科学の大著2冊と”心のメス”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
過日投稿した矢沢先生が引かれていた
書とその続編をざっと読んでみた。
竹内薫先生が茂木先生と対談時に
速読で文句言う科学者が多い、と言うのも
わかる気がするが速読、というか
自分の場合、視読で
科学者じゃないのは言わずもがなです。
第5章
進化論生物学の終焉(おわり)
ガイア異説
から抜粋
彼女はーーーガイアについてよく言われているーー地球は一つの生きている生命体だとする考え方には反対だった。
「地球は明らかに生き物ではないわ」
とマーグリスは言った。
「だって、排出物を循環させる有機生命体は一つも存在しないじゃない。
それはあまりにも擬人化された考えで、てんで間違ってるわ」。
ジェームズ・ラブロックは、環境主義の助けになるだろうと考え、それが自分自身の半ばスピリチュアルな傾向にあっているという理由から、この隠喩を使うことを奨励していたのだ。
「彼は。古い考え方よりいいから、許される譬(たと)えだというけれど、私はそれは間違っていると思うの。だって、不合理な考え方を助長しているって、ほかの科学者を怒らせるだけじゃない」(事実、ラブロックも、聞くところによれば、ガイアについての自分の当初の主張にやや疑いの念を見せて、その名称をやめようと考えているらしい)。
グールドとドーキンスは、二人とも、ガイア仮説を似非科学、つまり理論を装った詩にすぎないとしてあざ笑っていた。
しかし、マーグリスは、少なくともある点ではその二人よりももっと徹底した実証主義者だった。
グールドとドーキンスは、自分たちの地球上の生命についての見解を支えるために、地球外生命についての憶測を持ち出した。
マーグリスは、こうしたやり方を嘲った。
それがダーウィン的であっても、そうでなくても、宇宙の別のところの生命の存在についての主張は、全くの空想に過ぎないと彼女はいった。
どんな答えもありじゃない?ありそうだとか、ありそうでないとか。だから私には、そういうことについて、どうして強固な意見を述べられる人がいるのかわからないわ。
だから私に言わせれば、意見は科学とは言えません。科学的な根拠もないなんて!ただの意見に過ぎないじゃないの!」
監修者序文 筒井康隆
から抜粋
前著でホーガンは物理学、宇宙論、進化論生物学などの終焉について、それらが古典的な発見以来、新たに何も附加することのない半ば功利的なお遊びになってしまっていることを論評した。
ダーウィン以後の進化論生物学が何ももたらさず、ダーウィンへの反論の氾濫こそがダーウィン以後に何の発見もない証拠であると主張したホーガンは、ここでもまた、心や意識の問題が、フロイト以後、何も明らかにされていないと言いたいようである。
神経科学も、心理学も、精神分析や精神薬理学などの精神療法や精神医学も、遺伝子科学も、さらにダーウィンまでが救援に駆り出されている進化心理学も、果ては人工知能の探究も。人間の心の解明、意識というもののありよう、自由意志の生まれる仕組みなどについては、ほとんど何も解明されていないことを論じ、それを結論としている。
小生も著者ホーガンの立場に近いので、例えば神経科学者の誰それや人工知能研究者の誰それのように、心の解明に関して楽観的にはとてもなれない。
確かに各分野における進歩は目覚ましく、重要な発見は多数にのぼるのだが、それはあくまでも細部のデータを積み上げているだけの状態に過ぎず、「意識とは何か」に一歩でも迫るものではないのである。
多くの一般読者と同様、小生も「なんだ、それでは近年、心というものに関してはまったく何もわかっていず、科学的な発見はほとんどなかったのか」と落胆する以前に、まず
「科学によって意識が解明されるわけはない」と思ってしまうのである。
実際、「からだに科学のメスを入れられるのならともかく、この俺の心にまで科学のメスを入れられてたまるものか」と思うのは小生だけであろうか。
ゴシップと混同されそうな科学者への論考の書だと
思ったけれどもそれだけでは当然済まないほどの
価値を誇っていると思わせられたのでございます。
筒井先生、前著の序文でも書かれているのだけど
同時期に文学も終焉がシンクロしていると説かれ
ホーガン先生と気持ちが近いしいとされているが
続編の序文で最後にちゃぶ台返しをされる様は
まるで鴨長明の方丈記のようだなあと思ったりして
その読み方は科学とまるで関係ないじゃん、とも
思いつつドーキンスやグールド、
リン・マーギュリスとの一戦交えた論考や
チョムスキーの文などは興味深く拝読したけれど
まだまだ理解度が浅いため再チャレンジしたい
この膨大な書は文庫で手に入れたいと思っている
夜勤前なのでございました。
2冊の『科学の終焉(おわり)』の周りから考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
過日投稿した書籍の最後に
引かれていたこの書を読むにあたり
参考書2冊を拝読してみた。
対談者:中沢新一
科学の終焉
最後の審判から抜粋
中沢▼
僕は大学で生物学を勉強してたんですが、途中で宗教学に変えました。
ジョン・ホーガンの『科学の終焉』を読んでいて、その当時考えていたことを思い出しました。
ちょうどその頃は、遺伝学のモノーが出てきた頃です。
ものすごく視野が開かれたという人もいるけれども、僕はなんてのか、終焉の感覚みたいなものを感じたんですね。
遺伝子の解析を通じた生物学で、生命を解読しようとしているプロジェクトが今まさに始まろうとしている時期に、僕はこのプログラムって、20年ももたないうちに終わっちゃうんじゃないかと思ったんです。
養老▼
それはよくわかります。
僕もジャコブとモノーの論文を読んだんですね。
その論文がものすごくきれいで、同じことを考えていた。
この分野では、これ以上きれいな話は出ないって、直感的にそう思いました。
僕の中では、そういうのをノーマルサイエンスと呼んでいます。
ちゃんと定義すれば、始まった時にすでに終わりが見えるというタイプの科学が西洋の科学ですね。
だから『科学の終焉』を読んで、今ごろ何言ってるんだよという人もいるでしょうが。
もう一つ読んで感じたのは、著者のジョン・ホーガンの立場ですね。
彼のスタンスが、今のアメリカ文明の本音をきれいにあらわしている。
科学といえば、大文字でジ・アンサーを求めるものだという前提に立って、それぞれ現役の科学者に訪ねていくという形式をとっている。
でも我々には、そんなもの、初めからあるわけないじゃないか、っていうところがある。
そういう意味では、日本の問題としてどこが違うのかということを語っていただこうと思ったんです。
これからどうなっていくのか知りませんけれど、今は大真面目にジ・アンサーを探していく世界があるわけですね。
中沢▼
そうですね。
その本にも取り上げられているF・フクヤマの『歴史の終焉』という本が出た時にも、それとよく似た違和感を感じたものです。
まあ、早い話がベルリンの壁が崩壊して、ソ連がなくなって冷戦が終結すると、ヘーゲルが描いたような、近代を作り出していく理性に突き動かされた歴史は終わるんだという議論なんですけれども、アジア人である日本人の感覚からすると、うそつけ、よせやいっていう感じでしたね。
歴史がヘーゲルが描いているようなヒストリーであり、物語であり、合理的な目的性を持って進んでいくものならば、最終的な解答へ向かって進んでいくでしょう。
そこからヘーゲルやマルクスは、最終的なユートピアが理性の王国として作り出されてくると考えたわけだけど、アジア人の歴史感覚からすると、歴史に目標があるとか、到達点があるとか、最終的な解答にたどり着く大きな物語だとか、考える感覚になってないと思います。
養老▼
そうですよ。
物理の世界だって最終的には、エントロピーが徹底的に増大した、熱力学的平衡の世界じゃないですか。
それが歴史の終焉だというならともかく、ユートピアなんていうのは熱力学的な思想の対極ですよ。
そんなものあるわけがないというのが、我々の直感ですね。
中沢▼
冷戦が終わろうとも、ヘーゲル的な歴史が終わろうとも、歴史は終わらない。
物理的には終わりこない限り、人間の営みとしての歴史はどこまでも終わりなく続いていく探究のプロセスで、それは生命と同じものなんじゃないか、と僕たちは直感的に思いますがねえ。
養老▼
やはり聖書が重なっちゃいますね。
ジ・アンサーっていうのはある意味で最後の審判ですよ。
最終的な解決があるんですよ。
誰ですか、こんなことを教えたのは(笑)
中沢▼
神様(笑)。
やっぱり聖書ですね。
アメリカで現代科学を引っ張ってきた人々の大半は、ユダヤ人でしたでしょう。
聖書は「最初」を立てますから、その都度「最終」がイメージされることになる。
原爆の開発がユダヤ人科学者たちによって指導されたことには、宗教学的な意味が隠されていると思います。
第三部 科学+哲学+文学
脳のクオリアと志向性で
すべてが語れるじゃないか
『科学の終焉(おわり)』裏の評判は最悪?
から抜粋
竹内▼
またこれは自分のことで恐縮なんですが、『科学の終焉(おわり)』を翻訳した時、新聞なんかに書評がたくさん出るわけです。
評判は非常に良かったんですが、逆に科学者サークルからは厳しい辛辣な意見が来ました。
茂木▼
僕もいくつか「裏の書評」を読みました(笑)。
竹内▼
日本っていうのは表のマスコミの世界と裏の世界があるんですよね。
茂木▼
その「裏」が、実は科学者の中では「表」なんですよね。
竹内▼
そこが非常に怖いところで、科学者は表と裏の区別がないようなところがあって、裏の評判だけでこの本は悪いとか言うんですよ。
実際、ある方とこの前お酒を飲んだ時に、バトルトークみたいになったんですけれども、僕が非常に面白かったのはその人があの本の批評を展開していた時にどういうところを言っていたかというと、複雑系の研究のところ。
茂木▼
友だちをけなしたから悪いというんでしょ。
竹内▼
その友だちの人格みたいなものを非常にこの本が描いている。
『科学の終焉(おわり)』の場合、そこを非常に描いているわけです。
こういう人物がこういうことをやってというのをすごく書いていて、自分が会った時の印象から机にけつまずいたなんていうところまで書いてあるんです。
そこに切り込んでしまったことが科学者の激怒を買ったというか。
ホーガンは次に来るものに触れちゃっているからカッコいい!
から抜粋
茂木▼
僕は『科学の終焉(おわり)』とかウィッテンの話に絡んで言いたいことがある。
だいたい日本の小説家や哲学者は、科学的な素養がなさすぎるんです。
チューリングとかコンピュータとかあったうえでのポストモダンなんですよね。
竹内▼
まあ突き抜けているところがあるわけですよね。
茂木▼
だからウィッテンが数学が世界を作ってしまっているって言うのも、そういう意味ではポストモダンなわけで、今更ながら21世紀にならんとしている時に、人間の精神がどうのこうのという時に、自然科学という、まさに人間の世界観を変えてきた知の領域で今までどういうことがあったかを押さえないで言っても意味ないじゃないですか。
茂木先生この後、日本文学のある作品を例に出され
それはもう使い古された手だとされ
ホーガン氏の方が先に行ってるとご指摘されている。
竹内先生が指摘されている複雑系の研究ってのが
何を指されているのか、さらにポストモダンが何かを
いまいち理解できてないのだけれど
養老先生・中沢先生たちが指摘されているのは
そこではなくもっと根源的なような気がした。
『科学の終焉(おわり)』には続編もあり
それからざっと20年以上経過しており
今それを研究する意味などあまりないのかも
しれないけれども、過日映画「オッペンハイマー」を
鑑賞させていただき、科学者と政治とか、世界を
考えてしまいここのところ、その手の書籍を
再度読み直しておるのでございますが
難しすぎて一旦夕食にしたいと思っている
夜勤明けの休日でございました。
ハラリ博士の視点を炙り出すおふたりの考察から [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
過日投稿もいたしましたこの書でしたが
最近ハラリ博士の書を読み
また福岡博士の書も読み再度興味が湧き
読み返してみたのでございます。
前読んだ時はまだジャレド・ダイアモンド博士も
未読でハラリ氏に興味があったのに対し
今回は『サピエンス全史』に興味がスライド
いたしました。
『サピエンス全史』はなぜ書かれたのか、何を問うているのか
ユヴァル・ノア・ハラリ
池上彰
いろいろな視点からの歴史
から抜粋
池上▼
私たちは小麦や米を栽培するようになったと聞かされてきましたが、この本を読むと、小麦が人間を家畜化したと書いてあります。
さしずめ日本ですと、米が人間を家畜化したということになるんでしょうけれども、この発想の転換には驚かされました。
ハラリ▼
作物が人間を家畜化したのであって、人間が作物を家畜化したではないという着想は、人間からではなく微生物や動物、植物から歴史を見ることで可能になりました。
米の視点から歴史を考えてみましょう。
二万年前、米は重要な植物ではありませんでした。
東南アジアの片隅で育成されていましたが、広まっていませんでした。
でも、米がホモ・サピエンスという類人猿を家畜化したのです。
ホモ・サピエンスは米を育てるために一日中働くようになりました。
稲を植え、国中に田をひろげ、水、肥料を与え、日の出から日の入りまで一日中、米を見守り続けなければならなくなりました。
何百万もの人たちが米づくりしかやらなくなりました。
つまり米から見たら、人間を家畜化したのは米であり、人間が米に奉仕しているのであって、逆ではありません。
私たちはホモ・サピエンスの最後の世代だ
から抜粋
池上▼
コンピューターのソフトに例えますと、人類の生まれた時は人類1.0だった、それが認知革命によって1.1になり、農業革命で1.2になり、科学革命で1.3になった。
今度は人類2.0になるということでしょうか。
ハラリ▼
そうです。
これまでは革命が起こるまでに何千年もかかりましたが、これからはほんの2、30年もかかりません。
今私たちは自らを動物から神々へと変えているところなのです。
これは比喩的ではなく、文字通りに、かつて神から与えられた能力だと考えられていた能力を獲得しようとしているのです。
私たちはいかにして生命をつくるかを学び始めています。
これはもはや神々だけのものではないのです。
同じように多くの科学者やビジネスマンが老化と死にうち勝とうとしています。
例えばGoogleは、死という問題を解決するために「カリコ」という子会社を設立しました。
その他にも多くの企業家やビジネスマンが明日にはとまでいかなくとも、100年以内にはバイオテクノロジーの活用によって人間の生涯を無限に延ばすことができると真摯に考えています。
かつて人々は神々だけが死に打ち勝つことができると考えていました。
今は技術者がそれをできると考えています。
話は、バイオテクノロジー、政治、さらにAIについて
及びまして、さらに興味深いのでございます。
池上▼
今おっしゃったように、AIの技術がどんどん進んでいる。
それに対して、政治のシステムはなかなか追いつけないような現状がありますね。
そこのギャップが色んな問題を引き起こす。
そこで私たちは何をすべきでしょうか。
ハラリ▼
まず重要なのは、政治、政治家、そして政治システムが科学と技術の進歩についての認識を深めることです。
私たちはもはやこの二つのシステムを分けて考えることはできません。
もし政治システムがこの科学の現在を理解していなければ、21世紀の人類のために有意義なビジョンを描くことはできないのです。
第二に重要なのは、人間の心と意識を理解するためにもっと努力することです。
私たちは体と脳の理解のために大きな努力をしていますが、私たちの問題の根源は脳ではなく心です。
人類の不幸と幸福の根源は心のパターン、私たちの心のパターンなのです。
自分自身にとって、そして人生にとって何が重要か、そして幸福と不幸の根源が何かを本当に理解するには、体や脳を理解するだけではなく心を理解する必要があります。
21世紀において、未来への確かなヴィジョンをもって、人類の未来にとって賢い選択をするには、政治と科学はもっと緊密に協力し合う必要があります。
※この対談は2017年1月4日に放送されたNHKの「クローズアップ現代+」のため行われたものです。
当代きっての論客と互角に対談されておられ、
さすが池上先生、なおかつ『サピエンス全史』が
何を言おうとしているのかも
自分にはよく分かった、というと言い過ぎかも
知らんのでございますが。
認知革命はゆっくりと進行した
『サピエンス全史』をめぐって
福岡伸一
認知革命は突然変異か?
から抜粋
私が少し不満なのは幻想や虚構をつくり出す能力がサピエンスをサピエンスたらしめたという主張です。
それを彼は認知革命と言って、だいたい七万年くらい前に起きたのではないかと考えています。
その転換は幻想、虚構をつくる能力を身につけたということによってもたらされたとハラリさんは考えます。
そこで彼は「たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をすることが可能になったのだ」と書いている。
つまり偶然生じた遺伝子の突然変異によって一気に身についたとしているのですが、これは生物学的にはすんなり納得することはできません。
もし集団内にたまたま現れた突然変異によって認知革命を身につけた人の個体があって、それが集団の中で増えて行ったとしたら、すべての言語には共通の祖先があったはずです。
インド・ヨーロッパ語は共通だけれども、明らかに日本語や中国語やエスキモーの人たちの言語は異なる。
むしろ同時多発的に色んなところでものに名前をつけるという言語の行為が発生しているし、風土の影響を多分に受けている。
日本には風とか雨とか記述する言葉がたくさんありますが、英語では雨はRainだけであるとか、ネイティブインディアンは野生動物をたくさん言い分けられるとかということが色々あります。
だから認知革命はもっと前に起こっていて、その人たちが世界中に拡散して、それぞれの風土に育まれながら言葉を獲得していったという風に考えた方がいいのではないか。
ただもしネアンデルタール人が生きていたら面白いという問題提起は大変興味深い。
なぜこの世界は西洋化されたか
から抜粋
このように虚構の中でもある種の虚構だけがだんだんドミナント(支配的・優勢)になった。
ここに出てくる、どうしてこの世界が西洋化されていったのか、どうしてアジアの人たちは虚構の文化史の中で負けてしまったのかという問題は『銃・病原菌・鉄』の主題に重なります。
吉本隆明の『共同幻想論』もそうですが最近では赤坂憲雄さんの『性食考』が、食べることとセックスとのある種の同型性を論じています。
その中で食のタブーと性のタブーがあると書いている。
性のタブーのもっとも典型的なのがインセストタブー、つまり近親相姦を避けるようにすることです。
フィクションの進化論
から抜粋
『サピエンス全史』の語り口や切り口は非常に素晴らしいし、人類史を大きなスパンで見るということはとても大事なことですから、その入門書としては大変優れた好著だと思います。
その上で認知革命がどうやって起こったのかということと、どうして特定のフィクションが力を持ったのかということを問い、そして情報革命ということを踏まえた上で、幸福のありかをもう一度問えれば素晴らしいサピエンス全史が書かれることになるはずです。
ハラリさんにはそれを期待します。
(2017.10.5 談)
福岡先生の論考は過日もリンクしましたが
こちらの動画の方がわかりやすいというか
リアルに伝わる。
テキストだとものすごく抑えている印象を受けるが
肉声だと感情まで露わとでも申しますか。
ハラリ氏はこの後『ホモ・デウス』になり
へと爆走を続け、来月に新刊が出る予定で
それは福岡先生の期待に応えるものなのでは
なかろうかと思ったりするんでございますが
かくいう自分はどうなのって問われれば
『サピエンス全史』と『21Lessons』は
興味深く拝読したのでございますが
『ホモ・デウス』はちと走りすぎではなかろうかと
思ったりしたが、それが正しいか間違っているかは
今後歴史が証明するのだろうなあ、と
稀代の作家なのかそうでないのかは
まだまだ自分の中で判断つきかねております
慎重派な夜勤前なのでございました。
科学界とロック界を比較して考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
21世紀を動かす科学10大理論: 新しい理論が新しい文明を創る
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科学の終わり?
矢沢潔
『歴史の終わり』と『科学の終わり』
から抜粋
先年アメリカでは、『歴史の終わり(The End of History)』というタイトルの本が出て大変話題になった。
著者の日系アメリカ人フランシス・フクヤマの議論は、人類社会が自由主義的な民主主義、つまりいまの西欧や日本のような社会体制に入ると、そこで歴史の進歩は終焉を迎えてしまうというものだ。
そして今度は『科学の終わり』の登場である。
筆者のジョン・ホーガンは『歴史の終わり』に刺激されたのかもしれないし(何よりタイトルがそっくりである)、それとも長い間科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」の記者をやっていて現代を代表する数十人の科学者たちと喋っているうちに「こりゃダメだ」と感じたのかもしれない。
しかし、科学が終わりだというような印象を持った直接のきっかけがロジャー・ペンローズの最近の議論にあったらしいという点は、この『科学の10大理論』の出発点と同じなのである。
アメリカと日本で数ヶ月の間隔をおいて出版された2冊の本が、編集形式の違いはどうあれ、ペンローズという非常に魅力的な数学者への興味から出発し、同じようなテーマを取り上げたのは偶然ではないように思う。
それは、科学が今重大な壁にぶち当たっているということを、長年にわたって科学の世界に肩入れしてきたアメリカのジャーナリストも筆者も同時に感じているということである。
確かに筆者も最近の状況を見て、科学は終わりだという議論を巧妙に展開しようと思えばできる。
しかしそれは不真面目というものだ。
この科学論シリーズは過去約10年間に渡って発行され続け、科学的な知的探究がいかに多くの人々にとってエキサイティングなものかを、その商業的成功によって立証してきた。
だが、30冊以上に達したシリーズを制作しながら、ひとつの明らかな変化を感じてきた。
それは、科学が次第に”発見の興奮”や”もうすぐ真理を手にできるかもしれないという期待”から遠ざかっているという変化である。
もっとも顕著な例はビッグバン宇宙論を取り巻く変化である。
次々と報告される天文学者からの観測結果とビッグバン宇宙モデルがまるで一致しないのである。
ところで、ここで話題にしている科学というのは、言うまでも無いことだが応用科学(科学技術)のことではない。
科学技術の有用性は完全に認めなければならないし、我々の文明の未来は科学技術に著しく依存していると確信もしている。
しかしここで科学というのは純粋科学、つまり自然界と宇宙の真実を追い求めようとする知的探索ーー生物学、素粒子物理学、天文学、宇宙論、認知科学、あるいは最近話題の複雑性の科学といった類のことである。
ジョン・ホーガンの本は、これらの科学分野がこれ以上本質的には進歩できないところに来ているというのである。
例えば生物学では、進化の問題はいくらでも議論されているがどこまで議論しても具体的な証拠に支えられた進化法則というものは構築されそうにない。
またミラーの実験で知られるスタンレー・ミラーが言うように、生命の起源も永遠の謎かもしれない。
「宇宙のすべてはもうすぐわかる」だって?
から抜粋
科学が本当に進歩を止める時が来るとしたら、それは全ての科学者・研究者が絶望的なまでに保守的で保身的になった時であろう。
真理を探究するのではなく、うまく立ち働いて研究費を取る、己の権威主義を主張する、人の議論に耳を傾けないーーーこの種の現象が科学界に蔓延したなら、その時こそジョン・ホーガンはもう一度ペンをとり、『科学の完全なる終焉』とでも題した本を書かねばならない。
2007年の養老先生と内田樹・平川克美先生の
鼎談でもThe End of scienceに触れておられた。
その時は文学についてに触れられていて
「最近は壮大な物語がなくなった」という文脈で
養老先生が「科学も壮大な物語がなくなったのかも」
とされThe End of scienceについてを話されていた。
ビジネスや政治に絡め取られたのだろうか
とも一瞬思ったりしたのだけど、本当に
そうなのかどうなのかもわからないし
矢沢先生仰る「応用科学」「純粋科学」の違いも
なんとなくしかわかってないのだけれども
興味深いと感じ、だとしても
クリスパーキャス9とかはどうなん?とも思ったり
もしかして、ジョン・ホーガン氏は
ロック界でいうとジョニー・ロットンの
”ロックは死んだ”と同じ構図なのではと思ったり
それはジャーナリズムの煽動なのかとも思ったり
そもそも”科学(サイエンス)”ってえのは
なんなのだろうと思ったり
思いすぎる寒い関東地方でございました。
災害・パンデミック・戦争の考察は難しい [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
現代を生きる自分たちにとって
逃げることのできない三つについての書を読み
ほんの少しだけ、考えてみた。
から抜粋
もうすぐ関東大震災から69年になる。
教科書や新書判の科学書を読むのはちょっとという方達にも、少しでも日本列島の活動の仕組みを知っていただけたら、そして、もっと日本列島のことを学んでみたいと思っていただけたら、と願っている。
6 東海から南海へ
繰り返す巨大地震
から抜粋
1年ほどメキシコで地震学の指導をして1991年の末に帰国した京大防災研究所の入倉幸次郎氏によると、メキシコでは大地震の起こるところはわかっていて、大地震から30年も経てば、また起こることがわかっているから、専門家の地震予知に対する考え方が、日本の専門家とはかなり違うという。
彼らは、とにかく社会を耐震化するのに専念することになる。
それに引き換え、日本の東海・南海地域の大地震についての計算結果を見ると、一つの大地震の後、次の大地震の発生確率は数十年後から少しづつ上昇し始めることになる。
繰り返し起こる現象を考える時、その現象の平均的な繰り返しの時間間隔と、人の一生の長さとの関係が、防災の心構えなどに重大に影響を及ぼす。
一生の間に二度あるいは三度、大地震を目の当たりに見るメキシコの人たちと違って、東海・南海地域の人々は、のちの世代に大地震の恐ろしさを一生懸命語り伝えることによって、次の災害を防がなければならないのである。
から抜粋
東北地方の太平洋沖で発生した巨大な地震の直後から、世界の人々が映像を通して東日本を注視してきました。
たくさんの映像で情報が共有されましたが、私たちは自分の目で、東日本の人々の暮らしを、そして地球の本当の姿を、見つめていかなければなりません。
そのためにはやはり、日本列島の大地の仕組みについての基礎知識が必要です。
21世紀を生きる人々にとって、資源、エネルギー、地球環境など、考えるべき課題は色々あります。
地球のことを知らずにこれらの問題を考えても無意味です。
また、今急速に進みつつある生命の科学を学ぶときにも、それが生まれた地球のことを知らずには理解できません。
本書では、地球科学の知識の蓄積をもとにした自然科学者の視点で、そしてできるだけ普通の言葉で、今回の巨大地震の仕組みを解説したいと思います。
5 日本の巨大地震
から抜粋
このように日本列島での巨大地震の例はたくさんありますが、それぞれに個性があり、地震の起こり方には多様性があります。
大規模地震の起こる場所が、時間と共に系統的に移動するという現象があります。
例えば東京大学地震研究所の教授であった茂木清夫さんは、1968年の論文で、世界の大規模な地震の起こり方を詳しく分析しました。
その結果、1933年の三陸沖大地震の前後における数年間の地震の移動や、1935年から30年間にわたる、例えばインドネシアから日本、カムチャッカ、アラスカへというような、世界的な大地震の移動を見つけました。
このような現象の原因は、まだはっきりとわかっていませんが、その仕組みを考えることも重要だと思います。
もう一つ、興味深い現象が知られています。
地震の発生する季節が偏っているという報告です。
大地震の季節性というのは重要な視点です。
そのうちに、季節変動が存在する仕組みの、明快な説明ができるようになると思います。
その仕組みの中に、きっと重要な情報が含まれているに違いないと思っています。
おわりに
から抜粋
テレビに出る情報で、「この地震による津波の心配はありません」という発表がいつも気になっています。
なぜ津波の恐れがないかという理由を付けてほしいと、気象庁の幹部にお願いしたことがあります。
小さい地震だからか、陸の地震だからなのか、深い地震だからなのか、どれかの理由を繰り返し聞くことによって、伝えるメディアも視聴者も、だんだん知識が身についていくと思います。
災害を軽減するためには、現象の仕組みを理解している市民が、一人でも多くなることが重要です。
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 作者: ユヴァル・ノア・ハラリ
- 発売日: 2020/10/07
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協力と情報共有
から抜粋
パンデミックはグローバル化の時代よりもはるか昔から起こっています。
中世には、飛行機もなければ大型のクルーズ船もありませんでした。
それにも関わらず、黒死病のような、格段に深刻なパンデミックが発生しました。
要するに、パンデミックに対する現実的な対策は、遮断ではなく、協力と情報共有です。
新型コロナウイルスに対する私たち最大の強みは、ウイルスにはできない形で協力できることです。
中国のウイルスは、アメリカのウイルスに、どのように人間に感染するかや、どのように人間の免疫系を避けるかについて、情報を提供することはできません。
しかし、中国の医師は、アメリカの医師に助言することができます。
両者は、ウイルスに対してどのようなグローバルな闘いを展開するかについて、共通の計画を立案することができます。
これはウイルスに対する人間の最大の強みです。
もしこの強みを活かさなければ、現在の危機は格段に深刻なものになるでしょう。
前にも述べた通り、世界のどこの国で感染症が広まっても、全人類が危険に晒されてしまうことを、人々は認識するべきです。
私は科学に頼ることで恐れを克服しています。
つまるところ、もし私たちが科学を信頼すれば、この危機を容易に乗り越えることができるでしょう。
反対に、もしあらゆる種類の陰謀論に屈してしまえば、私たちの恐れが煽られるだけで、人々は不合理な行動に走るでしょう。
つまり、心を開き、科学的で合理的な目で状況を眺めれば、私たちはこの危機を脱する道を見つけられるのです。

憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言 (岩波ブックレット657)
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すべての戦争は「守るため」に始まる
から抜粋
戦争も突き詰めれば、外交手段の一つです。
9条の主旨はつまり、武力による外交手段を放棄する、というものですね。
ということは、武力に頼らない外交手段を、あらゆる手を尽くして模索する、という宣言でもあるんです。
つい10年くらい前までは、直接の戦争体験者がたくさんいたので、自民党だろうが、共産党だろうが、戦争の現実を知っていた。
戦後ずっと自分たちが守ってきた、その枠組み。
その中に育ち、戦争を知らなくても、普通の考え方をしていたら、死ぬのがイヤなら、殺すのもイヤだと思うはず。
そのあたりは、人の命の尊さについての感覚が希薄になってきているんじゃないでしょうか。
安全性だとか、防犯だとかいうことには、過敏になってとやかくいうのに、そのおおもとの、命を大事にする、という憲法をないがしろにしている。
議員も含め、自分さえよければいい、という奇妙な考え方のように思えてならない…。
そういうことを放置しておいて、つまり自分の国もきちんと治められないのに、外に出て行きたい、国際貢献をしたい、というのも疑問ですね。
軍事力を備え、戦争で何が達成できるか、というと、目先の利害にすぎないのです。
あるいは、ちっぽけな民族的な誇りだったり。
アメリカの作ったものの押し付けだからとか、いろいろなことが言われますが、日本があの憲法を受け入れたのは、何より、大きな大きな犠牲を払った上に築いた、一つの結論を、簡単に崩していいのでしょうか。
深すぎる言葉に返す言葉がございませんし
これら三つについて壮大すぎて
思考がまとまりませんで失礼致しました。
ひとつだけ思うこととしては
もう国単位での施策では狭量なのではないかと
いう事でして。誰もが感じているかもだけれども。
先日焼肉屋さんの隣のテーブルのおばさんたちも
アメリカ大統領選について同じことを仰っていた。
というか、これらの難題に明快に答えられる人物は
そうそういないだろうと思う夜勤明け
天気は良かったが部屋の片付けをしたので
引き続き思考を深めてまいりたいと
いつものことながら誰に言っているのか
よくわからないかなり冷える休日なのでした。