先週末は大変だった。金曜の夜に香川の宇多津で「PERFECT BLUE」の4Kリバイバルを観た。そのまま瀬戸大橋を渡り、土曜朝から岡山で「バーナデット ママは行方不明」。夕方には広島で「PIGGY」。しまなみ海道を渡り、日曜朝に愛媛の松山で「国葬の日」。香川の自宅に戻って競馬(負けた)。
地方における映画の公開があまりにもデタラメ、気まぐれ、遅れまくり、バラバラであるせいで、観たい映画をすぐに観たいせっかちなオレはこのような弾丸密航を敢行せざるを得ない。ちなみに、4本の中でいちばん気に入ったのは「バーナデット ママは行方不明」。皆さんも観ましょう。
今敏の「PERFECT BLUE」(1997)はたぶん99年頃、ビデオ化されて間もなくVHSで観た。気に入らねえなと思った。以後、今敏は気に入らねえアニメーション監督としてチラチラとオレの視界に入り続けることになった。以降オレが観た数少ない今敏監督作は「PERFECT BLUE」、「千年女優」、「パプリカ」の3本(だけ)である。
以下、昨夜CinemaScapeに投稿した感想。以前ここに書いた竹内さん関連の記事と一部内容が被るので、はてなブログにあげる気はなかったのだが、シネスケを読んだ友人から「はてなにはあげないんですか! あげないんですか!」と詰め寄られたのでやっぱり転載します。
今敏を出会い頭で嫌いになった作品 (★2)
オレは竹内義和のすべてを知る者ではないが、ものの考えかたに大きな影響を受けた人間だ。1991年に刊行された「パーフェクト・ブルー 完全変態」は竹内さんの小説だ。背景には、1989年に逮捕された宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件がある。メディアによる宮崎勤の怪物化、それを引き金にこの国を席巻したオタクバッシングの逆風を、最前線でその身に受けたひとりが竹内さんであろう。
いったいメディアに何の権利があってそうなったのか判らないが、宮崎勤の部屋を撮影した写真が雑誌に載り、テレビで繰り返し紹介された。世間は呆気なく集団ヒステリーに狂い、ホラー、ポルノ、アニメなどとその愛好家たちは差別の標的となった。
宮崎勤は別に度を越したオタクではなく、そのへんにゴロゴロいる程度のオタクだ。ああいうビデオだらけの部屋に住んでるオタクは多かった。ビデオテープは場所をとる。おびただしい蔵書に埋もれた部屋に住む読書家は無視され、おびただしいビデオテープに埋もれて暮らすオタクは蛇蝎のごとく嫌われた。そういう時代があった。
「パーフェクト・ブルー 完全変態」をよくできた小説とはまったく思わないが、アイドルの熱狂的なファンが凶行に及ぶさまを、少なくとも半分は犯人の視点から描いていた。その純粋さ、幼児性、暴力性を痛みとともに描いていた。エンターテインメントのサイコホラー小説としては出来損ないでも、竹内さんは自分の中にある宮崎勤的なるものを見つめて血を吐きながらこれを書いたのだ。サイコホラーであること自体がすでに自虐的な総括でもあるという、いかにも捻れた、ブサイクな、しかし忘れがたい本だった。オレ自身にとっても、思春期に出っ喰わした宮崎勤事件とその巨大な波紋は最大級の衝撃だったのだ。
今敏のアニメ映画「PERFECT BLUE」は、小説とは全然違う。宮崎事件に対する、世間の側に立った作品だ。商売なんだから、そりゃあそうするしかないんだろうな。今作は世界中で高い評価を受け、後にダーレン・アロノフスキーにもマネされ、今敏は巨匠になり、オレは今敏を嫌いになった。
この映画が2023年になぜかリバイバル上映されたので、20数年ぶりに観た。後半の内容をほぼ忘れていたことが判明した。
悪人を理解不能のモンスターとしてしか描けない偏狭さ。殺人行為をナメきったピザ屋のくだり。無意味で安い、無数の映像的フック。テレビ、芸能界の現場へのド素人丸出しの妄想。他分野のプロフェッショナルへの侮り。すべてに客観的態度を装う度量の小ささ。以後の今敏作品にも共通するチンケさである。本当にチャンチャラおかしい、おヘソが茶を沸かしますよ。リバイバル観たから言ってるんじゃなくて、公開当時から思ってたことだ。
何でもかんでも嘲笑して小馬鹿にしてナメきって、いったい今敏は何が好きなんだ。何がしたいんだ。何がうれしいんだ。全然判らない。いずれ判るのかと思っていたら早逝してしまった。今敏を高く評価する人は多い。天才だという人もいる。オレは全然、そう思わない。呆れるほどに、どこまでも凡庸だと思う。