1933年。クルト・レヴィンの世界一周 後編(アメリカ移住後の人的ネットワークも含めて) | 日本心理学会

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心理学ってなんだろう

1933年。クルト・レヴィンの世界一周 後編(アメリカ移住後の人的ネットワークも含めて)

サトウタツヤ
立命館大学文学部教授。


ホントは東京からパリまでの鉄道路線図を載せるはずでしたがあまりに大きすぎてだめでした。しかし,ツァイガルニック効果のツァイガルニック女史の写真が入手できてよかった。



レヴィン(Lewin, K.)はかつての弟子ツァイガルニック(Zeigarnik, B.)やルリア(Luria, A. R.)とモスクワで会っていたころまでに,ドイツのナチス政権下においてユダヤ人が生きていくことは不可能だと悟っていました。そこでレヴィンはアメリカのハイダー(Heider,F.)に電報を打ちました。「GERTILAND IMPOSSIBLE. DO YOU KNOW OF A JOB?」だったと伝えられています。ゲルティランドというのは,妻(Gertrud)をもじったドイツの呼び方です。


1933年8月,一時的にベルリンに戻っていたレヴィンはアメリカに向けてドイツをたち,二度と戻りませんでした。アメリカ移動の途上ではイギリスのバートレット(Bartlett, F. C.)の招きによりケンブリッジ大学を訪れています。


世界の大変動前夜,期せずしてレヴィンは世界を一周し(北半球だけですが),心理学者と交歓したのでした。


ドイツにいたゲシュタルト心理学者を含む多くのユダヤ人心理学者はアメリカに移住し,第二次世界大戦後のドイツ心理学の地盤低下とアメリカ心理学興隆の一因になったとされています。


レヴィンはアメリカにゲシュタルト心理学を移入した人物として知られるコーネル大学・オグデン(Ogden, C. K.)の尽力で同大学に職を得ます。この直前,コーネル大学に移動する前に,レヴィンはニューヨークでリカート(Likert, R.)と会っています。コーネル大学では幼稚園で発達研究を始めることになり,ベルリン時代の教え子であるタマラ・デンボー(Dembo, T.)たちが合流しました。


アイオワ州立大学に移るとロジャー・バーカー(Barker, R.)らを育てました。博士号を取得したばかりのフェスティンガー(Festinger, L.)もレヴィンを慕ってアイオワに移り住みました。その後レヴィンがマサチューセッツ工科大学でグループダイナミックス・センターを主宰するようになると,フェスティンガーも後を追いました。その後センターがミシガンに移管されるとフェスティンガーもミシガンに移りましたが,それはレヴィンが1947年に亡くなったからでした。




文献

Marrow, A. J.(1969). The practical theorist. : The life and work of Kurt Lewin. New York: Basic Books.
マロー,A. J. 望月 衛(訳)(1972). クルト・レヴィン―その生涯と業績― 誠信書房


心理学ワールド第37号掲載
(2007年4月15日刊行)