『光る君へ』吉高由里子×柄本佑による極上の第42回を考察 まひろの“本当の物語”が始まる

『光る君へ』極上の第42回を考察

 『源氏物語』の主人公・光君は物語の途中で姿を消す。『光る君へ』(NHK総合)第42回においてまひろ(吉高由里子)自身が書いている場面があるように、光君が「もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる(物思いばかりして月日が過ぎたことも知らぬ間にこの年も我が生涯も今日で尽きるのか)」と思いながら正月の行事の指示をしているところで「幻」の巻は終わり、本文のない「雲隠」の巻を経て、「匂宮」の巻冒頭から「光る君がお隠れになった後」の物語が始まる。本文のない「雲隠」の巻には様々な解釈があるそうだが、紫式部自身による「演出」だとすればなんとダイナミックな手法だろうと思う。主人公・光君の死そのものを、その後千年以上に渡って増え続ける読者の思い思いの想像に委ねているのだから。

 そして、ドラマ『光る君へ』の脚本家・大石静が第42回を通して描いたのは、まさにその「空白」そのものだ。空白の時間に物語の外で起きていたことを描こうとする試み。まひろの心の「空白」と、道長(柄本佑)の罪。そしてその余白の中に2人きりで漂うまひろと道長の、変わらぬ恋と「約束」の物語だった。まひろにとっての、作家が1つの作品を終え、新たな作品に取り掛かるまでに生じる葛藤と、道長にとっての、本来「いい人」だった人物が為政者としてより高みを目指すための最後の葛藤が『源氏物語』のクライマックスで重なり合い、やがて「川辺」という2人の始まりを思わせる場所に辿りつく。同時にそれが終盤に向けた、互いの思いを確認し、前に進むための理由付けにもなる。改めて、本作の構成の見事さに衝撃を受ける回だった。

 「物語は人の心を映しますが、人は物語のようにはいきませぬ」とまひろは言うが、まひろが『源氏物語』を執筆しそれを多くの人々が夢中で読む、ここ10話近くの展開を見ていると、人々が物語に心を寄せるあまり、物語が生き物のように彼ら彼女らの人生の物語に影響を及ぼすこともあるのではないかと思う時が度々あった。その最たるものが、第42回において、まひろの書きかけの「雲隠」を見た時から体調を崩し、危うく死にかける道長の姿ではなかったか。もちろん三条天皇(木村達成)が言うところの「比叡山の僧に石を投げられたから」など他にも様々な要因が考えられるが、『源氏物語』を「書けと言った」張本人であり、作者・まひろにとっての「光る君」であるところの道長自身が、『源氏物語』の主・光君の死に引っ張られてしまったような気がしてならないのだ。

 全く悪気はないのだが、第41・42回で道長は度々まひろにひどいことを言う。第41回で道長に「まだ書いているのか」と聞かれ、第42回でも道長が三条天皇と妍子(倉沢杏菜)の冷え切った関係に頭を悩ませるあまり「『源氏の物語』ももはや役には立たぬのだ」と言った時、まひろの表情が少し曇る。なぜなら『源氏物語』は元々「道長のため」に始めたはずなのに、彼の中でとっくに「終わっていた」なら、彼女はもう物語を終えるしかなくなってしまうからだ。

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