アテネのライバルとして
古代ギリシャにおいて、アテネのライバル国家であったスパルタは、同様のポリス社会を基盤としながら、全く異なる国制を敷いていた。アテネにおいて高度に発展した民主政は、スパルタにおいては現れなかった。
スパルタといえば、「スパルタ教育」の名で知られるように青少年に課した厳しい鍛錬と国家への忠誠心が注目される。しかし、ドイツのナチスがその国民統制を模範とし、明治維新以降の日本がある意味で国家への忠誠心と軍国主義教育のあるべき姿として賞賛したような単純なものではない。
その得意な国制については、後世、ローマ帝国の哲学者・プルタルコスが多少の誇張もこめて書き記している。それによれば・・・、
〈支配層は二つの王家からなり、一年任期の役人たちがその執政を支えた〉
〈家庭生活、夫婦生活より国家が優先される。子供が生まれると。部族員の集会所で検査され、健康や体力面で問題があるとされると山の穴に捨てられる。男児は7歳になると、国家の養育院に預けられ、少年隊に編成される。共同生活の中で身体鍛錬を積み、思慮深さと勇気、忍耐など、のちにスパルタの市民生活で求められる徳を身につける。女児も同様に教育されるが、これは、より良きポリス(国家)成員の後継者を産むためである〉
アテネが、その海軍力を主力としたのに対して、スパルタは、命を惜しまぬ重装歩兵中心の陸軍国としてギリシャ世界に君臨した。
軍事優先主義は国内の経済事情から
国家政策は長老会で立案作成されて市民権を持つ成人男子による民会で決定される点はアテネと共通だが、アテネでは民会が圧倒的な力を持つ民主政へと成長したのに対して、スパルタでは、あくまで「国家」の概念が最優先される社会として発展した。
二つのポリス国家の路線の違いは、社会構成とそれに伴う経済構造の違いから生まれている。アテネは均質的な中農層市民が大きな比重を占めるのに対して、スパルタでは、三つの階層が歴然としていた。ギリシャ北部から南下して先住民を征服して建国した歴史がある。国内にはスパルタ人のみが市民権をもち、周辺地域の非征服民には参政権がなかった。そのうち、第二階層(ペリオイコイ)は商工業を担う自由民だが参政権はない。第三階層(ヘイロータイ)は、耕作する農地からの収穫する現物をスパルタ支配層に貢納する農奴であった。支配層のスパルタ人は、労働する必要がなく、貢納物で暮らすだけで、仕事は兵として軍事に専念していればよかった。江戸時代でいえば、武士を想像すれば良い。質素を旨とし、徳育を受け武術を磨く。
農業を担う奴隷も自前で確保されていたから、アテネなど他のポリス国家のように、黒海周辺などから奴隷商人を介して手にいれる必要もなかった。そのためにスパルタ人は、アテネ人のように貿易に頼る必要もなく、海洋進出にも無関心だった。この体制は、それなりに安定的に運営されたが唯一の懸念は、ヘイロータイ(農奴層)の反乱だ。現実に農地の私有権を求める彼らの武力反抗に手を焼いたこともある。農奴層はスパルタ全人口の半分から3分の2を占めていた。
スパルタの軍国主義化は、国内経済事情によるもので、その軍事力強化は、対外戦争用というより、意外にも国内対策だった。
海外の脅威には鎖国でのぞみ、国内の一揆を警戒する徳川時代の士族。
アテネの民主政への警戒
スパルタ人の国家主義的な精神性重視の国家運営は、民主政に傾く他のポリス国家にとっても、ある種の尊敬の対象だった。過度の民主政は、「衆愚政治」に陥る危険と隣り合わせだったからだ。しかしスパルタを真似ようとするポリスは現れなかった。
スパルタにとっては、民主化を押し進めるアテネは危険だった。特異なスパルタ路線を危機に陥れる懸念があった。ことあるごとにアテネの民主化路線に干渉してきたスパルタ。ついに、ギリシャ・ポリス社会の覇権をめぐり、アテネと激突することになる。ポリス社会の体制競争の決着をかけた一大決戦、ペロポネソス戦争が勃発する。
アテネとスパルタ。どちらの体制が勝利するのか。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『スパルタとアテネ』太田秀通著 岩波新書
『古代ギリシャの民主政』橋場弦著 岩波新書