作曲は同じく新進の音楽家・武満徹であった。谷川三十二歳、武満三十三歳のコンビで、斬新な「校歌らしくない校歌」が誕生した。

 登城が丘の草の上
 ひたむきに若さを生きる
 歌声の海へ広がる
 この丘にわれらはまなぶ
 喜びも悩みも共に

 なんとも情感が広がる詩である。私はまったく在校生時代に歌っていないが、同窓会長をお引き受けしているお陰で、年に一度の総会で校歌を全員で歌う機会があり、楽しく歌わせてもらっている。
 しかし、校歌の三番の「炎を上げるスタッグが」が、「心にひめた問いかけは」に、また最後の「新しい力を持って」の「力」が「答」に変わったことを知っているのは、卒業生の中でも少ない。
 校歌改訂は歴代校長の申し送り事項であったようであるが、創立二十周年を機に、当時の赤嶺校長先生が谷川氏に依頼して改められたのである。
 校歌が制定された時代は日本経済が高度成長にむかって歩み始めた頃で、四日市も時代を担う新しい産業としてコンビナートの操業が本格的に開始された。ところが明るい未来の象徴だったはずの「炎を上げるスタッグ」が公害・四日市ぜんそくのシンボルとなったのである。
 谷川氏は後に「当時の私の意識のなかで、炎を上げるスタッグはいわば新しい山水に化していた。私は知らず知らずのうちに、学校を国家隷属させる手助けをしていたといえるだろう。その点で、私は「大御代」を歌った明治の大学教授と変わるところはなかった」と述べている。
 また「力」が「答」に変わったのも、力で物事を制する時代ではないとの思いが、谷川氏にあったのであろう。中庭にある校歌の碑は、創立二十周年を記念して同窓会が寄付したものです。
 私の母校自慢は校歌である。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲と言うと、まず人はびっくりする。卒業生も在校生も、もっと誇りに感じてほしいと私はおもっている。そして、この改訂の意味を知って歌えば、校歌に対する想いも増してくるのではないだろうか。

 かつて小学生がつくった標語「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板が、福島県双葉町から撤去されたことを想起しました。科学技術の進歩には、常に批判的な眼を持つことが必要だと痛感します。
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 追記です。谷川俊太郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

# by sabasaba13 | 2024-11-23 06:39 | 近畿 | Comments(0)

伊勢志摩編(9):四日市(18.9)

 それでは展示の解説を抜粋して、四日市ぜんそくの歴史を紹介します。

第一(塩浜)コンビナートの建設
 戦後、石油産業はGHQにより厳しく統制されましたが、国際情勢の変化を受け占領政策は大きく変更され、統制が緩和・廃止されました。
 占領が終了すると、国は1955(昭和30)年に四日市などの旧軍燃料廠跡地の払い下げを決定しました。
 国の石油化学工業育成政策を受けて、旧第二海軍燃料廠の跡地には第一(塩浜)コンビナートが建設され、1959(昭和34)年に本格稼働をはじめました。

公害の発生
 沿岸部では昭和初期より工場排水に伴う漁業被害がありましたが、1959(昭和34)年に第一(塩浜)コンビナートが本格的稼働をはじめると、異臭魚などの漁業被害の範囲が広がりました。
 同時期、悪臭・ばいじん・騒音などの苦情が市に寄せられるようになり、さらに亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を主な原因とする深刻な健康被害が発生しました。

亜硫酸ガスによる大気汚染
 1960(昭和35)年、塩浜地区連合自治会は市に対して「工業地帯からの騒音とガスで夜もおちおち眠れない」と善処を求める陳情をしました。これが大気汚染に対する最初の住民の動きでした。
 その後の調査で、大気中に多量の亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が含まれ、特に塩浜地区の濃度が高く、その周辺から北西部の広範な地域に大気汚染の影響が及んでいることが分かりました。

磯津での高濃度汚染
 四日市では冬季に北西の季節風が強く吹きます。このため第一(塩浜)コンビナートと鈴鹿川を隔てて風下に位置する磯津では、強風時に発生するダウンドラフト現象によって、コンビナート工場群の低い煙突からのばい煙の影響を強く受け、高い濃度の亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が測定されました。
 一方、夏季には主に弱い南東の風が吹き、コンビナート北西部の広範な地域にばい煙の影響が及びました。

呼吸器系疾患の広がり
 大気汚染が激しくなっていく中で、1961(昭和36)年の夏ごろから、磯津の中山医院に来院するぜん息などの呼吸器系疾患の患者が増えはじめました。
 翌年、塩浜地区の連合自治会が行った「公害病調査」では、全調査対象人口2,649人のうち、ぜん息などの呼吸器系疾患の患者数が約1割の261人に達していることがわかりました。

患者の苦しみ
 重度のぜん息発作は、呼吸が困難になり生命の危機にさらされることがあります。発作は夜間に起こることが多く、発作のないときは健康な人と変わらない様子のため、病気への理解をえることができない場合がありました。また、患者や家族は病気だけではなく、生活や学業にも支障があり、これらのことにも苦しみました。
 患者の一人は、その症状を「ベッドに寝ておるうちは、まだ軽いほうで、もうすべり落ちて、もう苦しみ、のたうちまわる状態」と表現しました。
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# by sabasaba13 | 2024-11-22 08:24 | 近畿 | Comments(0)

伊勢志摩編(8):四日市(18.9)

 観光案内所で観光地図をもらい、「とんてき」を食べられるお店を教えてもらい、自転車を借り受けました。そして駅の近くにある「トンテキ屋 ちゃん」に入り、四日市のご当地B級グルメ「とんてき」を注文。分厚く切った豚肉をニンニクと一緒に濃い目のソースで炒めたっぷりの千切りキャベツを添える、いきなりレッド・カードが出されそうな料理です。実はずっと食べたかったんです。お、ご来臨。むしゃむしゃむしゃ、美味い! なんとも濃くてくどくて土俗的な、ブレイディみかこ氏のエッセイのような味ですがたまりません。東京でも日常的に食べたい逸品ですね。
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 そして四日市市立博物館に併設されている四日市公害と環境未来館へ行きました。
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 公式サイトより転記します。

 昭和30年代、四日市市では公害が発生し、多くの人が健康被害や生活被害を受けました。その歴史と教訓を次世代に伝えるとともに、環境改善の取り組みや、産業の発展と環境保全を両立したまちづくり、経験から得た知識や環境技術を広く国内外に情報発信することを目的に、四日市公害と環境未来館が開館しました。
 当館では、四日市公害の発生に至る経緯や被害、環境改善に向けたさまざまな方策等について、子どもから大人までを対象に、映像や写真、絵本などを用いてわかりやすく展示しています。そして、歴史を「知る」、これからの環境問題を「学ぶ」、未来のために「活動する」、3つの機能を軸としています。

 水俣病資料館イタイイタイ病資料館など、公害が起きた地域を訪れて資料館等があったら必ず見学するようにしています。今回もその一環です。

 時間をとってじっくり見学しましたが、詳細な解説や充実した映像ライブラリーなどたいへん見応えがありました。患者や関係者へのインタビュー映像には思わず見入ってしまいました。
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 また「昭和初期のくらし」と「高度経済成長期のくらし」の復元展示なども興味深いものでした。ある意味で、石油化学製品の暮らしへの普及が、公害の原因となったコンビナートをもたらしたのだと言えるかもしれません。

昭和初期のくらし
 この展示は、昭和初期の家屋の一部を再現したものです。
 四日市でも電気は使用されていたものの、上水道はまだあまり普及していませんでした。
 また、ガスも一部では使用されていたものの、多くのところでは、炊事や暖房などの燃料として薪や炭などが用いられていました。
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高度経済成長期のくらし
 この展示は、1961(昭和36)年に建設された高花平団地の市営住宅の一室を再現したものです。
 家庭ではナイロンなどの合成繊維やプラスチックなどの石油からつくられる製品が増え、テレビ、洗濯機、電気冷蔵庫などの家電が普及していきました。
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# by sabasaba13 | 2024-11-21 07:04 | Comments(0)