THE FIRST SLAM DUNK / 彼の内発的動機と、リストバンドの謎(ネタバレあり)
本当にようやく『THE FIRST SLAM DUNK』(2022)、見てきました。まさに最&高としかいいようのない快作! あの名試合を、モーションキャプチャの気持ちいいアニメーションで楽しめる日が来るなんて! 試合のシーンは終始血湧き肉躍り。またスピーディーな試合シーンの画面の端々に、コミックファンには嬉しい小ネタも散りばめてもあり。 (ここでこれを赤木がドォン!ってやったってことは、このあと桜木のアレがこうなってるはず・・・、みたいな小ネタ)
一緒に見に行った妻の弟は3回目の鑑賞とのことですが、見終えてその気持ちが分かった。あと何回か見て、後述するあのシーンこのシーンの「気になる」を今すぐ解決したい!という気持ちに今まさになっている自分がいる。
ネットのネタバレ感想を読む前に、まず自分のネタバレあり感想をホットなうちに記録したい。というわけで以下、ネタバレあり。
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リョータがバスケをやってる理由
原作を読んでいた頃から、リョータがバスケをやってる理由が「彩子さんに笑ってもらうためにバスケに命をかけることに決めた」というのは、ほかのメンバーと比べたときに内発的動機としては比較的弱いと思っていた。でも今回リョータが抱えていた辛い背景が紐とかれ、彼のモチベーションの部分にさらにスポットライトが当たり、丁寧に描かれていったことがとても嬉しかった。
感極まったのは、母親が2階から山王戦を見るシーンで「リョータ、いけぇ!」と言う彩子さんの声が母親の思いとオーバーラップするところ(母親もそう叫んでいるように見える)。ここで暗に示されるのが、リョータにとって彩子さんがどういう存在だったのか、ということ。単なる片思いの相手というのを越え、リョータにとって「自分のプレイで笑顔にしたい人・自分のプレイを見てもらいたい人」、つまり「母親」に最も近い存在、という構図がここに見え隠れするというのは考えすぎだろうか。
そう仮定してみると、リョータがバスケをやってきた理由にぐっと奥行きのあることに気づく。最後の手紙では「バスケがあったからやってこれた」と言っていたが、そのバスケを通してリョータが本当にしたかったことは、かつてソータがそうしてあげたように、「今度は自分が母親を後ろから抱きしめてあげること」だったのだろう(あのシーンは素晴らしかった)。
原作ではこのあと赤木が引退となり、リョータが新キャプテンとなる。映画の山王戦終盤でも、追い上げムードをうまく作ったリョータが掛け声の音頭を取るよう赤木が水を向けるシーンがあり、彼が新キャプテンとなっていく筋道のようなものが暗示されていた。ここにも、父の死後にソータがかつてリョータに語った「今日から俺がキャプテン、お前が副キャプテンだ」という言葉がオーバーラップする。ソータ亡き今、リョータは宮城家の新キャプテンになる必要があったが、そうできない状況をなかなか打破できずにいた。山王戦を通してリョータ、そして母親がそれぞれに成長し、いまやリョータが湘北にとって、そして宮城家にとっても「新キャプテン」になりつつあることが示される、というところにも静かな感動があった。
あのシーンの謎
さて、あのシーンのこと。リョータが部屋に倒れていて、妹が「お母さん、大変!」と言うシーン。あれは何が起きたんだろう。
まだ何のネタバレも読んでいない現時点の想像だが、第一印象では「リョータは自傷行為をしたことがあった」という描写と受け取ったのだがどうだろうか。しかしその内容が内容だけに視聴者への影響の度合いを考慮して、直接的に描いていないではないか、と。そのようにとらえて初めて、リョータがソータの部屋から追い出される辛いシーン、リョータが書きかけてやめた「生きているのが俺ですいません」の言葉のその凄み・重みとも釣り合ってくる。
”心臓バクバク”したり、自信をなくしたとき、リョータは手首を握ったり、さっと手をポケットに隠したりする。試合のときにはリストバンドをして手首そのものを隠している。でも彩子さんが、苦しいときには手のひらをまっすぐに見ることを教えてくれた。傷と最も近い位置にある手のひらに、「No.1ガード」と書きなぐって。そしてラスト、海辺のシーン。リョータは(確か)リストバンドをしていない。過去を直視し、すべて引き受けて前に進んでいくことの象徴だ。うむ、リョータの成長劇、ここに美しく完結・・・。
と、思ったのだが。次の瞬間。リョータの傷あとなど何もない手首が画面に大写りになり、「あーこの推理は違ったのか・・・・」とふりだしに戻ってしまったのだった。
大人の事情でそういう絵になったのかもしれないし、あるいは「傷あとがない」という描写それ自体が彼の成長の象徴だとも考えられるのかもしれないが、もはや希望的観測の域にも近くなるのでこれ以上の推測はやめて、おとなしく2回目を見に行くことにしたいと思います。
PHPerKaigi 2023に参加しました
(オンラインで)行ってきました、PHPerKaigi 2023!
現地参加の予定で近隣のホテルを予約していたんですが、直前に体調不良のためやむなくキャンセル。 全日オンライン参加となりました。
カンファレンス参加の経緯
数年前にEM(エンジニアリング・マネージャー)にジョブチェンジしてからのメイン業務はBiz-Devの橋渡しと交通整理、コードレビューや1on1など、直接コードを書く時間はかなり意識しないと取れなくなってきていました。
またテックリードの加入後は技術選定・アーキテクチャ設計の舵取りもお任せできるようになり、業務上の負担は減ったも一方で、自身の技術革新や技術知見のアップデート・フォローアップにリソースが割けていないことに危機感を強く感じ…。今年からは積極的にイベントやカンファレンスへ参加していこうと決意を新たにしていたのでした。
PHPerKaigi の熱量に元気をもらった
一言で言うと、めちゃくちゃパワーをもらった。
より良い(≒優れた・速い・シンプルな)技術で、より複雑な課題を解決する。
エンジニアが日々しのぎを削っているのはとかくシンプルなこの命題のためだと思うのですが、ここに知見・経験値・情熱・技術愛とあらゆる角度から注がれる熱量の大きさにたびたび圧倒されました。 ニコニコ生放送経由とはいえ登壇者の皆さんのセッション・LTからこのアツさをひしひしと感じ、EMでなくいちエンジニアとして非常に大きな刺激をもらいました。
以下、自分が参加できた中から個人的に印象に残ったセッションをご紹介。
時間を気にせず普通にカンニングもしつつ ISUCON12 本選問題を PHP でやってみる
時間を気にせず普通にカンニングもしつつ ISUCON12 本選問題を PHP でやってみる by sji | トーク | PHPerKaigi 2023 #phperkaigi - fortee.jp
立っているインスタンスはDBでも使え!
とにかく終始激アツのセッションでした。 うちのPHPにももっとパフォーマンスを出してもらいたい。あとRoadRunner導入のモチベーションもらった。
防衛的 PHP: 多様性を生き抜くための PHP 入門
防衛的 PHP: 多様性を生き抜くための PHP 入門 by しけちあ | トーク | PHPerKaigi 2023 #phperkaigi - fortee.jp
既存プロジェクトへの静的解析導入って相当なパワーがいると思うんです。そこに「防衛」と「多様性」という切り口でその必要性に迫ったテーマ設定がすごくいいなと思った。 あとはPhpStormをCIで動かせるという新たな知見。
Rector ではじめる "運用を止めない" PHP アップグレード
Rector ではじめる "運用を止めない" PHP アップグレード by 工藤 剛 | トーク | PHPerKaigi 2023 #phperkaigi - fortee.jp
Rectorは元々興味あったので絶対聞く!と思ってましたが、以下の記事にもあるコロプラさんでのPHPバージョンアップ時の知見シェアがそもそも非常に学びが多く。
最近 PhpStorm でもサポートされるようになった Rector は、静的解析の力を利用してコードを自動的にリファクタリングしてしまうという静的解析の極地のようなツールです。今まで PHP バージョンアップの際には互換性のないコードを手動で修正しており、対応漏れがないかのチェックや置換するための温かみのあるシェルスクリプトを都度作成するなど、膨大な作業が発生していました。
変換は静的解析を用いて構文を解釈した上で行われるので、対応漏れが発生しにくく、一度ルールを作成すれば様々なタイトルで流用できます。
ノーメンテでPHPバージョンアップ、うちもやるぞー
実例から学ぶ変化に強いテーブル設計 - 責務の分解とRDBMSの上手い使い方
実例から学ぶ変化に強いテーブル設計 - 責務の分解とRDBMSの上手い使い方 by 曽根 壮大 | トーク | PHPerKaigi 2023 #phperkaigi - fortee.jp
これも楽しいセッションだった(弊社内Slackの実況スレッドが大いに盛り上がった)
DB設計のあるあると生の経験談を交えつつ、設計スキルをさらに洗練の域へと引き上げるための糸口が多々ちりばめられた、これぞ生のセッション!というプレゼンテーションでした。
返済計画のない技術負債は借金の踏み倒し
どのご家庭にもあるUsersテーブル
イージーとシンプルは両立する。どっちかしか取れないならシンプルを選ぶ
などなど沢山の金言も飛び出しました。
DB設計に関するポイントの多くは、セッション中も言及されていたこちらの記事でも詳しく解説されています。
ポスター・セッションに参加
レプスとしては、今回PHPerKaigi初の試みというポスター・セッションに(滑り込み)参加させていただきました。
事前に社内エンジニアから「プロダクト開発・運用の失敗学」のテーマで失敗談を募集し、その後社内でテーマを厳選の上ポスターをまとめました。 (生々しすぎて「これはアカンやろ」とお蔵入りになった失敗談も多々あり)
当初は自分が現地のポスター前で参加者と交流する予定だったのですが、先述の理由により現地参加できず。叶わず残念でした。 でもTwitterでリアクションくださった方や、DMでポスター見たよと声かけてくださった方もおられて嬉しかったです。
最後に
イベント参加中、自分とチームのスキルアップのために今のフェーズで何ができるかなーと考えていました。
事業・チームビルド・勉強会・エンジニア採用・・・などなど取り組むべき分野は限りなくあるように思えて目がくらみそうになりますが、まずは日々のエンジニアリングで弊社バリューのひとつ Built to Endure を忘れずにこつこつ取り組みたいと思います。
最後に、カンファレンスの事前準備、当日スタッフの方々のハードワーク、そしてすばらしいセッションの数々を提供いただいた登壇者の方々に感謝します!
来年は現地で登壇&参加するぞ(決意)。
海街diaryを見た
映画の感想を書く場所がここしかなかったのでここに書く。総じて良い映画体験だった。ネタバレやだという場合はお読み飛ばしを。
綾瀬はるか演じる長女は親の身勝手ゆえに苦労した過去をひきずりつつも、そこから脱却して十分にその事実に向き合えていると自分では思っている。多感な時代に苦しさをよく理解してくれる人が近くにいてくれれば無闇やたらに苦しみを長くひきずることはないということも分かっていて(長女にとってのその人はおそらく祖母であったのだろう)、それゆえに父親が二人目の妻との間にもうけた広瀬すず演じる妹のことをほうっておけず、父親が世に残した「禍根」みたいなもの(と長女が当初思っていたもの)を妹に味わわせてはいけないと思い、彼女のことを引き取ろうと決意する。
しかし長澤まさみ演じる次女にそれは母親へのあてつけだ、責任転嫁するばかりで自分の人生に本気で向き合おうとしていないというようなことを言われ、さらに母親に対する許せなさはいわゆる同族嫌悪のようなものだったこと、自分も母親とたいして変わらない道を歩いていることに気づき、結局自分も父親の残した禍根(と彼女が当初思っているもの)から脱却できていないことに立ちすくむ。
しかし母親と共に祖母の墓参りに訪れた折に、母親もまたしょせん弱いひとりの人間だったのだということを見てとり、母親と、自分の中にある母親に似たものを同時に許せたとき、妹たちとの関係も柔らかく静かに変化する。(この前後にある祖母の浴衣に袖を通すシーンが、長女が自分のルーツを受け入れたことの比喩のように見えたが、考えすぎかもしれない)
最後の浜辺のシーン。長女の「お父さんはいい妹を残してくれた」という言葉、そこには妹に対する愛情と共に、「世に禍根を生み出してきた父親」ではなく「弱いながらに精いっぱい家族を愛してきた父親」への温かなまなざしが表れる。寄せて返す波の音、エンドロール。
親のことが許せないという時期は、自分もしかり、誰しもあるのではないかと思う。この血縁的モラトリアム期間とでもいうべきものをどのようにして乗り越えるかというのは人生の一つの山場のようなものであり、もしかすると乗り越えたようでいて実のところどこまでもひきずってまた後世後代の人びとに遺産として継承しているのかもしれないが、「親も同じ人間なのだ」というシンプルな事実を受け入れたとき、はじめて大人のフィールドに足を踏み入れられるのかもしれない。そんなことを映画を見ながら思った。
バンコク随想(3)
あまり体調が良くないのを理由に今日は勉強もそこそこにネットのニュースをだらだらと眺めてかれこれ長い時間を費やしてしまっている。風が強い日。生暖かい風が断続的に、時折大きな塊みたいな強い風がどっと吹き付けて窓の外の洗濯物を揺らしている。並んで立っている葉の色の濃い木と薄い木、それに小ぶりのやしの木が葉を擦り合う音、時に互いの枝をぶつけ合う硬い音が聞こえる。
わかりにくさの海へ
言語表現や身体技巧の向上はすなわちわかりやすさへ向かおうとする飽くなき上昇であって、内なるわたしはまったくもって真逆の指向性、過去が現在が虚構が神話が伝承が日常があなたがわたしが渾然一体と澱になり沈殿していく、わかりにくさの海底へと仰向けのまま沈んでいくことを好ましく感じている。わたしが言いたいのはそれだけだ。ということにわたしは何度も気が付いてしまう。安い長靴を履いて熱帯性植物の多重多層に生い茂る湿地帯に一歩また一歩と分け入るような自意識への探検。拾った珍しげな石片なりしっとり水分を含んだ葉なりを大切にビニール袋へ入れて持ち帰った瞬間、体験は欠損し、名札付きの何かに変わる。言語化しえない、なづけえない体験を加工せず火もとおさずそっくり生のままパブリックな場所に持ち出して大衆と対決したい。経験を破壊せず、混沌を放棄せず、わかりにくさをかぎ括弧から解放したい。疑問符と感嘆符を乱暴に練り込んだパンケーキをゆっくりと味わい尽くしたい。わたしが言いたいのはそれだけだ。ということにわたしは何度も気が付いてしまう。
“見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ”― コヘレトの言葉7:29