2015/10/05
塚本邦雄
神無月深夜おもへばわが街に藍靑(らんじやう)の絹なびけるごとし (黄金律)
死後はいさ生前くらき日常に秋いたりけり露に火の色 ( 〃 )
わが額(ぬか)にとどきてさむし菩提寺の障子繪(さうじゑ)のしろがねの月光 ( 〃 )
奈良、宝山寺「獅子閣」で。
M.ZUIKO DIGITAL ED 9-18mm
SUMMILUX 15mm F1.7
SUMMILUX 15mm F1.7
SUMMILUX 15mm F1.7
雑誌「デジャ・ヴェ」 第1号(1990年7月)の森山大道と飯沢耕太郎の対談から引用します。
Dialogue 『プロヴォーク』から遠く離れて
・・・・
森山 : ・・・・『プロヴォーク』の頃だって、多木さんや中平は写真で何ができるかと考えていたと思うし、また、そういう時代だった。でも僕は、そんな意識は実際はあまりなかったし、はつきり言って、あんまり興味ないんです。自分自身に何ができるか、それ意外のことは。
飯沢 : 見事なほど断ち切ってますよね。興味のあるのは自分を通して見た世界ですか。
森山 : それしかないですよね。自分が見える世界。見たい世界。
飯沢 : 世界と自分とは不可分ですか。
森山 : そんなこと、分けられると思う?
・・・・
「やっぱり」「そうだよね」と共感を持って読めます。
森山大道が中平卓馬と対談したときはこんな事いってなかったし、むしろ真逆のことをいう中平に相槌をうっていたように感じていました。
対談というのは不思議です。3人以上だと、変な話も正論のようになってしてしまうし、2人だと、ポテンシャルの高い方の色になってしまう。司会者についても、自分色をつけて自論にまとめてしまう「評論家」もいれば、良心的に対談して相手から話を引き出す飯沢のような人もいる。
だから、対談で言っていることをそのまま信じるよりも、撮った写真を信じた方が本当なのではないかと感じたりします。