東急目黒線が遠い未来に思えた在りし日
今年の東急は、例年になく暑い夏になっています。
7月で運行終了しましたが「伊豆のなつ号」や8000系のリバイバル仕様、さらには「きかんしゃトーマス60周年記念電車」といったイベントが盛りだくさんで、まさに熱い夏になっています。
さて、東急では今を遡ること5年前の2000年8月も、それは大変暑い夏でした。
2000年8月6日に、長い年月をかけて工事が進められた東横線の複々線化が一部完成し、これにあわせましてそれまで、目黒から蒲田を結んでいた“目蒲線”が多摩川(同日多摩川園から駅名変更)で分断となり、目黒口は”目黒線”となり多摩川からは複々線になった東横線に入って武蔵小杉へ行くようになって、この年の9月に目黒まで延伸してきた地下鉄南北線・三田線と相互直通運転を始め、混雑が激しかった東横線のバイパスルートになりました。残された蒲田口は”多摩川線”として再出発しました。
目黒線では、当時の新型車3000系6両編成が投入されてホームドアや都市型ワンマン運転を実施するなど最先端の設備が設けられ、多摩川線でも池上線で導入されていたホームセンサーにより、ワンマン運転が開始されました。
大変身を遂げた目蒲線でしたが本日話題としますのは、今日の姿が遠い未来の事に思えた今から16年前の1989年3月頃のお話です。
この時も目蒲線は変革の時を迎えていました。
それは、この時期にダイヤ改正が実施されることになって、輸送力増強により3両編成から4両編成に増結するというのが主な内容でしたが、その方法は目蒲線へ主に7700系を投入して、それまでの旧型車を置き換えるというものでした。
ここで、その当時のダイヤ改正直前の目蒲線の写真をご覧下さい。
デハ3518 1989年3月 大岡山で筆者撮影 この当時の目蒲線といえばこの旧型車でした
デハ3517と旧塗装になったデハ3452 1989年3月 田園調布で筆者撮影
旧塗装になっていたクハ3662 1989年3月 田園調布で筆者撮影
かつての目蒲線と池上線は、昭和の終わり・平成の始めまでご覧のような旧型車がまだまだ闊歩していました。
この当時の目蒲線ダイヤ改正に対応させる為、目蒲線に当時走っていたステンレスカーの7200系は池上線に集められ、変わって目蒲線には旧型車が集結して最期の活躍をしていました。旧型車の塗装は緑色でしたがこの時期、一部の車両は往年の紺と黄色のツートン塗装になって活躍していたものありました。
これら旧型車の置き換えに使われたのは、7000系からの改造車である7700系が充当されたのですが、この置き換えも玉突きで捻出されたもので、その方法はまず東横線に当時5M3T編成で加速が劣りまた横浜付近の地下線化構想(これは昨年みなとみらい線として陽の目を見ました)により非貫通前面の8090系10編成について、まずMc車で貫通路がついた8590系先頭車を10両導入し、8090系を組み替え東横線に8590系6M2T編成として5編成を組成し、発生した8090系は5両編成10編成として大井町線に転属させ同線をこれで20m車5両編成に統一し、これで捻出された18m車6両編成の7700系を4両編成に組み替え、目蒲線に投入して旧型車を置き換えました。
この当時、目蒲線・池上線といえば誰もが思い浮かべたであろう旧型車が、ステンレス車に置き換えられたというのはそれだけでも画期的なことでした。しかし、それからわずか10年ほどで20m車6両編成になり、地下鉄と直通運転を実施し、ホームドアなどの最先端の設備が施された線区になるとは全く持って考えられず、それこそ当時に構想でこの件を耳にしたときは「遠い未来の夢物語」にしか思えませんでした。
現在では、東横線のバイパスとして機能している目黒線ですが、あと数年で不動前~洗足間の地下化と、東横線の複々線が日吉まで延びることになっていて、すべて完成した暁には急行の運転も行なわれるとのことです。
また、先ほどの写真を撮影した大岡山や田園調布は東横線の複々線化事業によって改良工事が行なわれ、現在では地下駅になっており沿線風景は変わりました。
平成の始め、まだ旧型車が闊歩していた目黒線(旧目蒲線)は、未来に向かってさらに変身しようとしています。それは、これら旧型車が活躍していた時代からの変化が、あまりにも急速であったことの裏返しなのではないかと思います。