たとえばこんな終わり方 - モリノスノザジ

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 エッセイを書いています

たとえばこんな終わり方

 プリンスと結ばれなかったディズニープリンセスを、見たことがない。一組の男女が出会って、恋に落ちる。もしもこれがおとぎ話だとしたら、彼らは道行く先で困難にぶつかりながらも、互いに愛を深め、やがて結ばれることだろう。

 おとぎ話の世界で幸せな恋ばかりが描かれるのは、それが現実の世界にはほとんどありえないものだからなのだろうか。愛する人を迎えに行くための空飛ぶ魔法のじゅうたんや、夜を架けるかぼちゃの馬車、歌う小鳥もガラスの靴も、すべてが空想の産物であって、決して現実には存在しないのと同じように。

 

 半月ほど前、恋人にお別れを言った。もう4年近く付き合っていて、きっとこの人と結婚するんだろうとなんとなく思っていた人でもあったので、それはそれなりにこたえた。失恋をして落ち込むなんて女子高生みたいで笑ってしまうのだが、別れ話をした日にはぜんぜん笑い話とは思えなかった。

 恋人が私の家を出ていったあと、私はシャワーを浴び、焼きそばをつくって、でも、ふたくち食べるだけで十分だった。胃の底から猛烈に吐き気がしてとても食べる気になれなくて、しばらくは酔っ払いみたいに便器を抱いた。目をつぶれば、四年間一緒にいて今日はじめて見た恋人の涙が浮かんできて、別れることをふたりとも悲しいと思いながらする別れがあるのだと、そのときに知った。その夜はなかなか眠れなかった。

 

 成就する恋ばかりがフィクションに描かれるなかで、昨年公開された映画『花束みたいな恋をした』はめずらしく、恋の終わりを描いた作品だったように思う。

 一言で言うと、ある男女が出会って恋をして、その恋が終わるまでの物語だ。出会ったときは、まるで運命のように思えた。ふたり転がるように恋に落ちて、一緒に笑って、それでもいつの間にかだんだんとすれ違うことが多くなっていき、会話も少なくなって……。

 作中で彼らが手に取る本やゲームは現実に存在するもので、かなり具体的。それなのに、この映画で描かれている恋を誰もが経験したことがあるように思えた。映画館にはカップルで観ているひとたちもそれなりにいた。映画が終わった後、このひとたちはいったいどんなことを話したのだろう。

 

 たとえば恋人が浮気をしただとか、私にひどい嘘をついていたのだとかで、パチンと頬を叩いて別れるような終わり方だったらもっと簡単だったに違いない。今回別れを切り出したのは私の方だけれど、相手ばかりが悪かったのだとも言い切れないところはある。私たちはお互いにちょっとした不満を抱えながらもなんとか4年間付き合ってきた。でも、それをこれからも続けていくことを私が放棄したのだ。

 

 はじめからなにもかもがピタッとくるような運命の人なんて、いないに違いない。世の中のカップルは互いにすれ違いながらも、相手の欠けた部分を受け入れたり、許したり、自分自身の習慣を変えたりしながら、今日の関係を明日につないでいくのだ。そう思ってる。

 それは相当な忍耐だと思う。恋は現実には、結ばれるところで終わりはしない。結ばれた後にも長い長い生活があって、その間ずっとすれ違い続け、ずっと許し続ける日々が続く。夫婦というものはすごい。これをずっと続けているのだから。

 

 「この人と結婚するのかも」と考えたときに私は、じゃあ、これから先もずっと我慢をし続けるのだろうか?と思ってしまった。たとえば、待ち合わせをするたびに待たされるような日々を。そして、恋人にもずっと我慢させることになるのだろうか?恋人に与えられないものが私にもあった。その不足のために恋人はときどき悲しそうな顔をして―――そんなことをこれからもずっと続けていくのか?そう思って、それで、逃げずにはいられなかったのだった。

 自分自身のそういうところを改めていかなければ、これからもずっとひとりのままなんだろう。そう思いながらも、一方ではやっぱりこの選択をしてよかったと思うこともある。どっちが正解なんだろう。人間関係にはときには忍耐も肝要なのか、それとも、自分自身が楽でいられるほうを選ぶべきなのか―――きっと、正解なんてないのだろうけれど。

 

 『花束みたいな恋をした』を観終わったとき、それが具体的なふたりの男女の物語でありながら、誰にとっての恋でもあるような気がしていた。出会ってから別れるまでの物語のどこかに、私自身も今まさにいるように感じていた。それは、もしかしたら予感だったのかもしれない。私自身の恋も、すでにあのときから少しずつ終わりに向かって傾いていたのかもしれない―――今はそう思う。

 

 映画は、別れたふたりがカフェで偶然出会うシーンから始まる。別れてからおよそ一年後のようだ。二人とも新しい恋人を連れている。場面はそこからふたりの出会いに遡り、付き合ってから別れるまでの数年間を描いた後、最後に再び一年後(現在)のカフェに戻ってくる。

 

 冒頭のシーンも含め、一年後のふたりをみていて感じたことがある。結果的に別れてしまったとしても、ふたりで過ごした日々が無意味だとか、まるでなにもなかったものだとか、そういうものではなかったということだ。背を向けたまま、かつての恋に手を振って、ふたりはそれぞれに新しい一歩を歩み出す。

 

 私の恋愛は、個別のエピソードで比べれば、彼らの恋とまったく似ていない。それでも、どこか似ている部分もある。どこが似ていなくても、せめてここくらいは似ていてくれればいい。現実の恋はフィクションのようにうまくはいかないけれど、いつか終わったこの恋を、無意味ではなかったと思える日がくるといいと願う。一年後の彼らが、過去をなかったものにするわけでもなく前向きに、新しい日々を楽しんでいるように。