「星を追う子ども」 - 挑戦者ストロング

「星を追う子ども」

新海先生の最新作「星を追う子ども」を観てきましたよ。ジュヴナイルと銘打ってはいますが、とてもお子様には見せられない、先生のチンコ丸出しの作品でしたよ。映画の出来は良くないのですが、正直言って非常に楽しんだと言わざるを得ません。

以下、CinemaScapeに投稿したコメント転載。ネタバレ有りです。

先生は性欲が強い ★3


全編を覆う宮崎駿のモノマネ、そしてそのモノマネが本家に劣っていることは誰の目にも明らかだろう。しかしそんな失敗をここであげつらうつもりはないのだ。そんな簡単な話ではすまないのだ。


新海誠先生は、庵野秀明が「ぼくたちにはコピーしかない」と言いきった後にノコノコ出てきた世代である。先生が描けるものは半径5メートルの世界、夕日差す放課後の教室、ガードレールと電信柱、蛍光灯の明滅、舞い散る桜、夕闇に灯る水銀灯、トンボ消しゴム、JR埼京線などであって、半径5メートルを超えるモチーフはすべて他のアニメや小説から安易にパクッてきた。


ほしのこえ」や「雲の向こう、約束の場所」はそうやって作られた。しかし前作「秒速5センチメートル」においては徹底して半径5メートルの世界だけを切りとって描くことで、賛否両論あるものの新海先生はついに「作家の映画」をモノにした、という大まかな流れがある。


今作の先生は十八番のモノローグを封じ、ダイアローグによる正攻法で大きな物語を語ろうとしている。やり方としては、「秒速」の正反対のアプローチである。挑んだ志は買うものの、この映画で先生はことごとく「できてない」醜態を晒した。ま、普通にこういうの向いてないんだと思います。


底の浅い世界には説得力がなく、主人公の少女には主体性が無く、映画はご都合のイベントを羅列するばかり。いちいち瑕疵をあげつらえば、ホントにキリがない。そのままグダグダ終われば、これはただひどい愚作と言ってよい。しかし実際の映画は、もっとひどいことになるのだ。途中から新海先生の隠しきれない本音が、もう作家性やメッセージなどという綺麗事では誤魔化せないナマの「欲望」が、ごろりごろりと観客の足元に転がってきてギョッとさせるのだ。「星を追う子ども」の本質とはこの新海先生の禍々しき「欲望」であって、表層のジブリごっこなんかちょっとしたカワイイお遊びに過ぎぬとわたくしは思うのです。


映画の後半、ほぼ主役の座を奪取するムスカ先生にご注目いただきたい。新海先生が最も色濃く投影されているこの男、こいつがホント度し難いやつでねえ、死んだ妻を生き返らせたいとかなんとかのたまうわけですね。有体に言って、これは少年少女にお見せできないダメな大人の姿である。成熟した精神の持ち主ならば愛する者の死は悲しくとも受け入れ、心から悼み、自分の人生を生きるべきであるとするのが、我々観客が共有する常識的な倫理観である。しかし新海先生、この男の妄執を妄執として描かずに、どこか「よきもの」として扱い、陶酔している節さえあってオレを不安にさせる。


呆れてものも言えなかったのが、なぜかムスカ先生が欧州の内戦で市街戦やってる回想場面だ。お前さー、そらお前は気持ちええかもしれんけどさー、テキトー吹かすのも大概にせえよ… これはホントに内戦やってた人々に失礼ですよ。クロアチア(旧ユーゴスラビア)の「アルティメット・フォース 孤高のアサシン」ことミルコ・クロコップなんか目の前で友達死んでんねんで! それをお前はサバゲー感覚でアレか、家に帰ったら病弱キャラの島本須美が待ってるわけか。そんで今は亡き妻を思い出してオルゴールなんか回しちゃったりハイライトふかしちゃったり、おいおまえ随分いい気なもんだな。これはもう、苦悩するふりをしつつ実際にはいかに快楽を享受するかという、オタクの世界では古典的な命題でしかない。ハーレム漫画やハーレムアニメのモテモテ主人公は一様に困惑の表情を浮かべているものだ。やれやれ、という顔さえしてみせる。お前の怒張したポコチンからカウパー氏腺液がダラダラ垂れてんのは丸見えなんだよ! ズボンのチャックは閉めとけ!


斯様なオタクの果てしなき自己愛(言うまでもなく新海先生が愛しているのは架空の亡き妻ではなく自分自身である)、描きようによってはきちんと作品に昇華することも不可能ではないのだ。「秒速」では「結局自己愛かもね」と留保しつつ、結末ではそれに決別(まー踏切歩いただけだけどな)して見せることで、ちょっとした文学の匂いさえ漂わせていたではないか。


新海先生の狼藉は留まるところを知らぬ。少女は勝手にムスカについてきてくれる(家にまで来てくれる!)。欲望のままに行動する先生に、「お父さんみたいでゲソ」とか言ってチヤホヤしてくれる。ムスカは少女の差し出したうまい棒の半分を平気で食う。イモも食う。最終的には、ムスカは嫁さん復活のために少女を売る。ここでも一応苦悩するフリをしてみせるのだが、なんのことはねえ、先生の答えは最初から出ているのだ。


ことここに至ってオレはバカ負けした。中身は島本須美で体は小学生女子… なるほどニョーボと畳は新しいほうがいいですなー、新海先生さすがや! オレたちにできないプレイを平然とやってのけるッ そこにしびれる! あこがれるゥ!


先生は時には異界のイケメン兄さんに憑依し、わけのわからぬ事を言って少女を煙にまき、おでこにキスして少女のうろたえぶりを見て愉しむ。時にはイケメン弟になって、カッコよく少女を救ってみせる。映画の主役たる少女に主体性が無いのも当然で、残念ながら彼女は新海先生の欲望を反射する鏡でしかないのだ。物語作家ならば少女にも憑依せねばならんのだけど、それをするには先生は性欲が強すぎるんだと思う。


こんな自己愛と情欲にまみれた映画をジュヴナイルとして子供たちにお出ししてしまう新海先生、先生は本当にこれで大丈夫だと思っているのだろうか。思ってるんだろうなあ。でも先生、原恵一の「カラフル」とか観たほうがいいですよ。大人が子供に何かを言うってのは、ああいう果てしない誠実さ、しんどい責任を伴うのですよ。


ここまでいろいろひどいことを書いてきたけど、実はわたくしそんな新海先生が嫌いではない。むしろ好きである。先生の欲望は一から十まで理解できるし、何よりも醜いはらわたを(醜さを自覚してるか怪しいもんだが)銀幕に叩きつけているという点で立派な「作家」だと思っている。うまく作れば「秒速」になり、下手に作れば「星を追う子ども」になるだけだ。両作の中身はまったく同じ、先生の自己愛そのものである。「秒速」が世間から「せつないラブストーリー」的な評価を得たときは正直お前らアホかと(失礼)思ったものだが、ナーニうまく作れば世間なんか勝手に騙されてくれるってことなんですよ。チョロいもんですよ。だから先生、今回はアレだったけど、またうまーくやりましょうよ。うまーくやれば大丈夫、まずイケますよ。カンヌとりましょうよ… カウパー垂らしながら赤じゅうたん歩こうよ… イケますよ… チョロいもんですよ…