こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。松本さんの件に関するブログ記事へのご意見、ざっとですがひととおり目を通しました。ダイヤモンドオンラインに記事が転載されたこともあり、反響が膨大な量になってしまったので読みこぼしてしまったご意見も多いと思います。私はツイッターを熱心にチェックしてないので。
松本さんには「信者」といわれるくらいに熱狂的なファンがいることは以前から知ってました。批判的なことを書けば叩かれるのは承知の上で、ブログに記事を公開したんです。
でもフタを開けたら、私に賛意を表してくれるかたが圧倒的に多かったので、安心したというか、意外だったというか。私と同じようなモヤモヤを抱えつつも、言葉にできず口をつぐんでいた人が大勢いたのでしょう。
なお、私はツイッター上で何かに答えることはしてません。これまでも寄せられたご意見にはときどきブログで回答してきました。今回も反響に対する私の考えなどをここで述べておきます。
私は2016年発売の著書『日本人のための怒りかた講座』の冒頭で、松本人志さんがラーメン屋で居合わせた迷惑客を冷静な態度で注意したというツイートを絶賛しました。私が考える理想的な怒りかたを、松本さんが実践していたからです。
でも今回、テレビ報道で松本さんの疑惑を見聞きするにつけ、性加害という犯罪が疑われる事例でもあるし、逆らえない後輩に女性を用意させる行為は不快なパワハラです。私は今回の一連の松本さんの言動や行為を、とうてい正しいとは思えなかったのです。
相手が一般人だろうと、総理大臣だろうと、カリスマ芸人だろうと、正しいことをすれば賞賛し、間違ったことをすれば批判する。あたりまえのことをしてるだけです。
とはいえ根拠なしの先入観で批判するのはよくないので、すべての発端となった『週刊文春』の記事を読んでみることにしたのです。
私は普段、週刊誌をまったく読みません。調べなければならないことがあるときだけ該当記事を読み、記事内容の信憑性はその都度検討します。私を文春の回し者呼ばわりしてる人もいますけど、私にとって文春は敵でも味方でもありません――と書いてて思い出しました。20数年前に一度だけ文藝春秋の本社で、ある編集者とお話ししたことがありました。そのときに同席してたベテランの編集者が、自分は菊池寛の孫だといったのでビックリしたんです。その際は話をしただけで終わり、結局それ以来、文春で仕事をしたことはありません。文春オンラインに『サラリーマン生態100年史』の抜粋記事がありますが、あれは書籍発売時のプロモーション用に担当者がまとめた記事なので、私は許可をしただけで報酬などはもらってません。
すいません、おじさんはすぐ話が脱線して昔話になってしまいます。
第一報が載った『週刊文春』を読む時点ではまだ、女性側の主張があまりにうさん臭いものだったら、松本さんの味方をするつもりでいました。
しかし、女性たちの主張、なかでも裁判で証言するといってるA子さんの主張は予想以上にスジが通ったもので、あきらかな虚偽や矛盾を私は汲み取ることができませんでした。
私は女性側の主張を正しいとはいってません。否定できない以上は、とりあえず正しいものと仮定するしかないのです。これは思考や議論をする上で、正当なやりかたです。
女性側の主張を事実と仮定すれば、松本さん側の事実無根という主張はかぎりなく怪しくなります。実際その後、無根ではないと吉本側も認めたし、おそらく裁判でも個々の事例について真偽が争われるはずです。
それを踏まえて、ブログ記事では松本擁護派のみなさんに、フェアな提案をしたのです。私は否定できなかったけど、あなたがたが記事内容を検討して女性側の主張を突き崩すことができれば、松本さんの潔白が証明されたとみなされるのですよ、と。その検証がまともなものなら、マスコミも取りあげざるをえなくなりますよ、と正当な反論の方法、攻略法をわざわざ教えて差し上げたのです。なんて親切なんでしょう。私は世話になってない人たちにも親切にするのが本物の人情だと思ってるので。
ところがそんな簡単な知的作業すら、やろうとした人はほとんどいません。
私、難しい宿題を出しましたかね? 近所の図書館やネットカフェや喫茶店などで週刊文春のバックナンバーを読んで考えるだけなのだから、ある程度の規模の町に住んでれば、誰でもできる知的作業です。
女性側の主張を崩せたという具体的な報告は、いまのところまだひとつもありません。
私がブログに書いた論説は、女性側の主張にかなりの真実性があるという前提からすべてを積み上げてます。だから、松本擁護派のみなさんが(ヘリクツや詭弁でなく)正しい論理で女性の主張をウソだと論破できれば、私の論を全否定できるのです。
なのに、私への反論と称するものはどれも、女性側の主張の検討というもっとも重要な点をスルーして、枝葉末節をちまちまと引っ掻いてばかりだから、反論と呼べるレベルに達してないし、松本さんの擁護にも1ミリも貢献できてません。
実際ツイッターに投げつけられた批判のほとんどは反論どころか、捨てゼリフと邪言ばかりです。
私は長年物書きをやっていて、批判のパターンをだいたい知ってるから、いまさら驚きはしません。『「昔はよかった」病』では大正時代のクレーマーについて調べましたけど、批判のパターンって、100年前からあまり変わってないんです。
そんなわけで私はあまり気にしませんが、とばっちりでご迷惑がかかるといけないので、この際、私は内藤朝雄さんではないといっておきます。お会いしたこともありません。同一人物だからお会いできないんだろ、とかそういうトンチではないので。
出典についてですが、坂東三津五郎のエッセイは「〝河原乞食〟のつぶやき」(『潮』1972年3月号)です。
性犯罪が裁判になるのは2%くらいしかないとする説は、こちらのネット記事で読めます。
「法廷で裁かれる性犯罪はごくわずか......法治国家とは思えない日本の実態」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/02/post-92497_1.php これは試算なので絶対正しいわけじゃなく、誤差はあるかもしれません。でも私は決して荒唐無稽な数字とは思えないんですよね。事なかれ主義と泣き寝入りの伝統があり、世間を騒がすことが大罪とされる日本では、じゅうぶん現実味のある数字です。
こういう説が気に食わないと、「社会学者なんて信用できないんだよ」と全否定する人が出てきます。「週刊誌は全部ウソ」みたいなのと同じで、思考力のない人は個々の事例について考えるのが面倒だから全肯定か全否定をしがちです。
かく申す私も、社会学を全否定してるとカン違いされてるみたいなんです。
エゴサーチをすると、「パオロ・マッツァリーノは反社会学講座のころはよかったのに、東日本大震災以降、ダメになった」みたいな定型文で批判してるものをよく目にします。
最初、意味不明でした。私の主張と震災にはなんの関係もないのに、こいつらは何をいっとるのだ?
しばらくして、だいたいのところがわかりました。
私のデビュー作は『反社会学講座』という本で、これがかなり評判が良く、売れました。
この本は本職の社会学者からも評価されることがある一方で、誤読されてることも非常に多いのです。私は社会学もフェミニズムも全否定などしていないのですが、それについては以前のブログ記事で説明しています。
『読むワイドショー』のレビューについて思うところをお話しします 《前半》
https://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-438.html 女性蔑視や差別思想を持つ人たちは、性犯罪はすべて女性に落ち度があると決めつける傾向が強いのですが、そんな彼らにとって、フェミニズム社会学者は不倶戴天の敵なのです。彼らは『反社会学講座』をフェミニズムと社会学者を全否定した本だと誤読し、私のことを勝手に味方だとカン違いしたようです。
東日本大震災後に出版した『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』(現在は『誰も調べなかった日本文化史』と改題し、ちくま文庫に収録)では、亡国論を取りあげました。
明治以降、○○亡国論や、○○で日本が滅ぶという言説が大量に出現しましたが、いまだに日本は滅んでません。亡国論や滅亡論は、自分が嫌いなものにおおげさなレッテルを貼ってるだけにすぎないとした上で、滅亡論をたくさん雑誌に寄稿してる悲観論者として、櫻井よしこ、中西輝政、渡部昇一などの名前をあげたところ、自分たちのアイドルをイジられたことに怒った女性蔑視論者たちが、手のひら返してパオロ・マッツァリーノを敵視するようになった――とまあ、こんなところでしょうか。
そういえば、先日始まったドラマ『不適切にもほどがある!』はおもしろいけど、初回はうっすらとフェミニズム社会学者への偏見がにじんでました。まあ、それがテーマではないから、さほど気になりませんが。
あのドラマでは、昭和から来た主人公が路線バスの車内でタバコを吸うシーンがありましたけど、路線バスは昭和でも禁煙でしたよ。
車内でタバコが吸えたのは長距離列車、長距離バスだけです。通勤通学に使う都市部の電車・バスは戦前から禁煙です。
昭和30年代の新聞では、路線バスの車内でタバコを吸ってるヤツを車掌が注意したら、逆ギレした相手に突き飛ばされた、殴られた、なんて事件がしばしば報じられてます。
当時のバスの車掌は、ほとんどが10代後半から20歳くらいの女性だったんです。若い女性に平気で暴力をふるうって、女性軽視にもほどがあるでしょ。昭和にはいい面もあったけど、暗黒面もあったという、おじさんの昔話でございます。