人間はどこまでいっても自分の話にしか興味がない。
最近、そう感じることが多い。
少し前までは、「聞くことが大事」と相手の話を意識的に聞く努力をしてみたものの、人間の持つ「自分の話をしたい」願望は強すぎて、それを実現するのはとても難しいことを痛感するこの頃。
どうやら、多くの場面で「自分が思っている以上に」相手の話を聞いていないし、おそらく相手も自分の話を興味深くは聞いていないようだ。
なぜ、最近そう思うのか?
理由があります。
コロナ禍以降、御多分に洩れず、会社の仕事ではリモートの会議の場面が増えた。人間のコミュニケーションでは膝と膝を突き合わせて、といことが必要な場面もあるが、やってみると案外多くの話し合いはリモートで事足りることを知った。
自分がリモート会議のファシリテーター(進行役)をしたり、会のリーダーだったりすると議事録のために録画を見返す。
そこで感じたのは、自分の発言を見返すと相手の話を想像以上に聞いていない。
会議中に「あれ?なんか話が噛み合わないな」という場面などは、後で見返すと大概、互いに自分の論ばかりに意識が向いて相手の話を満足に聞いていないということがなんと多い事か。
おそらくリモート会議の場に限らず、これは日常の場面でも、もともとあったのだと思う。
相手が話しているのを遮って自分の話をする行為。
これは相手の命の時間を奪う行為!と断罪して、そんな行為を戒めるよう、偉そうに記事にしたこともある。
なんだかんだで、皆、自分が可愛い。
自分の話を聞いてもらうことは自我を満足させる最たる行為。
逆に相手の話を聞いてあげることは、最大のプレゼント。
自己啓発界隈ではよくそんな表現で語られるが、私もこれについては全く同意。だからこそ以前にも記事を書いている。
ただ今日のポイントはそれを意識しても「やってしまう」という人間の業の深さ。
要は、自分がなるべく出しゃばらず、相手の話を聞く努力というのは、皆が想像する以上に簡単ではない。相手の時間を奪う「不偸盗」の戒をおかす行為と頭で分かっててもだ。
無意識レベルでやってしまうから、よほどに注意する必要がある。
だから、以前の記事の繰り返しになるが、毎日の勤行でも「不偸盗」と言葉にするならその盗むものに「相手の命の時間」をより意識することが大事。
たとえ時間でも奪わず「与える」側になれば、巡り巡ってそれが自分に返ってくる。
逆に自分の話をしまくって、時間でも奪い続ける人の願いが叶うとは到底思わない。
大黒天マハー・カーラーの「カーラー」は黒という意味の他に「時」という意味がある。時を支配する神は死をも支配する。だからチベットのマハー・カーラーは死そのものと畏れられる。大黒天が焔摩天と同体とされるのも頷けます。
相手の「時」を奪うは、命の時間を奪うも同義。その罪の重さ、、今一度皆さんも心に刻んてみてください。
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