2015年08月反社会学講座ブログ
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何度でも言う。地域の絆と犯罪にはなんの関係もない

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
 寝屋川の中学生殺人事件の容疑者逮捕を受けて、月曜以降、デタラメなコメントがテレビからあふれ出すと思うので、先制攻撃をしておきます。
 さっそく、金曜夜の報道ステーションでやらかしてました。コメンテーターの藻谷さんは、かなりまともな人です。殺人事件の件数はずっと減少していて、いまはもっとも少ない時代だという事実をきちんと指摘してたところまでは、よし。
 ただ、そのあと続けて、地域の絆が薄れているのではないか、犯罪を防ぐために、われわれはもっと地域の絆を大切にすべきだ、みたいなことをいうんです。
 決定的に矛盾したことをいってるのに、ご自分で気づいてないのですね。むかしに比べて地域の絆が弱くなった。と同時に、犯罪はむかしより減っている。だとしたら、絆が弱まるほど犯罪は減るという結論になってしまいます。

 報道関係者のみなさん、立ち読みでもけっこうです。私の『「昔はよかった」病』の絆とふれあいの章だけでも読んでみてください。私は根拠のある事実のみを書いてます。
 近頃の日本人が、絆などというスピリチュアルなもののご利益にやたらすがりたがるのは、はっきりいって異常です。犯罪統計などの現実に目を向けてリスク評価をするのでなく、すべてを目に見えない心の問題に還元しようとするのは非常に危険ですらあります。

 日本では1970年代くらいからすでに、地域の絆が失われたという声があり、それはずっといわれ続けてきました。町内会の加入率もむかしは90%くらいだったのが、いまはせいぜい5割か6割だから、絆が薄まったのは事実なのかもしれません。しかし同時に、殺人、誘拐、空き巣などほとんどの犯罪も、40年前に比べると激減しているのも事実。絆が薄れるにつれて安全になってますけど?
 東京の渋谷駅周辺では、寝屋川以上に多くの未成年が夜中までフラフラ歩いたりたむろしたりしています。でも、渋谷で未成年殺人が頻発している事実はありません。それは、渋谷の地域の絆が強いからなんですか?
 『「昔はよかった」病』でも反証例としてあげましたが、冤罪ではないかと疑われていることでも有名な名張毒ブドウ酒事件。あれは住民たちの絆の強さが自慢だった村で起きた、凄惨な大量殺人事件です。
 こどもが殺される事件の犯人は、大半がじつの親だという現実を、絆でどう説明するのですか? 絆がない赤の他人よりも、絆が強い親に殺される確率のほうがはるかに高いのなら、こどもは家にいないほうが安全ってことになってしまいますね?
 LINEなどを利用する若者たちの間では、返事をすぐに返さなければいけない、みたいな縛りが強要されてたりします。そうやって仲間同士の絆を強めることによって、若者たちはしあわせになっているんでしょうか? 逆に、いじめや暴行事件の原因になることもあります。

 結論はどう見てもあきらかです。絆と犯罪には、なんの因果関係もありません。犯罪が起きるのは地域の絆が薄いせいではありませんし、地域の絆を強めても犯罪が減るという保障はなにもありません。逆に増えることもありえます。
 そもそも、絆なんて目に見えないものが強まったかどうかなんて、どうやって判定するのですか。

「近頃、イヤな事件が続きますなあ」
 日本各地の離れた地域で互いに関連なく散発的に起きてるだけです。テレビがまとめて報道するから連続して見えるだけです。
「こんな痛ましい事件を防げなかったものでしょうかねぇ……」
 防げません。
「われわれにできることは、ないのでしょうか」
 ありません。
 ていうか、みなさんはすでに、じゅうぶんな活動をしているんです。パトロールだの見守りだのあいさつ運動だのと、どこの町でもうるさいくらいにやってるじゃないですか。50年前の日本では、そんなことだれもやってなかったでしょ。

 今回の事件が起きたのは、とても不幸なことでした。しかし悲観的になる必要はありません。
 私は感心しました。寝屋川市駅周辺や商店街は、若者たちがたむろして夜通ししゃべったり野宿したりしても平気なくらいに安全な町であることに。
 若者たちには彼らなりのゆるい「絆」があって、それなりの秩序を保っているんです。多少は不良グループみたいのもあるのでしょうが、重大な問題を起こしている様子もなさそうです。
 犠牲になったふたりの行動を軽率だと批判する声もありますが、それは結果論です。どんなに平和な町にも悪意を持った人間はいますから、危険はゼロではないし、今回は裏目に出てしまいました。
 でも、あの町の治安レベルを考えれば、ふたりが事件に巻き込まれなかった確率のほうが高いわけで、ふたりもそう判断したのでしょう。あの年頃の子が危険を承知で家出のような軽い冒険を試みることは、(いまより危険だった)むかしからあることです。オトナたちはむかしの自分の武勇伝を自慢したりするくせに、いまになって徹底的にこどもたちの行動を管理するってのもねえ。
 人目につくところで若者がたむろしてるのは、むしろ安全です。そこにオトナたちがでしゃばって介入し、彼らの「絆」をばらばらにして追っ払い、町を平和にしたとカンちがいするようになったら最悪です。
 駅周辺や商店街から追い出したら、おとなしく家で寝ると思います? なりませんよ。彼らはもっと人目につかないところに集まります。そのほうが危険度は高まってしまいます。
 統計を確認しましたが、寝屋川市の犯罪発生率がとくに高いわけではありません。他の町と同じくらいに防犯活動やこどもの見守り活動などもしているようです。
 なにもしてなかったわけじゃなく、必要な活動はしていたんです。そしてかなり安全な状態が実現できていたんです。これ以上ムリをして住民を防犯活動に駆り立てても、普通の生活が犠牲になるだけでなんの効果も得られないでしょう。
 ですから、いえることはひとつ。勇気を持って、いままで通りの生活を続けることです。こどもたちには、この町は安全だけど、悪意のある人間に遭遇する可能性はゼロではないし、どんなにオトナががんばっても防げないのだ、と事実を教えて覚悟を持たせるべきです。そのうえで、これまでどおり、普通に生活する。それがベストの選択です。
[ 2015/08/23 16:24 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

リベラルな靖国参拝論

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。世間のオトナたちは、今日あたりからお盆休み明けで再始動といったところでしょうか。

 毎年この時期、日本の首相や閣僚が靖国参拝するかどうかでもめてるのが、不思議でなりません。
 その答えは、日本国憲法にちゃんと書いてあるじゃないですか。
 結論からいうと、日本の首相や閣僚が靖国参拝するのは、個人の自由です。
 誤解しないでいただきたいのですが、私がいう自由とは、参拝する自由と参拝しない自由、どちらも含まれます。どちらを選ぶかは個人の自由選択にまかされていて、その意志は尊重されるのです。
 憲法にはこんなことが書かれてます。信教の自由は、何人に対してもこれを保障すること。そして、宗教上の行事に参加することを強制されないこと。これを踏まえれば、参拝するもしないも個人の自由ってことです。参拝しろだのするなだの、他人に圧力をかけるのは大きなお世話だし、もし強制すれば憲法違反です。

 議論に歴史的経緯を持ち出す人がいますけど、歴史の尊重と参拝は無関係。靖国神社に戦死した軍人が英霊として祀られているというのは、神社がそう主張してるだけのこと。霊が存在するか否かは、科学でも歴史でも証明できません。肯定も否定もできない以上、それは純粋に信仰の問題なんです。
 各個人がそれを信じるか否か、それだけにかかってます。信じるのなら参拝すればいいし、信じないのなら参拝する必要はありません。ただし公人の場合は、自分が選択した行為によって起きたことに対して責任は取らなければなりませんが、それは参拝問題にかぎったことじゃありません。

 私はまったく信じてないから、参拝する気はありません。そもそも霊なんてもの自体、信じてないので。ただし、参拝したいという信者を止めることはしません。少なくとも神社に参拝するという行為は暴力的でもないし、他人に危害を加えてもいませんから止める理由はありません。
 参拝する人に対しても、しない人に対しても、私は悪感情を持ってません。私がなにより許せないのは、選択の自由を奪おうとする人間です。自分の価値観や信仰だけを唯一の正解として、他人にも押しつけるヤツがとにかく嫌い。
 霊を信じないことは不敬でも不遜でもありません。霊を利用して自分の政治信条などを他人に押しつけようとする人こそが、もっともばち当たりなのでは? そういう人間がまっ先に霊に呪い殺されてても不思議じゃないのに、そうなってないことが、霊が存在しない証明になるんじゃないの。ま、霊を信じる人たちは論理的説明を拒否するから納得しないだろうけど。

 私は唯物論も無神論も唱えてません。そういうめんどくさいものは、勉強する気になりません。心を否定しないけど、歴史と信仰の間には一線を画せといってるんです。歴史はまず事実ありき。信仰や感傷はあとからついてくる分にはいいけれど、先に立ててはいけません。
 神社仏閣教会など宗教施設を訪れるのも好きなんですが、宗教建築や美術品を見たいからです。行っても拝んだり祈ったりしません。それは神の存在を否定してるわけじゃなく、神頼みをしないだけ。
 人間、死んだらそれで終わりと割り切ってます。死ぬまでどう生きるかが大事です。だけど、死んだあとのことはどうでもいい。墓もいらないし、墓参りをしてほしいとも思いません。
 よく、好きな作家やミュージシャンの墓参りをする人がいますけど、あれ、理解に苦しむんですよね。生前住んでた家やゆかりの地、作品の舞台を訪ねるというのならわかるのですが、墓はその人の業績とは関係ないから、他人が行っても意味ないじゃん。あ、自分はしないけど、墓参りしたい人にするなとはいいませんよ。それは自由ですから。
[ 2015/08/17 17:40 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

『「昔はよかった」病』の反響あれこれ

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。『「昔はよかった」病』は地道に評判が広まってるようで、売れ行きも私の本にしては珍しく好調です。おかげさまで増刷もされました。買ってくださったみなさん、ありがとうございます。

 自著の評判は検索しないようにしているのですが、今回、ツイッターだけちょっと検索してみました。
 以前から私の本を読んでるかたからは、おおむね好意的に評価されてるようです。もう少し突っ込んでほしいところがある、って指摘は悩ましいところなんですよねえ。調べたけど使わなかったネタがたっぷりあるので、加筆すれば2倍、3倍の分量にもできますが、長くすると読みにくくなりますし、新書だとこれくらいのバランスがいいのかな、とも思います。

 絆とふれあいの回で、学校の校門で毎朝先生が生徒にあいさつしてるのは気持ち悪い、とたった2行の記述で済ませてますけど、その2行のために、そういうあいさつをいつだれがはじめたのか、というところまで調べてます。
 それについては以前のブログでこぼれ話として紹介しましたが、そういうのまですべて入れたら新書の枠でおさまりません。
 逆にいうと、そのくらいの裏打ちがあるので、薄い新書でも、そんじょそこらの文化論もどきエッセイとは次元が違うという自信があります。

 私の本をはじめて読む人は、予想とのギャップにとまどうこともあるようです。予想をはるかに上回る情報量と、予想を裏切るしゃべり言葉のような軽い文体、そして予想以上の皮肉や毒の量に理解が追いつかない。
 江戸弁のような文章がいいと、文体をほめてくれたかたがいたのは嬉しかったですね。私は落語が好きで、文体に落語や講談の口調やリズムを取り入れ、読みやすさにも気をつかっているつもりなのですが、活字だとなかなか気づいてもらえないんですよ。

 もちろんその一方で、批判、否定的なご意見もありますが、検討する価値のあるものは見当たりませんでした。発売前に、批判は抽象的・精神論的なものばかりだろうと予告しておいたのが的中したのが残念。具体的な証拠を添えた建設的な反論でしたら、大歓迎です。

 批判ではないんだけど、そもそも本を読まずに感想を述べてるかたがけっこう多いんですね。ネット上のレビューやツイートに反応して意見を述べるだけで、本を読んだかのように満足しちゃってる。
 その手のもので多かったのが、「むかしはよかったというのは日本だけじゃないよ、外国にもあるよ」みたいなご意見。
 そうでしょうね。ていうかそれ、みなさんに指摘される前に先回りして、『「昔はよかった」病』の冒頭、4ページ目に書いときました。2500年前の孔子も口癖だったくらいだから、むかしはよかった病は現実に失望した中高年ホモサピエンスが必ずかかる病なのでしょう、と時代と国を越えた人間心理であることを皮肉たっぷりに指摘してあります。
 でも今回私はそこまでつっこんで論じてません。なぜなら、今回は日本の例を調べるだけで手いっぱいだったから。私は、調べてもいないことを想像で書くようなインチキはしないので。

「むかしはよかったというのは日本だけじゃないよ、外国にもあるよ」
「おもてなしの心は日本人だけのものじゃないよ、外国人にもあるよ」
「日本の職人の技術はすばらしいけど、外国にもすばらしい職人はいるよ」
「日本の自然は美しいけど外国の自然も美しいよ」
 どれもそうでしょうね。だけどそういう人たちは、たった1個か2個の事例を根拠にしてるだけ。仮説を並べてるだけにすぎないので、反対例を3例くらいあげられたら負けてしまいます。
 前から何度も口を酸っぱくしていってますが、仮説は検証を経てはじめて理論になるんです。歴史や文化論の場合、証拠となる大量の事例を集めるしか検証方法はありません。
 私は今回、むかしの日本人や日本社会はいまと比べてホントによかったのか、それをテーマに1年以上かけてさまざまな事例で検証しました。その結果、べつによくはないよ、いまと変わらないか、いまより悪いことも多いよ、との確信を深めました。
 教育再生が必要だとか、日本を取り戻すとかいってる懐古主義者たちは、むかしの社会の実態を調べもせず、イメージで語ってるだけなんです。むかしのほうが悪かったのだから、再生したらよけいに悪化しちゃいます。
 戦前の教育のダメッぷりは、『怒る!日本文化論』ですでに書きましたし、「むかしは近所のおじさんがこどもを叱ってくれた」という伝説を私が実践してみた話などもありますので、私を嫌ってる懐古主義者のかたは、こちらのほうがおすすめかも。
[ 2015/08/09 22:11 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

永田町で昔はよかった病患者が確認された模様

 こんにちは、ドクターPこと、パオロ・マッツァリーノです。
 いやあ、恐れていたことがおきてしまったようです。以前ツイッターで、自民党が勉強会とは名ばかりのポンコツ養成ゼミを開いていることに警鐘を鳴らしたのですが、ゼミに参加していたと思われる議員のひとりが、重度の「昔はよかった病」を発症してしまったようなのです。
 その患者は安保法案に反対する人たちの言動を、戦後教育のせいだと決めつける発言をネットに書きこんだのです。
 この患者が戦前教育を受けた80過ぎのおじいちゃんなら、そういう考えを持つのも仕方のないところ。しかし、患者は30代の若手なんです。戦後生まれで戦前の教育のことなどなにも知らないくせに、戦後教育が悪いとどうして決めつけられるのでしょう?
 自分も他のみんなと一緒に戦後教育を受けたはずなのに、どういうきっかけで、他のみんなは洗脳されて、自分だけは洗脳をまぬがれたと思うようになったのでしょう?
 これらの症例は、昔はよかった病患者には、決して珍しいものではありません。自分も戦後教育を受け、戦後民主主義の恩恵をたっぷり受けて育っていながら、戦後教育と戦後民主主義のせいで日本はダメになったという妄想にとらわれてしまう患者は少なくありません。しかもこの病気は、いったんかかるとなかなか完治しにくいことで知られています。近現代史研究家のあいだでは、これを難病指定するよう、厚生労働省に働きかけることも検討されています。

 しかし、あきらめるのはまだ早い。ドクターPにおまかせください。ワタシ、失敗しないので。
 先日発売されたばかりの新潮新書『「昔はよかった」病』という本が解毒剤になります。日本社会も日本人の行動も、ここ数百年ほとんど変わっていないことを歴史的に証明していますので、一読するだけで症状がかなり緩和されることでしょう。
 この本を国会議員のみなさん全員でお読みになれば、勉強会みたいなことにムダな時間を割く必要もなくなります。値段の安い新書ですので、ちょっとあまってしまった文書通信交通費などでお買い求めいただけるのではないかと期待しております。グラッチェ。
[ 2015/08/02 21:53 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告