1: 2018/11/17(土) 11:42:19.17 ID:CAP_USER
人類が月に降り立ったのは1969年7月のこと、誰もが知るアポロ11号によってですが、一方そのころソ連はなにをしていたのでしょうか。もちろん月探査を目指していました、ただしラジコンで。
■1960年代、米ソの熾烈な宇宙開発競争のなかで
2018年現在、無人機やドローンは民用でも軍用でも珍しいものではありませんが、いまから48年前の1970(昭和45)年11月17日に、月へ着陸して月面を走り回ったソ連のラジコン無人探査車「ルノホート」(ロシア語で月を歩く人の意味)のことはほとんど知られていません。
ソ連は1957(昭和32)年10月、初めての人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、続いて1961(昭和36)年4月21日にはガガーリン少佐を乗せた「ボストーク1号」で史上初の有人宇宙飛行にも成功します。
冷戦状態であったアメリカは科学技術で遅れを取っているのではないかと焦り、ソ連に対抗するため月に宇宙飛行士を送り込むという稀有壮大な「アポロ」計画をぶち上げます。アメリカとソ連の国威を賭けた月への宇宙飛行士一番乗り競争が始まったのです。
この競争に勝ったのはアメリカでした。1969(昭和44)年7月16日、アメリカの「アポロ11号」が月に到着し、人類が初めて月面に降り立ちました。「アポロ」の名は歴史に残ることになります。
一方で地球からのラジコン操縦により月面を走り回る「ルノホート」は、アメリカの有人月探査にも劣らない科学的偉業だったのですが、アポロの成功の陰になってしまいました。
ソ連の月へ無人探査車を送る構想は1960(昭和35)年にはあったようですが、月一番乗り競争が始まると、有人飛行の事前調査のための探査車開発が1963(昭和38)年から本格化します。これが「ルノホート」の始まりです。
月ロケットの設計開発を行っていたコロリョフ設計局は、未知の月面を走るクルマを研究するため、農業用トラクターを開発している研究所に設計依頼を持ちかけますが上手くいきません。次に声が掛かったのは戦車を開発していたトランスマッシュ研究所です。この研究所のケマルジャンという技術者が開発を担当しますが、探査車の開発は国家の最高機密ということで情報を充分に開示できず、周囲の協力を得るのに苦労したといいます。国威発揚と言いながら国家機密ということで情報を抑える。秘密主義と官僚主義の矛盾が蔓延していたソ連らしい話です。
■アポロ成功の陰で…面目は保ったのか?
探査車は、1968(昭和43)年4月には試作型が完成し打ち上げにも成功しますが、この頃には有人飛行ではアメリカにもう追いつけないことがはっきりしてきます。こうなったらソ連はアメリカの宇宙飛行士よりも先に探査車を月に着陸させて面目を保つしかありません。
完成した探査車は「ルノホート」と命名され、プロトンロケットに搭載されて1969年2月19日、月へ向け打ち上げられます。ところが打ち上げは失敗、ロケットは空中爆発してルノホートも失われてしまいます。この失敗は最高機密とされ、2007(平成19)年までロシア国内でも知られていませんでした。
続きはソースで
「ルノホート1号」、正確には2機目(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/534/large_181031_Luno_02.jpg
「ルノホート」を月まで運んだ「ルナ17号」(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/535/large_181031_Luno_03.jpg
「ルノホート」が月面に付けた轍(わだち)(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/536/large_181031_Luno_04.jpg
「ルノホート」計画の月面着陸イメージ(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/533/large_181031_Luno_01.jpg
乗りものニュース https://trafficnews.jp/post/81923
■1960年代、米ソの熾烈な宇宙開発競争のなかで
2018年現在、無人機やドローンは民用でも軍用でも珍しいものではありませんが、いまから48年前の1970(昭和45)年11月17日に、月へ着陸して月面を走り回ったソ連のラジコン無人探査車「ルノホート」(ロシア語で月を歩く人の意味)のことはほとんど知られていません。
ソ連は1957(昭和32)年10月、初めての人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、続いて1961(昭和36)年4月21日にはガガーリン少佐を乗せた「ボストーク1号」で史上初の有人宇宙飛行にも成功します。
冷戦状態であったアメリカは科学技術で遅れを取っているのではないかと焦り、ソ連に対抗するため月に宇宙飛行士を送り込むという稀有壮大な「アポロ」計画をぶち上げます。アメリカとソ連の国威を賭けた月への宇宙飛行士一番乗り競争が始まったのです。
この競争に勝ったのはアメリカでした。1969(昭和44)年7月16日、アメリカの「アポロ11号」が月に到着し、人類が初めて月面に降り立ちました。「アポロ」の名は歴史に残ることになります。
一方で地球からのラジコン操縦により月面を走り回る「ルノホート」は、アメリカの有人月探査にも劣らない科学的偉業だったのですが、アポロの成功の陰になってしまいました。
ソ連の月へ無人探査車を送る構想は1960(昭和35)年にはあったようですが、月一番乗り競争が始まると、有人飛行の事前調査のための探査車開発が1963(昭和38)年から本格化します。これが「ルノホート」の始まりです。
月ロケットの設計開発を行っていたコロリョフ設計局は、未知の月面を走るクルマを研究するため、農業用トラクターを開発している研究所に設計依頼を持ちかけますが上手くいきません。次に声が掛かったのは戦車を開発していたトランスマッシュ研究所です。この研究所のケマルジャンという技術者が開発を担当しますが、探査車の開発は国家の最高機密ということで情報を充分に開示できず、周囲の協力を得るのに苦労したといいます。国威発揚と言いながら国家機密ということで情報を抑える。秘密主義と官僚主義の矛盾が蔓延していたソ連らしい話です。
■アポロ成功の陰で…面目は保ったのか?
探査車は、1968(昭和43)年4月には試作型が完成し打ち上げにも成功しますが、この頃には有人飛行ではアメリカにもう追いつけないことがはっきりしてきます。こうなったらソ連はアメリカの宇宙飛行士よりも先に探査車を月に着陸させて面目を保つしかありません。
完成した探査車は「ルノホート」と命名され、プロトンロケットに搭載されて1969年2月19日、月へ向け打ち上げられます。ところが打ち上げは失敗、ロケットは空中爆発してルノホートも失われてしまいます。この失敗は最高機密とされ、2007(平成19)年までロシア国内でも知られていませんでした。
続きはソースで
「ルノホート1号」、正確には2機目(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/534/large_181031_Luno_02.jpg
「ルノホート」を月まで運んだ「ルナ17号」(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/535/large_181031_Luno_03.jpg
「ルノホート」が月面に付けた轍(わだち)(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/536/large_181031_Luno_04.jpg
「ルノホート」計画の月面着陸イメージ(画像:ソ連航空産業省)。
https://contents.trafficnews.jp/image/000/023/533/large_181031_Luno_01.jpg
乗りものニュース https://trafficnews.jp/post/81923
引用元: ・【宇宙開発】月を目指せ! 米アポロ11号成功の一方でソ連は…? 歴史の陰に隠れたラジコン無人探査車「ルノホート」[11/17]
月を目指せ! 米アポロ11号成功の一方でソ連は…? 歴史の陰に隠れたラジコン無人探査車「ルノホート」の続きを読む