昨日、オーダー品のこと、シャウト!というルビー&モルダのこととか、書いたあとに、
「でもなんでこんなに、さらっと、やればできたのかな?」と考えていた。
作る前は、できるかな~~~~、と、ちょっと手間取っていたというか、私の中の固定観念やら経験則から、お手上げ、というわけではないけれど、「難問」であったことは事実なのだ。
で、気が付きましたよ。
私は先般、「エレスチャル水晶ビーズ」を仕込んだ~、って話を書いたあとに、
実は、「実験用」として、そのエレスチャル水晶のタンブルビーズを使った、水晶ブレスを作り、それを右手にしていたのだった。
(エレスチャルについては、3月5日の記事を参照してくださいね)
基本的に、全部は無理だけど、私は「自分用サンプルブレスレット」などは、新作です、ってお出しする前は、よく作る。
人様にイシのアクセサリなんぞをご提供し、さらには「このレシピは、こういうものよっっ」と豪語している立場上、あまりいいかげんな憶測めいたものは書きたくないし、売りたくない。
「こんな願いを込めて、作りました。」程度でも、フマンなのだ。
「こういうものですっっ」っていうものを、作りたいし、作っているつもりなのでして。
(でも、もしかしたら、そのうち「モニターさん」を募るかもしれん。私独りの体験で言えることなど、ほんの一部なのだ。)
通常、エレスチャルって、けっこう石酔いするものが多く、かなり強烈なんだけど、このタンブルに関しては、そういうのが全然なくて、透明感のあるものを購入しているのだけど、馴染みがいい。
それに、静かなたたずまいの石なので、身に着けているのを、忘れてしまうくらいだった。
ほんとに、エルなのか? キミは? と、あやしんでしまうくらいだ。
だから、気が付かなかった。
しかしそのエレスチャル水晶ブレスレットは、私の固定観念を、見事に裏切ってくれた。
もちろん、昨日書いたとおり、「難儀やな~~~~」の事態には、直面していた。
へたすると、これは「作れないかもしれない」という、私にとっては、あってはならないピンチという事態でもあったのだ、よく考えてみると。
この事態を産んだのは、別に、エレスチャル水晶ではない。
だけど、なんとタイミング良く、私の目の前に現われていたのだろう、と思う。
私が、この「実験用ブレス」で経験したことは、別に「至高イシキ」への到達、というのではない。
自分でも言っていた、「ひとつ、階段を、上った」感だ。
だけど、私が普段、実はあまり好いてはいない、「スピリチュアル系のエレスチャル水晶の解釈、意味」的なものを、確かに、今回、「う~~~~~んと悩んだレシピ」を作っている時に、経験してしまったような気がする。
ある意味、天然石のアクセサリを作っている時というのは、トランス状態に近い、というか、「なにか他のことを考えたり、したりしながら」作ることができる、というものではない。
「一心不乱」というやつである。
目を瞑ってじっとしていなくても、「瞑想」ということはできるし、普通に人は日常的に、この状態は経験していると思う。
なにかに、真剣に一心に打ち込んでいる、ということをしている時、人はいわゆる「宇宙と対話」「宇宙と一体化」しているのだろう。簡単に言えば、「嬉しいとか悲しいとか、あれが欲しいこれがいやだ、勝った負けた、とか、生活に困ったとか困らないとか、などの自意識など、外側の世界の条件付けに感情が左右されることを、忘れている」という状態なわけなので、「本来自分にできることが、顕在化される」だけの話。
こういうのを、「センタリング」ができている、というのだろうな。
で、ついでに、「クラウンチャクラ」かなんかも、ぱかっと、口をあけたりもしているのかもしれない。
モノを生み出す、アーティスト、芸術家さん、一流の方は、おそらくこの状態になることに長けているはずだ。
プロのスポーツ選手、アスリートなんかも、そうだろう。
なので、逆の言い方をすれば、そうなれない時には、作れないし、作らない。
パワスト・アクセサリ・アーティストとしては、それがスジだと思う。
エレスチャル水晶には、この「一心不乱」への「即時対応」を促すというか、「すっと入っていける感じ」を作ってくれるような、そういうはたらきがあるのかもしれない。
なかなかに、有能な水晶であるにもかかわらず、放っておいたというか、特にフェイバリットでもなかったのは、単純に「膿み出し」が面倒だっただけである^^。
その、「固定観念」に縛られて、石が大好きな自分、といえど、あんまり向き合う気になれなかった石なのだ。
今回、エレスチャル水晶のタンブルカットのビーズなんてものを見つけなければ、こんなものを「身に着けよう」だなんて、つゆほども思わなかったに違いない。
いやはや。
がんばって、どかどかビーズを仕入れるだけじゃなく、はよ、アクセサリを作れや、ってことなんだろう。できるんだから。
インスピレーション、や、霊的存在のサポートというものは、
「これが、これが、インスピレーションだわっっ!!!! 天使がそばにいて助けてくれてるんだわ!!!見えたし!!!」ってな、構えたところや、特別なイシキからは、生まれない。見える、見えない、聞こえる、聞こえない、という類のものではないと思う。
そんなに、劇的なものではないし、劇的なのは、怪しいと、今でも思っている。
つまり、「外側から、明らかにサジェスチョンされる」的な、分かりやすいものではないのだ。
だいたい、彼らは、いわゆる高次の霊的存在と呼ばれる面々は、自己顕示欲の強いニンゲンとは違って、「自分の手柄や存在を、わかりやすく、アピール」なんか、ニンゲンにはしないと感じるのだ。たぶん、現われても、名乗ることをしないだろう。
(わかりやすい奇跡は、「劇的インスピレーションを得たいという欲求」に呼応した、いたずら霊のしわざであるケースも多いんじゃないかという風に思う。私たちは、自分が考えている以上に、さまざまなレベルの霊的存在に干渉されてもおり、ある意味、「コドク」というわけではないのだ。悲しいかな。人間社会と、目に見えない世界ってのも、「ひとりで生きているわけではない」という意味では、大差ないのだ)
ただ、たぶん、調子に乗って、私が「この石があれば、鬼に金棒! どんどんイケルわ~~~~」と万能感に満ちあふれ、天狗になれば、この石は、また新たなる試練を、私に課すことだろう・・・・と思う。
「本人が、試練から目を逸らさない」ことが、たぶん重要なのだ。
難事を解決というか、越えた時に、このエレスチャル水晶のチカラは、分かることになっている。
だから、もとより、「石に頼る、石が起こす奇跡待ち」という、「石持っただけでなんとかならんかな」的な受け身になっちゃう場合には、膿み出し放題になる可能性も高い。
Qちゃんにも、エレスチャル水晶ブレスを、差し上げることができていたなら・・・・^^。
無念な、名古屋女子マラソンの結果であった。
「でもなんでこんなに、さらっと、やればできたのかな?」と考えていた。
作る前は、できるかな~~~~、と、ちょっと手間取っていたというか、私の中の固定観念やら経験則から、お手上げ、というわけではないけれど、「難問」であったことは事実なのだ。
で、気が付きましたよ。
私は先般、「エレスチャル水晶ビーズ」を仕込んだ~、って話を書いたあとに、
実は、「実験用」として、そのエレスチャル水晶のタンブルビーズを使った、水晶ブレスを作り、それを右手にしていたのだった。
(エレスチャルについては、3月5日の記事を参照してくださいね)
基本的に、全部は無理だけど、私は「自分用サンプルブレスレット」などは、新作です、ってお出しする前は、よく作る。
人様にイシのアクセサリなんぞをご提供し、さらには「このレシピは、こういうものよっっ」と豪語している立場上、あまりいいかげんな憶測めいたものは書きたくないし、売りたくない。
「こんな願いを込めて、作りました。」程度でも、フマンなのだ。
「こういうものですっっ」っていうものを、作りたいし、作っているつもりなのでして。
(でも、もしかしたら、そのうち「モニターさん」を募るかもしれん。私独りの体験で言えることなど、ほんの一部なのだ。)
通常、エレスチャルって、けっこう石酔いするものが多く、かなり強烈なんだけど、このタンブルに関しては、そういうのが全然なくて、透明感のあるものを購入しているのだけど、馴染みがいい。
それに、静かなたたずまいの石なので、身に着けているのを、忘れてしまうくらいだった。
ほんとに、エルなのか? キミは? と、あやしんでしまうくらいだ。
だから、気が付かなかった。
しかしそのエレスチャル水晶ブレスレットは、私の固定観念を、見事に裏切ってくれた。
もちろん、昨日書いたとおり、「難儀やな~~~~」の事態には、直面していた。
へたすると、これは「作れないかもしれない」という、私にとっては、あってはならないピンチという事態でもあったのだ、よく考えてみると。
この事態を産んだのは、別に、エレスチャル水晶ではない。
だけど、なんとタイミング良く、私の目の前に現われていたのだろう、と思う。
私が、この「実験用ブレス」で経験したことは、別に「至高イシキ」への到達、というのではない。
自分でも言っていた、「ひとつ、階段を、上った」感だ。
だけど、私が普段、実はあまり好いてはいない、「スピリチュアル系のエレスチャル水晶の解釈、意味」的なものを、確かに、今回、「う~~~~~んと悩んだレシピ」を作っている時に、経験してしまったような気がする。
ある意味、天然石のアクセサリを作っている時というのは、トランス状態に近い、というか、「なにか他のことを考えたり、したりしながら」作ることができる、というものではない。
「一心不乱」というやつである。
目を瞑ってじっとしていなくても、「瞑想」ということはできるし、普通に人は日常的に、この状態は経験していると思う。
なにかに、真剣に一心に打ち込んでいる、ということをしている時、人はいわゆる「宇宙と対話」「宇宙と一体化」しているのだろう。簡単に言えば、「嬉しいとか悲しいとか、あれが欲しいこれがいやだ、勝った負けた、とか、生活に困ったとか困らないとか、などの自意識など、外側の世界の条件付けに感情が左右されることを、忘れている」という状態なわけなので、「本来自分にできることが、顕在化される」だけの話。
こういうのを、「センタリング」ができている、というのだろうな。
で、ついでに、「クラウンチャクラ」かなんかも、ぱかっと、口をあけたりもしているのかもしれない。
モノを生み出す、アーティスト、芸術家さん、一流の方は、おそらくこの状態になることに長けているはずだ。
プロのスポーツ選手、アスリートなんかも、そうだろう。
なので、逆の言い方をすれば、そうなれない時には、作れないし、作らない。
パワスト・アクセサリ・アーティストとしては、それがスジだと思う。
エレスチャル水晶には、この「一心不乱」への「即時対応」を促すというか、「すっと入っていける感じ」を作ってくれるような、そういうはたらきがあるのかもしれない。
なかなかに、有能な水晶であるにもかかわらず、放っておいたというか、特にフェイバリットでもなかったのは、単純に「膿み出し」が面倒だっただけである^^。
その、「固定観念」に縛られて、石が大好きな自分、といえど、あんまり向き合う気になれなかった石なのだ。
今回、エレスチャル水晶のタンブルカットのビーズなんてものを見つけなければ、こんなものを「身に着けよう」だなんて、つゆほども思わなかったに違いない。
いやはや。
がんばって、どかどかビーズを仕入れるだけじゃなく、はよ、アクセサリを作れや、ってことなんだろう。できるんだから。
インスピレーション、や、霊的存在のサポートというものは、
「これが、これが、インスピレーションだわっっ!!!! 天使がそばにいて助けてくれてるんだわ!!!見えたし!!!」ってな、構えたところや、特別なイシキからは、生まれない。見える、見えない、聞こえる、聞こえない、という類のものではないと思う。
そんなに、劇的なものではないし、劇的なのは、怪しいと、今でも思っている。
つまり、「外側から、明らかにサジェスチョンされる」的な、分かりやすいものではないのだ。
だいたい、彼らは、いわゆる高次の霊的存在と呼ばれる面々は、自己顕示欲の強いニンゲンとは違って、「自分の手柄や存在を、わかりやすく、アピール」なんか、ニンゲンにはしないと感じるのだ。たぶん、現われても、名乗ることをしないだろう。
(わかりやすい奇跡は、「劇的インスピレーションを得たいという欲求」に呼応した、いたずら霊のしわざであるケースも多いんじゃないかという風に思う。私たちは、自分が考えている以上に、さまざまなレベルの霊的存在に干渉されてもおり、ある意味、「コドク」というわけではないのだ。悲しいかな。人間社会と、目に見えない世界ってのも、「ひとりで生きているわけではない」という意味では、大差ないのだ)
ただ、たぶん、調子に乗って、私が「この石があれば、鬼に金棒! どんどんイケルわ~~~~」と万能感に満ちあふれ、天狗になれば、この石は、また新たなる試練を、私に課すことだろう・・・・と思う。
「本人が、試練から目を逸らさない」ことが、たぶん重要なのだ。
難事を解決というか、越えた時に、このエレスチャル水晶のチカラは、分かることになっている。
だから、もとより、「石に頼る、石が起こす奇跡待ち」という、「石持っただけでなんとかならんかな」的な受け身になっちゃう場合には、膿み出し放題になる可能性も高い。
Qちゃんにも、エレスチャル水晶ブレスを、差し上げることができていたなら・・・・^^。
無念な、名古屋女子マラソンの結果であった。
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カテゴリ : ちょっとスピリチュアルな話
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