それは愛なのか 「侍タイムスリッパー」 - 挑戦者ストロング

それは愛なのか 「侍タイムスリッパー」

インディーズ映画ながら評判が高くて拡大公開されている「侍タイムスリッパー」を観てきましたよ。世評に違わず面白かったんだけど、文句もある。
今CinemaScapeが落ちてて投稿できない状態なので、こっちに書く。文句を書いてますが、面白かったんですよ。観て損はしないと言っておきます。あーそれからネタバレありますので、まだ観てない人は絶対に読まないように。

紅萬子さん(右)、メチャクチャ久しぶりに見ました

面白かったんだけど、クライマックスの展開に問題あり。ええーそういう事するのかあ、と鼻白んだ。そうしたくなるのはわかるし、実際盛りあがってんのは確かなんだが。 (★3)


問題は、「映画の撮影に真剣を使い、それが曲がりなりにも現場に公認されて撮影が実行される」という脚本にある。


傑作と名高い「座頭市」1989年版では撮影に真剣を使い、人がひとり死んでいる。この事実は、映画にべったり貼りついている。立ち回りの撮影に真剣を使うことは、あってはならぬ絶対の禁忌なのだ。件の事故を知る人間にとっては常識である。当時すでに成人していた安田淳一監督が知らぬ筈がない。


この映画を、事故当事者の鴈龍(奥村雄大)はもう亡くなったからアレだけど、事故死した斬られ役俳優のご遺族に観せられるだろうか。オレは、そんなこと考えたくもないのである。


真剣を許容する映画スタッフ=撮影所を描いてしまった以上、この映画がうたう「映画への愛」「時代劇への愛」も、甚だ怪しくなる。愛がないとは言わぬまでも、愛にもいろいろあるのであって、この愛は間違ってると言わざるをえぬ。今作に東映京都撮影所が全面協力していること、それが美談とされていることにも、なんだか深刻な気持ちになるのだ。


「映画作りの映画」である以上は映画作りの裏側を見たいのだが、そのようなノンフィクション的要素はあんまりない。むしろ「映画作りを全然知らない素人衆が観客なんだから」とご都合が横行する。台本を変更したといって、字幕ともナレーションとも判別しがたい文章の羅列が延々朗読されるに至っては、ポカーンとするしかない。そんな台本があるか。主人公が寺で歴史の本でも読めばいいだけではないか。


いや、本当によくやってるし面白いチャーミングな映画なんですよ。心動かされる場面はたくさんあった。しかしそれはそれとして、文句は文句で普通にあるよという、普通の話である。

  • 追記

この映画の、いちばん感動した場面も書いておこう。それは、タイムスリッパーの新左衛門が助監督の優子さんに向かって、テレビで観た「心配無用ノ介」がいかに素晴らしく、どれほど胸を打たれたかを不器用に熱弁する場面である。


劇中の「心配無用ノ介」は定型的なストーリーを三文芝居でやっつける、いかにもダサいテレビ時代劇だ(ビデオ撮りなのにも意味があると思ったが、終盤に映画撮影になってもやっぱりビデオ撮りだったので、これは単に本作の予算がショボいだけだった)。本物の侍である新左衛門は、これを絶賛する。そのとき我々の心中にマジックが起こり、あれっ、我々がいつも気にもとめなかった安っぽいテレビ時代劇、もしかして真剣に観ればとても素晴らしいのかもしれない… と、一瞬そんな気がしてくるのである。


定型ストーリーだって、そもそも評判よかったから定型・定番として残ったのだ。撮影所が長年にわたって積み重ねてきた膨大な失敗と成功の蓄積の上で「今」作られるテレビ時代劇、それは決してバカにしたものではないのだぞ、舐めてんじゃねえぞ… と、どちらかといえば舐めていた側のわたくしはそのように言われた気がして、思わず劇場の暗闇で居住まいを正したのだった。世辞抜きでこの場面は時代劇とは何か、映画とは何か、面白いとは何か、といった大テーマに接触しており、本作の核心を成す最重要場面だと思う。