音波の薄皮

音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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901号室のおばけ / 柴田淳 (2024 96/24)

柴田淳、コロナ禍と救急救命士試験を経ての4年ぶりの新譜。そして初となる武部聡志とのタッグ作。

1曲目から彼女の音楽に対する全てのスタイルが大きく変わったのだと強く印象づけられる。元来彼女が持っていた昏く濡れたボーカルのスタイルはそのままに、高域へと伸びていく境目において艶やかな色がそこに大きく加わったことがよく聴いて取れた。その瞬間に本作には大きな抜け感が存在するぞと、これまでの彼女の作品とは異なる世界への期待感が高まった。

そして最初に抱いたその印象はやはり最後まで変わることなく、徹頭徹尾、アップデートされた柴田淳がここに込められているのだと実感させられる仕上がりになっていた。

端的な、いや、極端ではあるが、彼女の歌詞の登場人物に対する印象と言えば、恋愛の最後に泣き寝入りする女性といったイメージを抱いていたのは事実。そこに前述の抜け感が加わることで、その世界の最後に希望が加わり、夜が明けるかのように目覚める瞬間が描かれているようにも感じられた。

それは単純に希望と言ってもよいものなのかもしれない。失恋における絶望の淵に立って泣き嘆くだけの姿はもうそこにはなく、本作の歌詞にも何度か現れる「朝」に必ず再び希望は蘇るのだと訴えかけている立ち姿がそこにはあった。そもそも柴田淳の世界に「訴え」なるキーワードが浮かんでくること自体、これまでにはあり得なかった話なのだ。

それほどまでに彼女の歌唱スタイルにおいて、そのキャリアが有してきた聴き手の一方的な固定観念が強く残されるようになっていたのだとの思いも抱いた次第。

その勝手に作ってしまっていた殻を、檻に掛けられていた鍵を壊し、羽化した後のような瑞々しき羽ばたきを歌に乗せる彼女のたたずまいは、傷跡とともに大きな変化がもたらされてしまったこの世界、現実を光で照らすかのようにも見て取れるのだから、リリースの空白になっていたこの4年間に蓄え得てきたものはきっと相当なものなのだろう。

本作において武部聡志の手腕がいかんなく発揮されていることにも触れておきたい。近年の氏のレコーディングにおけるアレンジスタイルは、いかにしてクラシカル、アコースティックな楽器をポップスの枠の中で響かせるか、それと同時にビートを乗せたアプローチをどのように配合、配置するかにおいて、ベテラン編曲家ならではの采配の妙がその仕事においても冴え渡っているように見受けられる。

楽曲を作り上げている歌詞、メロディ、そしてボーカルが持つ全ての魅力を最大限、それ以上に引き出しながら、決してその邪魔をしない、柴田淳の世界を新たに産み落とさせた絶妙なアレンジの背景には、おそらく二者間でのディスカッションが相当にあったのではないだろうか。

希望、光、そしてもちろん失われた恋愛もここにはある。それらが一体となって柴田淳の新たなるフェーズが始まったと言っても決して大袈裟なものではないだろう。

901号室のおばけ [通常盤] [CD]

Tapestry / Carole King (1971/2014 DSD64)

米国の大衆音楽における偉大なる母性、だと思うのよね。キャロル・キングがまだ若い頃に編まれた作品だというのに、慈しみ深いお婆さんに頭を撫でられているかのような感覚にもなれる。

それこそがこのアルバムの永遠の名作たるゆえんか。

つづれおり

Songs from Other Places / Stacey Kent (2021 192/24 Qobuz)

Qobuzで芋づる式にオススメされるままに、あれこれとジャズボーカルをザッピング。そこで耳に飛び込んできたのがこのステイシー・ケントの歌声。

その収録曲のほとんどがピアノ一本をバックに、どこかホッコリとさせられる柔らかく暖かみのあるボーカルを披露してくれる。さぞかし名のあるシンガーなのだろうと思い調べてみると、間違いなく名のあるボーカリスト様でいらっしゃいました。来日回数も多いシンガーだったのですね。

en.wikipedia.org

クリスタルやスモーキーといったジャズボーカルとは異なり、目の前にいるパーソナルな存在に対して自然体で歌っているかのごとくスタイル。ソフトというほど軟弱なボーカルでは決してなく、強い音楽ばかりを聴いている今日この頃において、少し荒れていた自分の耳朶(じだ)を癒しいたわるかのように染み渡っていく浸透圧の高い声。

リリースが2021年であることからするに、コロナ禍においてレコーディングされた可能性も高いですね。だからこそのピアノとボーカルのコンビネーションなのでしょうか。場合によってはリモート録音かもしれず。それだからこその優しさも見え隠れしている、と見るのは考えすぎかしら。あの時、あの空気だったからこその、求めた、求められていた音楽の空気感。

この秋は夏の延長線が終わらないかのごとく、身体もそして心も疲れている日々が続いていたので、休日初日の夜にこのような素敵なボーカリスト、作品に出逢えたことは有り難いことであります。呼吸をしているかのように自然にこれを聴いておりました。全ての細胞に染み、行き渡っていく感覚。

自分にとってこの感覚に巡り逢えることは本当に稀有で、セルフトリートメントの全てを音楽に委ねることが出来る瞬間を得ることにも繋がるのです。

Songs From Other Places

木梨ソウル / 木梨憲武 (2024 48/24 Qobuz)

木梨憲武のヴィジュアルが苦手でして。このアルバムのジャケット写真も見た瞬間に「うへぇ」となっておりまして。

それでも何かに呼ばれるかのごとくSpotifyのオススメプレイリストを聴いていたら、ここに収録されている曲が流れてきたのです。「感情8号線」でした。一発聴いた瞬間に、松本孝弘と横山剣のコンビネーションによる楽曲だと分かり、それと同時にそこはかとない格好よさが漂ってきたので、ついアルバムを聴いてしまったのです。

その結果、まいりました。シャッポを脱ぎました。斜め上を行く格好よさにやられました。木梨憲武のボーカル力と人脈に喰らってしまいました。

『木梨ソウル』と謳っているだけあって、全編とにかくソウルフルでごんぶと、かつ黒い仕上がりに。トラックがとにかく太いんですよ。ボリュームをガンガンに上げたくなる低音の力強さ。それに全く負けることを知らない、強いカラーを持った木梨憲武のボーカルとゲストボーカルの鮮やかさ。

自分は今一体何を聴いているのだろうか?と自問自答したくなるほどに、日本独特のカッチリとしたブラックミュージックがここには詰め込まれていたのです。時代も国籍も年代差も何も感じさせない、今、この面子だから出来るのだろう強く高いクオリティ。繰り出される曲全てに意味を持たせている構成もまた素晴らしい。

自分の中では木梨憲武を芸達者なだけの芸人だと思っている節があったのですが、芸達者もここまで来ると本当にプロの仕事の極みだと、本気で音楽に取り組んでやがるぜ、こいつ、とそう唸らざるを得なかったのです。

この濃さは、温度と湿度の高さによるもの。現代の日本の気候すら映し出しているのではないかと、そう大袈裟に思えてしまうほどに頭がクラクラと痺れてくるような作品であります。

ちょっと頭の悪そうな車のカーステで流しながら町内一周してみたいですね、これを聴きながら。もちろんこれは最高の褒め言葉です。

木梨ソウル(通常盤)

EYES / ORIGINAL LOVE (1993 96/24 Qobuz)

火曜日なので私は休日。

昨晩は21時頃まで記憶があるのだが、例によって椅子の上で寝落ちを決める。0時過ぎにのっそりと目を覚まして布団を敷く。起床したのは9時過ぎ。こんなに長い時間眠ったのは本当に久しぶりのこと。

食事を摂ったり部屋を片付けたり通院をしたりして昼過ぎに帰宅。新浜レオンが紅白に初出場するとのニュースに触れて歓喜。

この上なく天気が良く、空気は晩秋のそれで生きる活力に満ちあふれてもおかしくはないはずなのだが、どうにも頭の中は冴えない。

Qobuzでオリジナル・ラヴの古いアルバムを聴き、昼下がりにようやくこのようにPCに向かって動き出す。

さて、明日の午後にはまた雨になるという。この秋はヤケに天気がよろしくない。晴天のうちに片付けたいことはあるのだが、今日はこのまま一日を棒に振ってしまいそうな気がしている。

もう少ししたら4Kモニターを引っ張り出して、溜まっている音楽映像物でも観ようか。今日明日はそのような感じで、やはり久しぶりにのんべんだらりとした休日にしてしまおうか。

EYES

ORANGE / Fishmans (1994 96/24 Qobuz)

Xで流れてきたFishmansのインフォメーションを読み、今になって来春開かれるライヴの存在を知る。次の瞬間、慌ててチケットを押さえる。見つけておいてよかった。これは確実に呼ばれましたな。

そんなこんなでQobuzにてFishmansのこの音源をハイレゾで。

そろそろ佐藤伸治の歌声が染みる季節になってきましたね。

ORANGE

Master of Ceremonies / GAKU-MC (2024 44.1/16)

歳を取ると同時に新譜を聴く上での勇気が必要になってきた。自分の体調にインプレッションが引きずられはしないか、作品の内容に裏切られはしないか、抱いた印象は本当に確かなものなのか、などなど。自分の中に存在する外野のノイズが年々大きくなっていくのを痛感しながら、重い腰を上げて新譜の再生アイコンをタップする。

届けられたGAKU-MCの新譜もそう。数日間はリッピングしたHDDの中に収められたままだった。耳に馴染んだ作品ばかりを優先して、いつまでも先送りするかのようにも思われていた。

いつまでそうしていてもらちが明かない。再生した。そこにあったのは、今でもまだ瑞々しいラップチューンを繰り広げているGAKU-MCの姿だった。

自分が衝撃を受けたアルバム『word music』のリリースから既に24年が経過。自分もGAKU-MCもそれだけの年齢を重ねた。青く若く突き抜ける空のごとくライムを繰り広げるGAKU-MCがそこにある一方、ここにいる自分はどうだ。音楽に対する感性の動脈硬化を起こしてるなどとうそぶいては、新鮮な新譜がリリースされないなどというあり得ない言い訳を盾に、何かをシャットダウンさせてはいなかっただろうか。

GAKU-MCは背中を押す。人間はいつまでもいつまでも、いつまで経ってもしくじり続けるけれども、それもまた人生だと。日々に繰り返しなどはなく、生きている限り明日はやって来ると。

日々の移ろいの中で蓄積する疲れを抱き、重い身体を引きずっては毎日をやり過ごし、やり過ごした中でカレンダーだけが次々にめくられていくのをただぼんやりと指をくわえるかのようにして眺めていたのは間違いのない事実。それを自覚しているのだから。

自覚の中で変化を恐れるようになってはいなかったか。安寧と安穏を下敷きにして、その上をただ滑っていくだけの日々を送ってはいなかっただろうか。いや、送っていた。

この歳になって「がんばろう自分」などと臭いフレーズを掲げて前を向くだけの日々は必要ないのかもしれない。自らがそれを謳う必要はない。それを何か外から得ることが出来れば十分なのだ。必要に迫られた際に適宜他人の言葉を盗んで一抜ければそれでいいじゃないか。

GAKU-MCは自分が前を向くための沢山のワード、フレーズを今でも次々に与えてくれている。それは決して大上段による言葉ではない。同じ目線による同じ温度による同じ境遇による教えを再認識させてくれるかのように。

そしてそれらは決して真新しいものではない。GAKU-MCの中にあり、自分の中にもある、これまでの人生経験の中で埋もれてしまっていた生活の知恵のようなものの数々、それらを放り込んだままにしていた壺をのぞき込んでいるようなものなのだから。

だから前を向こう。針を落としはしないけれども再生のアイコンはタップしよう。自分自身も再生、いや日々を再構築し直そう。肩肘張らずに、気負い過ぎずに、適度に自分の速度で歩み直そう。

Master of Ceremonies (特典なし)

infinite Resonance 3 / fripSide (2024 96/24)

デジタルポップ、その復権ここに結実。

そう言い切れるほどのキレのよさを感じさせる痛快な作品に仕上がっております。80年代から90年代、そして00年代と特定ミュージシャンによって脈々と受け継がれてきたデジタルポップも、八木沼悟志がfripSideを大々的にブレイクさせるまでは確かに虫の息だったのですよね。今作ではそれらミュージシャンが持ち合わせていた旨味を存分に自らの細胞と変えて、次々とハイクオリティな楽曲が繰り出されている痛快さを提示しております。

哀愁漂うメロディ、打ち込みサウンドに乗せる暖かさ、ボーカルの歯切れのよさ。それらの音楽性が見事に三位一体となり高次元に昇華、それによって一分の隙もない2020年代のデジタルポップとして輝かしい完成形を描いているかのよう。

ツインボーカルとなった第3期fripSideもここにきてすっかり板につき、二人の掛け合いによるメロディとボーカルの繋がりがスムースになって耳に届けられるのも今作の特長。より切なくよりメロディアスに、より攻撃的によりアグレッシヴに。

メロディ面においては音を置くべきところにしっかりと音が置かれ、その運びが非常に冴え渡っている。それ故にどの楽曲においても売りとするツボが明確になり、すっと耳に入ってくる。曲ごとのカラーや落差、特徴付けが耳が期待する通りに流れてくるために、実に「映え」る。

演奏、アレンジメント面においては、シンセソロ、ギターソロの妙が曲の盛り上がりに一役以上買っている。もちろん過去これまでに提供されてきた楽曲においてもそれらのパーツは十分に華となっていたのだけれども、本アルバムではそこにあるべくしてある、無くては曲が成立しないだろうレベルにまで作り上げ作り込まれている。ボーカルだけがfripSideではないと主張しているかのよう。

と、このようにどこをどう切り取っても賞賛の言葉しか浮かばないのであります。おおよそ自分自身がfripSideに期待している全てがここに詰まっていると断言できるほど。

どうしても難癖をつけるのであれば、今作ではリテイク作品を並べる必要はさほど感じられない、程度のこと。それほどまでにオリジナル楽曲の冴えが高レベルなのですよ。無論、そのようなハイクオリティな楽曲群に過去の楽曲を並べても、双方が何の遜色もなくそこに座していること自体もまた賞賛すべき事実でしょう。

infinite Resonance 3(通常盤)

A LONG VACATION 30th Edition / 大瀧詠一 (1981/2011 44.1/16)

なんとなくふと聴きたくなった。いつ聴いてもオシャレで素敵でそこはかとなくセンチメンタルでスイートで、そしてこの上なく手の込んだ至高のポップアルバム。リリースから既に40年以上も経過しているこの作品の持つ不朽の香りは一体どこからやって来ると言うのか。

そのようなものは既に先人が十分に語り尽くしているのでしょう。

さてはて。

久しぶりに部屋の真ん中にテーブルを配置し、メインスピーカーをセンターに臨んでのライティング&リスニング。

スピーカーセッティングを大幅に変えることによって、部屋の中にふくよかに音が回り込むようになり、このアルバムのようにリッチな録音のアルバムが正にリッチに鳴るようになってくれております。

今が一番リスニングが楽しい時期ですね。今日はもう少しあれこれと聴いてみようと画策しております。そんな休日初日の19時過ぎ。

A LONG VACATION 30th Edition

kibi / 上白石萌音 (2024 48/24)

萌音さん、ここに来て愁訴モードが入って来たように思える、少しオトナな作品が届けられました。

思うに前作及び前々作辺りは少し元気印が走っていた作品であったわけで、自分が好きになったきっかけであった、愁いを持ち合わせた上白石萌音は影を潜めていたのもまた事実であったのですよね。

今作は冒頭からじっくりと聴かせよう、聴いてもらおうと言う意志が働いているかのような曲順。楽曲そのものは比較的地味にも見受けられるものが並んでいるものの、構成の美しさもあって最後まで眠くなることも飽きることもなく、じっくりと聴き通せる。実にこれからのシーズンにぴったりな作品が届けられたように思えるのです。

自分にとっては朝から元気になれる上白石萌音ではなく、少し疲れた夜に一日を回顧するかのごとくの彼女がここにあるように見受けられるのです。

それを彼女の年相応の作品と見る向きもあるかもしれません。レコード会社を移籍してからのオリジナルアルバムが2年スパンで届けられている現状、2020年『note』から始まった歌手としての高品質な快進撃が次々に実を結び、今に至るように感じられるのです。

ヒットチャートのメインストリームに飛び込むような歌い手ではないのは事実ですが、それ故の「踊らされない」作品をじっくりと時間をかけて作り上げてくれている存在。実に貴重なシンガーであると、改めてここに思うに至った次第であります。

心の機微、日々の機微。そのような形にならないパーソナルな「kibi」を彼女から受け取り、自分の中のそれとブレンドさせて何かを顧みるにふさわしい一枚ではないかと。

kibi (通常盤)