2022年11月 - Age of Pen

眠れる月照り凍れる

上高地も残渣になってきたのでもう一年さかのぼって京を思いましたが誰もが撮りそうなありきたりばかりでした。
10年前の自分に幻滅です。

001-LR-ZB228328-Edit-1-.jpg
002-LR-PB223230-Edit-1-.jpg
003-LR-ZB228121-Edit-1-.jpg

以前に、川端康成に対して「質は細部に」と三島由紀夫が高く評価している記事を引用しましたが、三島が川端の『眠れる美女』を解説した文を孫引きします。

『眠れる美女』は、・・・ふつうの小説技法では、会話や動作で性格の動的な書き分けをするところを、この作品は作品の本質上、きわめて困難な、きわめて皮肉な技法を用いて、六人の娘を掻き分けている。六人とも(一糸まとわぬ裸で)眠っていて物も言わないのであるから、さまざまな寝癖や寝言のほかは、肉体描写しか残されていないわけである。その執拗綿密な、ネクロフィリー[死体愛好症]的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致と云ってよい。・・・私はかつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない。(塩澤幸登 note「本の記憶。 晩年の川端文学」から孫引き)

pithecantroupusは、この本を読み進めて正気を保つのは難しいと感じてましたが、三島の反人間主義という言葉に、この本の読み方を教えてもらいました。なお、引用させてもらいながら失礼なことですが、元にある筆者の言い分には肯えないものを感じます。

 ポール下獄せしかばわれは眠れるを月照りユーカリの凍れる紺   (塚本邦雄:水銀傳説)

の中の空

脱走しようとフェンスをよじ登っては中途で諦めることを繰り返しているあの人は何を思っているのだろう。
きょうは疲れました。

001-LR-ZA319345-Edit-1-.jpg

 養老院へ父母を遣らむとたくらむに玩具のバスの中の空席   (塚本邦雄:日本人靈歌)

なにが悪い

マンネリは悪ですか。

001-LR-PB250014-Edit-3-1-.jpg
nokton 29mm 0.8
002-LR-ZA319380-Edit-1-.jpg

 靑酸加里の味の青梅?世紀末今日安樂死の何が惡い!     (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

ふつふつと憂国の

どうも同じことばかり繰り返して同じような写真ばかり。となりの市のお城と上高地。

001-LR-PB250025-Edit-1-.jpg
m.zuiko 50mm 2.0 macro
002-LR-ZA319454-Edit-1-.jpg

三島由紀夫を忘れていたので、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で、20年前、第一回小林秀雄賞を受賞した橋本治の当時のインタビューから、

 何のために書いたかというと、三島由紀夫の「鎮魂」をしてあげたかったから。「可哀想な人だから『鎮魂』してあげよう」と。もしかしたら文学の目的って「鎮魂」なのかもしれない。今『平家物語』をやっているんだけど、これは「王朝」という時代のものすごく大きな「鎮魂」なんです。『平家物語』にしろ『源氏物語』にしろ『日本書紀』にしろ、歴史の体系を作っていた「王朝社会」というものが滅んでしまって、その滅んだというのをはっきりさせないと、次の時代は生まれないから、同じように「鎮魂」が必要だと思っているんです。前に行きたがるくせに、後ろに戻るというへんなことをやっているというのは、たぶんそういうことなのかなって。


 罌粟壺に億の罌粟粒ふつふつと憂国のこころざしひるがへす   (塚本邦雄:魔王)

こそこそ三島

きょうもこそこそ”ついでに写真”、”むかし上高地”。”ついで”は毎度なに撮ってるのです。

LR-PB250013-Edit-2-1.jpg
nokton 29mm 0.8
002-LR-ZA319549-Edit-1-.jpg

「こそこそ」で、
 無能無才なればこそこそ末弟もわれとつつけるこの初鰹   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

うっかりと昨日が三島由紀夫の命日だったことを見過ごしていたので、おなじ「約翰傅偽書」から、
 緋の百合三莖引摺るごとくひつさげて霰の中を奔る、三島忌   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

くわうえふの

お昼ご飯ついでに写真と、むかし上高地で貼り逃げ、こそこそ。

001-LR-PB250039-Edit-1-.jpg
nokton 29mm 0.8
002-LR-ZA319478-Edit-1-.jpg

 黄葉(くわうえふ)の若狭にありて書きおくる母死にき鸚鵡死にき葬(はぶ)りき   (塚本邦雄:天變の書)

フラ・フラ

また上高地へふらふらと。

001-LR-ZA319439-Edit-1-.jpg
002-LR-ZA319473-Edit-1-.jpg
LR-ZA319300-Edit-1.jpg

フラ・フラで、
 父の痛風知つて訪ひ來し初蝶か フラ・アンジェリコ、フラ・アンジェリコ   (塚本邦雄:不變律)

うさうくわもん

毎度のことですが11月後半というのに年賀状もカレンダーもお歳暮も手つかずです。一歩前進するために今日は年賀状の試行錯誤を。

001-LR-MK337911-Edit-1-.jpg
002-LR-MK337881-Edit-1-.jpg
003-LR-MK337976-Edit-1-.jpg

ウサギのかわりの”ウサ”で、
 エミール・ガレ群靑草花文花瓶(ぐんじやうさうくわもんくわびん)欲りすたとへば父を賣りても   (塚本邦雄:歌人)

ヒゲの実

上高地にもどって。

001-LR-ZA319365-Edit-1-.jpg
LR-ZA319403-Edit-2-1.jpg

雑誌サライのWebにあった2018年の記事「箱石シツイさん(理容師・101歳)「人生は根気と努力です。必要としてくれる人がいる限り、私は床屋を続けたい」を読んでいたら、日本刀のことが書いてありました。

(理容師の修行に)軽い気持ちで東京へ出たんです。それが16歳のときで、満州事変の頃です
 店は浅草の吾妻橋の近くで、お弟子さんも3人いて、みんな14歳くらい。私より若いんですよ。皆さんまだ遊びたい盛りですからね、就業時間が終わると川べりに立つ夜店を覗きに行くんです。でも、私は少しでも早く皆さんに追いつこうと、3日に1回は誘いを断って、一所懸命に日本刀を研ぎました
 その頃は髭を日本刀で剃ったんです。西洋剃刀が普及するまでは、鞘のない刃がむき出しの鉄の刀で髭を剃りました。髭が濃い方なら一度剃ってから、次に皮膚を引っ張りながら逆剃りをして、肌をつるつるにしました。


小さいころに通った床屋さんのご主人は、イヨマンテの夜を歌った伊藤久男似。立派な刺青の持ち主で以前渡り職人だったというウワサを聞きました。日本刀が似合いそうな美丈夫でした。

 われの生と彼の死の間五、六歩に蛇の髭の實のラピスラズリ   (塚本邦雄:詩歌變)

なごみ

ゴミですが。

001-LR-MK397819-Edit-4-.jpg
tokina 300mm reflex
002-LR-MK387673-Edit-4-.jpg
7artisans 50mm 0.95

”ごみ”で、
 父とわれ稀になごみて頒(わか)ち讀む新聞のすみの海底地震   (つかもとくにお:水銀傳説)

ヤフーでニュースを見ていたら「FIFAワールド杯カタール大会――「人権侵害」批判はどこまで正当か」という記事があったのですが、記事のはじめの方にあった『自分のことを棚にあげる』という言葉に、そこから先に読むのが嫌になりました。
あとになって気をとりなおし読むと、内容は面白かったのですが、やはり『自分のことを棚にあげる』と書く記者は信用できないなぁ。
ペンをにぎる者なら『自分のことを棚にあげる』のが当然。批判者の心得だと思うけど。

えがたき

きのうのつづきを。ただ撮りたてというだけですが。

LR-MK397778-Edit-4.jpg
tokina 300mm reflex

先日ちょこっと引用した大濱普美子『陽だまりの果て』の著者エッセイが本の出版元のnoteに載っていたのでその一部を。

 視覚的な記憶とその厖大さに思いをなすと、最後に目にするのはそのような映像の繋がりであるのかもしれないと、そんなふうにも思う。
 死の間際になって、視覚も聴覚も触覚も臭覚も味覚も失われ自身の殻の中に閉ざされたとき、見えてくるものは記憶の中にしかない。〈陽射し〉や〈影〉の映像が立ち現れ、溶け合い、最後に一瞬ズズっとブレた後、古い昔のテレビを消したみたいに平坦な線に収斂してプツンと途切れる。・・・意識の終わりとは、そのようなものであるのかもしれない。
 現に今見ている光景も、そうして記憶の奥底に保存され、あわよくば時に再生され、やがていつか他のあらゆる場面と等しく消去されて確実になくなる。ただ目の前にある絵は、その不確かさとはかなさと移ろいさえをも色と形にして視覚化し画面に定着させて、不変に残すことができるのだった。


著者は絵画のことを言っているのですが、写真だって同じことが言えるのではないかと、願望も交えて思うのです。

 逢はでこの世を過ぐすすがしささはれ戀敵、繪敵、はた歌がたき   (塚本邦雄:獻身)

さにづらふ

仕事おわったぁ。よく働いたお前は偉い。
と言っても世間並の働きに比べれば遠いレベルですが。

LR-MK397811-Edit-4.jpg
tokina 300mm reflex

 異變といふには遠けれど三歳の飼犬リラが人にさにづらふ   (塚本邦雄:波瀾)

眼の記憶

ひと仕事終了ですが明日もまた仕事。とはいえ、歳とともに規範意識が低下している証拠に、お昼休みの15分間で散歩ついでの写真を撮ってきました。いえ、写真を撮ったと言えるのか。単なる眼の記憶なのではないかと思われます。

001-LR-MK387609-Edit-4-.jpg
7artisans 50mm 0.95
002-LR-MK387715-Edit-4-.jpg
7artisans 50mm 0.95

家庭画報のサイトの連載「スーパー獣医 野村潤一郎先生の動物エッセイ」から『犬はどこまで人間か』の一部を。

 人間の子どもも人間として育てればヒトになるが、狼が育てれば裸で走り回るヒトではない何かになってしまう。犬はもちろん獣の一種だが、長きにわたる家畜化によりヒトになるポテンシャルを持っている存在なので、これはもう人間として育てる意味が十分にある。

 私は7歳で“自分の犬”を手に入れてから53年間、歴代の愛犬たちと人生を歩み、その経験に基づいた回答として犬のヒューマナイズ、つまり人間化のススメを説いてきた。仔犬に絵本を読み聞かせ、言葉を教え、社会のルールを教育し、玩具を買い与え、一緒に遊び、食べ、風呂に入り、同じ布団で眠る。


この連載の他の回をみるとこの先生の頭は大丈夫なのかと思うけど、愛犬家の方々にとっては当たり前のことなんでしょうね。

 飼犬ルカの戀はみのるか家具店のうらには枇杷の熟實瞬き   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

霜月の霜

目がまわるほどの一週間もあと二日。そこが山。

001-LR-ZA319329-Edit-3-4-.jpg
002-LR-ZA319359-Edit-4-.jpg
003-LR-ZA309140-Edit-4-.jpg

 霜月の霜あたたかし眞處女(まをとめ)がこころに孵(かへ)す剣龍(ステゴザウルス)   (塚本邦雄:詩歌變)

なほゆかむ

なおなお。

001-LR-ZA319430-Edit-4-.jpg
002-LR-SDIM2108-Edit-4-.jpg
003-LR-ZA309146-Edit-4-.jpg

月がちがいますが”なお”で、
 なほゆかむ言葉の彼方文字の森さやけきひびき傳ふる九月   (塚本邦雄:靑雲吟)

カメはヒビなのか

変り映えしない写真ですみません。

001-LR-ZA319310-Edit-4-.jpg
002-LR-ZA319299-Edit-4-.jpg
003-LR-ZA309179-Edit-4-.jpg

泉鏡花賞を受賞した大濱普美子「陽だまりの果て」の短いインタビューが載ってました。
中の 「人間の記憶は、ぐるぐる変わっていく」という受賞者の言葉に惹かれました。
pithecantroupusも「ぐるぐる」してるけど、これは文学的でなく医学的な話。

 今回で選考委員を退任する金井美恵子さんは欠席したが、録音を会場に届けた。「芥川賞直木賞は受賞者が耽溺(たんでき)するように芥川全集や直木三十五を読んでいるとは誰も考えない。鏡花賞の一番の魅力は受賞作家の多くが鏡花作品を愛していること」。選考基準は「この小説を鏡花が好きかどうか」だったという。
 今年の受賞作は金井さんの推薦で「鏡花が選考していたら間違いなく推していた」。


「鏡花」という単語に耳がピクピクしたので引用しました。

鏡花のかわりに鏡で、
 鳩の卵の網の目の龜(ひび)わがマンディアルグ巻末まで萬華鏡   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

惜しい

上高地、松本なおなおなお。

001-LR-ZA319275-Edit-4-.jpg
002-LR-ZA309164-Edit-4-.jpg

▼Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」Q「何も食べなかったんですね?」A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので…」
▼Q「では、何か食べたんですか?」A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂(と)る、というのは健康のために大切であります」Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」A「ですから…」
▼Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣としての業務に支障をきたしますので」
西日本新聞「春秋} 「ご飯論法」… より抜粋)

われわれが国葬をしてあげた元首相の特徴が「ご飯論法」だそうです。ただし同じ単語を採り上げた産経「浪速風」にはAbeのAも出てきませんが。

ぐずぐずといつまでも愚痴っているのは老化のせいです。だから国葬をうじうじと言ってしまうのです。
税金ではなく、日本という国の名が惜しいのです。そして恥ずかしい。

”惜しい”で、
 ささやきて別れ惜しまむ野のすゑの星一しづく赤き夜明に   (塚本邦雄:花にめざめよ)

しぐれゆうぐれ

上高地、松本なお。

001-LR-ZA319636-強化-Edit-4-
002-LR-ZA319483-Edit-4-.jpg
003-LR-ZA309188-Edit-4-.jpg

やっぱり昨日の引用は重複していました。トホホ。気をとりなおして別の引用を。

Realtokyoというサイトのinterviewという連載第38回にいしいしんじという小説家がとりあげられていました。
きょうの写真ほどではありませんが、2011年5月の古い記事です。

4歳のときに処女作を書いたとか、大学受験で「画材の不正利用」で「失格」となったとか、勤務先のデザイン事務所社長から「君は絵描きになったら野垂れ死にする」と言われなどなど、面白い人のようです。
京都芸大に落ちた理由を語っているくだりを引用します。

 本当は画家になろうと思っていました。だから、京都芸大を受けたんです。あそこの大学の結果発表は面白くて、合格者と不合格者が両方とも発表されるんですよ。それでその発表を見に行ったんですが、どちらにも名前がない。・・・
 びっくりして事務所に行ったら、指導教官なる人がいて「君の作品は認められない」って言うんです。試験の課題は、シルクロードのポスターを細長い紙に描くというもので、5時間くらいで描くんですが、試験中、他の人の作業を見てもいい。30分くらい他の人を見てたんですが、だいたいみんな同じように、イスラム寺院や砂漠やラクダを描いてるんですね。そこで、なんか違うことせなあかんと思って、その細長い紙を切ってシルクロードの本を作りました。
 ページによってはコマ割りをして、それぞれに絵を描いたんですよ。それが認められんと言うんで「何でですか」と聞いたら、「君は紙の表裏を使ってる。絵はこっち側だけに描かなあかん」。ほんまですよ。画材を2倍使ってるから、あかんっていうことです。


 嬰兒(ベビー)大學開放の日の蝉しぐれしぐれしぐれて夕暮となる   (塚本邦雄:魔王)

ルール通り

上高地へ入る前に松本に行ったようです。写真の記憶ですが。

001-LR-ZA319547-Edit-4-.jpg
003-LR-SDIM2061-Edit-4-.jpg
002-LR-SDIM2056-Edit-4-.jpg

孫引きが続きますが、WEBちくま連載「昨日、なに読んだ」の『File68.おもんない「個性」に回収されない人間の「中途半端」に出会う本 山田太一編『生きるかなしみ』』(大山海)から。

 山田太一が編んだアンソロジー『生きるかなしみ』(ちくま文庫)の「断念するということ」という文章にこんな言葉があった。

 大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?/私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?/本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。


この文のはじめにあった「倉田精二のいかがわしい写真」という言葉に反発を感じて以前にすでに引用したような気もします。
でも引用した部分に記憶がありません。
古い事は覚えていて、新しい事から忘れていくというルール通りです。

断念のかわりに、弾道で。
 彈道の果てに野展(ひら)けいたましき空閒に馬・百合・樹木・人    (塚本邦雄:水葬物語)

血を吸われ

きのうのつづきで。

LR-ZA319289-Edit-2-4.jpg


きのう引用した元の文からもう少し引用します。(新潮社のサイト「考える人」連載『文学は予言する』第4回(著者 鴻巣友季子)

 父権社会で男性たちが自分の理解を超えた女性の力に出会ったとき、対処に困った彼らは女性たちにレッテルを貼ってきた。・・・「聖性」であり、もう一つは、・・・「魔性」だ。・・・集団でのレッテル貼りは「他者」をコントロールする手段の一つだ

 という筆者はつぎつぎと例をあげます。
「華麗なるギャツビィ」のスコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダ、相対性理論のアインシュタインの妻ミレヴァ・マリチ、クララ・シューマンなどなどあげ、さらに小説に出てくる女性も。さらに現代の女性作家の言葉を引用して、

 神経衰弱、ノイローゼ、メランコリー、うつ、境界線パーソナリティ障害――女性の内なる不調は、その時代により便利な名前を与えられてきた。男性たちはこうした「狂気」を女性の本質と捉え、父権社会の原理に整合しなければ安易に幽閉してきた・・・

というところまで読んで、pithecantroupusは高村智恵子とゲルダ・タローを思い出していました。前者はもちろん「智恵子抄」の彼女、後者はロバート・キャパのパートナーです。
才能という血を吸われるのは”美女”ですよね。美女でもないpithecantroupusは吸われるほどの血もないか。残念。


 世界昏れつつあり『魔の山』の終章を目にたどりつつ眩暈(げんうん)兆す   (塚本邦雄:風雅黙示錄)

かすかな酔い

10ウン年前にカミコウチへ行ったようです。写真がそう言ってます。

001-LR-ZA319283-強化-Edit-4-
002-LR-ZA319234-強化-Edit-4-

 霜月の三輪の味酒(うまざけ)かすかなる醉ひごこちグレゴリウス聖歌   (塚本邦雄:閑雅空間)

またまた孫引きを。記憶のためのメモです。

 次々と愛人をつくり、自滅していったボヴァリー夫人が患っていたのは「退屈」などではない、とザンブレノは書く。「別の誰かが書いた筋書きのなかに、登場人物として、閉じこめられてしまうこと」(ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』)だったのだと。

他者に望まれるように生きた結果だけではないけれど、「あの時」と思う毎日です。

豚ト ヨバレテ

雑草との戦いに敗れた庭ですが、これから冬枯れになって少しはマシになるのでしょうか。
雑草に埋もれている立木の葉っぱが色気づいていたのでパシャ。

001-LR-MK397535-Edit-4-.jpg
002-LR-MK397546-Edit-4-.jpg

きのうまでの坂内村もこっそり混ぜて。
003-LR-EB039120-Edit-4-.jpg

Treeというサイトに掲載されている雑誌『群像』エッセイ集から、雑誌2021年1月号に載った佐野広記「希望の豚」の一部を引用します。

文中でふれられる「番組」とは、NHK−BS1スペシャル「ただ自由がほしい~香港デモ・若者たちの500日~」(2020年10月25日放送)だそうです。

 ボクタチ ワカモノハ、ズット、豚ト ヨバレテ キマシタ
 その番組は、こんなカタコトの日本語で始まった。・・・

 映像にのった撮影者の声は、切なくて力強かった。香港人ならではの言い回しも随所にまぶされる。その1つが冒頭に紹介した豚の台詞だ。「僕たち若者は、ずっと、豚と呼ばれてきました。平和ボケして、政治に無関心、食べることにしか興味がない豚」。妙に日本人と重なり合って響いてくる。

 香港の若者たちは、目を覚ますことができた。では私たち日本人は、どうだろうか。・・・


行儀のよい日本人ばかり作る手伝いをしてきた事を恥ずかしいと思う今日この頃です。

 ゴッホの耳、否一まいの豚肉は酢に溺れつつあり誕生日   (塚本邦雄:綠色研究)

星蝕

何撮ってるのと聞かれても困ります。

LR-EB039132-Edit-2-4.jpg

雑誌GQ JAPAN編集長をもう降りてしまった鈴木正文が2017年1月書いた「犬に吠えられた正月におもったこと」から、孫引きの孫引きを。

 アメリカの自閉症協会の「定型発達」に関する定義を紹介する。
 その一部をここに簡略にまとめると、①非常に奇妙な方法で世界を見、時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつく②社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりする③テレビコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣する④社会的懸念にのめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる神経性生物学上の障害を有する、などといったことが特徴なのだという。
 いうまでもなく、この「定型」こそが、世の支配的な発達のタイプで、いわば”正常”型である。それにたいして自閉症者などさまざまな神経発達上の障害のある者は「非定型」の発達を示す。定型がない、ということだ。


数が多いほうが正常で少ない方は異常なのか。

今夜は月食で天王星食だそうです。
 星蝕は負(ふ)の星月夜またの日のみをつくしわが眞晝に還れ   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

なすこともなきひるさがり

”ガレリアン”は坂内村の残りもので飢えをしのぎます。

001-LR-EA035935-Edit-4-.jpg
002-LR-004-EA036017--Edit-4-.jpg

 立冬のなすこともなきひるさがりひと來てたまひけるあめのうを   (塚本邦雄:風雅)

ガレリアン

家事労働は重労働です。きょうははガレリアン。

LR-LR-MK347275-3-Edit-4.jpg
坂内村でお茶を濁します。
LR-EB039115-Edit-4.jpg

 漕刑囚(ガレリアン)のはるけき裔か花持てるときもその肩もりあがらせて   (塚本邦雄:装飾樂句)

セミ感

やっぱり今月も天中殺です。もしかしたら一年中そうなるのではないかと。

001-LR-MK337159-Edit-3-.jpg
samyang 135mm 2.0
002-LR-LR-MK347339-1-Edit-2-.jpg

あたらしい言葉を憶えました。

 「セミ感がある」
 (「半ば」や「準」などの意味かとも思ったが)
 時間をかけて準備をしたのに,日の目を見たのは短い期間だったという,いわばはかない感じの「セミ感」だった。なかなかユニークなことばのセンスだが,「〇〇感」のように「感」がつくことばは,驚くほど数が増えているように思う。
・・・
「感」について考え出すと止まらない。「納得感がほしい」と「納得したい」はそもそも意味が違うのか。秋の夜は長い。「栗感」たっぷりの栗ごはんでも食べつつ,もう少し考えてみよう。
NHK放送文化研究所 中島沙織「〇〇感」

どっかで使ってみたいなぁ。

 白蠟の蟬生るるとてあけぼのを怖る 不敗のサッカー主將   (塚本邦雄:閑雅空間)

つかのまも

10月が天中殺って書きましたが11月も引き続き天中殺ってあるのでしょうか。
つまらない写真です。

001-LR-MK337201-Edit-2-4-.jpg
samyang 135mm 2.0
002-LR-MK337177-Edit-4-.jpg
samyang 135mm 2.0
いなばのしろうさぎならぬ、あまみのくろうさぎ。
003-LR-LR-MK347366-4-Edit-2-1-.jpg

あまみのクロウサギなので甘酒。
 甘酒に舌灼くつかのまも喋りつづけて國家憂ふる莫迦   (塚本邦雄:汨羅變)

為しも成させもする前に

お昼ご飯のついでに写真ですが、なかなかカメラを持ち出せていないのでたった10分の撮影が楽しい。

001-LR-MK337238-Edit-4-.jpg
samyang 135mm 2.0
002-LR-MK337226-Edit-3-4-.jpg
samyang 135mm 2.0

7月にも引用したみんなのミシマガジン「こんな座右の銘は好かん!」の最新記事から。(仲野徹『為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり』

(この言葉の由来から上杉鷹山にふれたうえで)こういう人が自らを振り返り、「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」と独りごちたりするのはとてもよろし。納得だ。毎晩百回となえてもよろし。普通ならできそうもないことを成し遂げた松下幸之助しかり、稲盛和夫しかりである。しかし、心構えとしては悪くないけれど、何事も為しも成させもする前にこういう言葉を軽々に発するのはあかんのとちゃうのか。それに、なにかを成した人を誉めるために言うのはいいとして、人になにかをさせるための説得にこういうフレーズを用いたりするのはもってのほかやろ。パワハラ認定になりかねなませんで。

「何事も為しも成させもする前に」は耳が痛いなぁ。こういう言葉を発する資格は永遠に来ないなぁ。
筆者が有資格者の例に挙げたのはパナソニックの松下幸之助と京セラの稲盛和夫で、さすがに筆者は阪大の先生。
何故五十六が例にならないのかと思って探したら、こちらは鷹山の別の格言で、pithecantroupusの記憶違いでした。

 君こそはわれを射とめむ水底(みなぞこ)に白斑(しらふ)の鷹の眠るころほひ   (塚本邦雄:星月夜の書)

望蜀

おおらかな気持ちで見てやって下さい。(笑)

001-LR-005-EA036043--Edit-4-.jpg
002-LR-EB039278-Edit-2-4-.jpg
きのうの2枚目を色付きで。
003-LR-EB039160-Edit-2-4-.jpg

きのうの丸谷才一、木村尚三郎、山崎正和による読書鼎談シリーズから朝日新聞学芸記者百目鬼(どうめき)恭三郎『読書人 読むべし』の巻を引用します。鼎談したのは多分38年前。

山崎 (木村が著者自身の内に潜む、激しい情念に言及したのを受けて)その激しい情念というのはおもに何にむけられたものなのか? 先ほどの(読書には3つのタイプがあるとした)私の分類からいいますと、一番目の功利的目的論的な読み方に対する反骨だと思うんです。功利的といっても、何も産業社会に奉仕するということばかりではなく、人生をよく生きる、自我にめざめるというようなことも含まれるんですね。そういう態度が日本では”教養主義”とよばれて、「I書店」とか「A新聞」などが大いに鼓吹してきた。それはそれで、近代化の中では意味があったんだと思うんです。
・・・
ですから、これは読書における一つの反近代主義に貫かれている。・・・


トランプを軽蔑ばかりしておれないなぁ。
ところでこの後に「望蜀(ぼうしょく)の不満」と山崎がつぶやく場面があったので望蜀を検索してしまいました。忘却の霧の中ではなく、元より知らなかっただけです。

 紅蜀葵(こうしよくき)、みづからがまづ標的になる戰爭をはじめてみろ!   (塚本邦雄:風雅黙示録)

正体が見える

質が低いのは10年以上前だから大目に見てほしいです。

001-LR-EA035957-Edit-4-.jpg
LR-EB039160-Edit-4.jpg

インターネット書評無料閲覧サイト「ALL REVIEWSオール・レビューズ」というところに大岡信『日本詩歌紀行』の丸谷才一、木村尚三郎、山崎正和による「読書鼎談」が載ってました。『柔らかい犀の角』ですっかりファンになった山崎の発言を一部引用します。

山崎 大岡さんはこの中で逐行(ちくぎょう)批評をやっている。世の中の多くの文芸評論家の中で、詩の逐行批評をやれる人というのは、そういないはずです。

・・・自分の目で一行一行読んでいって、わかり易い言葉で語ろうとしない。それを語ると、批評家のほうの正体が見えるんですね。それを避けて、何となく全体的な印象から出発して、それに思想的、哲学的解釈を加えるというのが多い。


宮沢賢治「疾中」を大岡が評した文から、)たとえば「尊々殺々殺」という言葉の解釈ですけれども、普通なら余計な解釈は書かないですましたほうが安全なわけですね。大岡さんが、尊属殺人のイメージをもった、といってくれたおかげで、読者は違うイメージももてるわけです。わたくしなどは「仏に会えば仏を殺す」というような、宗教的なイメージを感じました。

正体で、
 第三突堤正體もなき花束を拾ひてはにかめり風太郎   (塚本邦雄:獻身)