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アジコさんこんにちは。
このたびは『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』をお読みいただき、ありがとうございました。
ブログの文章、拝見しました。
読み、アジコさんが慣れ親しんでいる「推し」や「推し活」のニュアンスと私が想定する「推し」や「推し活」のニュアンスの違いなど、色々なことがわかって大変面白かったです。そうした相違は私とアジコさんの間にある、人間や社会を見つめる視線の違い・価値観の違い・人生観の違いを反映しているものかもしれません。その違いを噛みしめながらも、共通する考えもあると感じました。
アジコさんのおっしゃる「ハレのものとしての推し」と「ケーキのようなものとしての推し」
アジコさんの「推し」のなかで重要で、それ自体、キー概念になっていて面白いと思ったのは「ハレのものとしての推し」と「ケーキのようなものとしての推し」です。
自分にとっての『推し』というものの取り扱いについて。自分にとって推しというものは『特別な物、ハレのモノ』と認識されています。『ハレのモノ』というのは、日常の辛さやマイナス、どうしようもない辛さをリセット、および忘れさせてくれるためのもので、けして日常使いするものではないと思うのです。そういうことをしていると、いつか日常の澱がたまって泥になってしまう、そんな風に思います。
(中略)
そもそも、なぜ、人生において『ハレのモノ』が必要なのか。
でも、だからこそ、人生において『ハレのモノ』は必要なのです。ハレのものは、血を吐きながら続けるマラソンの給水ポイントであり、水泳の息継ぎです。辛い日常のよすがであり、希望であり、今日は辛くても次の『ハレのモノ』まで頑張ろうと思って毎日を暮らしていくためのエネルギー源です。滅多にないし、得難いものであるからこそ価値がある。それが『ハレのモノ』です。
このくだりは、「ハレのとしての推し」だけでなく、ハレそのものの必要性の説明にもなっています。カーニバル・お祭り・ライブ・普段は会えない人とのオフ会、等々もハレに相当しそうですね。「推し」に限らず、ハレの日に体験する諸々は本来辛いものであるはずの人生に息継ぎを与えるでしょう。
その少し後にアジコさんは、「ケーキのような推し」についても述べています。これも興味深かったので引用します。
『パンがなければケーキを食べればいいのに(実際にパンはなく、但しケーキはふんだんに売るほどある)』ということを言っている本だと思いました。社会の変化が起こり、今までの普通にあったナルシシズムを成長させてくれるような環境(パン)はもう身近にない。だから、ケーキ(推し)を食べて、栄養としていこう、という提案をしているように思います。ただ、ケーキは、パン(かつてのような濃密な社会)とくらべて、成長に必要な要素(適切な対象に対しての幻滅など)が全て詰まっているわけではない、だから、自分で工夫して、適切に学び取っていかないといけない。というようなことだと思いました。
パンがなければケーキをお食べ。
拙著『「推し」で心はみたされる?』で記したように、ナルシシズムの充足と成長にかかわる人間関係 (ナルシシズムに関連した言葉でいえば、お互いが自己対象として体験されるような人間関係) は希薄になってしまいました。コフートは著書『自己の修復』のなかで、社会は自己対象として体験される人間関係が過剰だった時代から過小な時代に変化した、それは家庭の構造や社会の構造の変化による、と述べました。他方、ここでいうケーキのような「推し」、ひいてはケーキのような人間関係やそれに類する体験は増えていると私は本のなかで書きました。
つまりSNSの向こう側のインフルエンサーを推す体験・商業化されたタレントやグループを推す体験・二次元のキャラクターを推す体験、などですね。従来の人間関係と比べて、それらは純度の高い推し体験になりやすく、と同時に推したい気持ちが裏切られた時にいきなり全否定になってしまいやすい*1、そのような人間関係です。そうした「推し」純度の高いさまは、確かに、ケーキに比喩できると思います。ケーキは見栄えが良く、甘くておいしく、精錬された砂糖をふんだんに使っていて、楽しませてくれる。辛い人生の息継ぎにもなりやすいでしょう。「推し」に関して好き嫌いのうるさい人でもケーキのような「推し」なら摂取できる、なんてこともあるかもしれません。
でも、ケーキだけではカロリーは取れても栄養が偏って成長しづらいのに似て、そういったいまどきの「ケーキのような推し」体験だけではナルシシズムの成長は期待できません。「パンや家庭料理に相当する推し」、コフートや拙著に引き寄せて言えば「パンや家庭料理に相当する自己対象体験」がなければナルシシズムの成長は期待しがたいのです。2020年代はネットメディアを介したコミュニケーションや自己対象体験の割合が20世紀以前よりずっと多く、「ケーキのような推し」に相当する自己対象体験に耽溺するのが簡単な時代です。そうした時代のなかでどのように血肉になるような「推し」体験を積み重ねてナルシシズムの成長を図り、ひいては人間関係をつくっていくのかを書いたのが『「推し」で心はみたされる?』の重要なセールスポイントになっているかと思います。
で、アジコさんのおっしゃる「ハレとしての推し」と「ケーキのような推し」を私なりに翻案し考えるに、アジコさんのおっしゃる「推し」に含まれないけれども私が想定する「推し」に含まれる部分の「推し」が、たぶん肝心ってことになるんですよね──少なくともナルシシズムの成長や人間関係の充実などには。
アジコさんが想定せず私が想定する「推し」とは、「ケとしての推し」や「ケーキよりも家庭料理に比喩すべき推し」です。
それは従来型の人間関係だったり、親子の範疇的な関係だったりするものです。ケーキに比べて純度が低く、雑穀のように消化に負荷が伴い、飾り気も少ないような、そんな「推し」、ひいては自己対象体験。それが必要なんです。アジコさんは、"「ハレとしての推し」を日常使いしていると、いつか日常の澱がたまって泥になってしまう"、と述べていますが、これは私も同感です。ハレの推し・ハレの自己対象に頼りきりでケの推し・ケの自己対象がおざなりでは、人の間で生きるのはとても大変なんです。完全にひきこもってインターネット上のインフルエンサーや二次元キャラクターだけ推している状態の人が辛くなってくるのもそう。それだけでは日常の澱をうまく処理できないし、ナルシシズムの成長が止まるだけでなく、ナルシシズムの歯車がおかしくなって、尊大と自己卑下の谷間に落ちて、李徴の虎みたいな境遇が避けられないでしょう。
上掲リンク先でアジコさんが定義する「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」は、私が書籍のなかで書いている「推し」と定義は違っています。が、それらだけではうまく回らないとご指摘されている点も含めて、結論は案外近いのではないかと思いました。純度の高い理想化自己対象として体験可能な、メディアの向こう側の「推し」やキラキラし過ぎている「推し」ばかり推し活していると、人間はうまく回らなくなる。それはそうだと思います。
『「推し」で心はみたされる?』は自己啓発本か
ああ、それからアジコさんのおっしゃるこれ。
そして、ちょっと意地の悪い要約をすると、
「推しという感情を使って、人に迷惑をかけずに効率よく生きていきましょう、社会適応をして、自分の利益や成長を最大化しましょう」
という本です。自己啓発本ぽくもあります。
アジコさんはこれを意地の悪い要約とおっしゃいましたが、私は自己啓発本ととらえてくださって感謝しています。
『「推し」で心はみたされる?』は正真正銘の自己啓発本です。そうでない本を作った覚えはありません。
00年代のはてなダイアリー周辺では、なにやら自己啓発本を下にみる傾向があったかもしれず、アジコさんは今でも下にみているのかもしれません。私も、あまり良い風に思っていなかった時期がありました。でも、自己啓発本には自己啓発本の役割があり、社会のなかの居場所があります。ニーズもあるでしょうし、得意なこともあるでしょう。
「推し」や「いいね」も含めた自己対象体験を、2020年代におけるナルシシズムの成長や社会適応に生かすための本を作りたい──そのような本をつくるにあたってコフートは他の精神病理学の重たい精神分析の考えやDSM的な精神医学よりずっと向いていると私は考えてきました。コフートの理論は病的なナルシシズムをどうこうするにはそれほど向いていなくて、むしろ、ある程度健康といって良い状態にある人のナルシシズムについて考えるのに適した理論です。書籍のなかでもお断りしておきましたが、たとえば、うつ病や双極症や統合失調症といった典型的な精神疾患の病期にある状態の人のお役に立つとは思えませんし、ましてや、治療効果があるとは夢にも思っていません。
アジコさんの文章のなかには、"『「推し」で心はみたされる?』は人間的な余裕の乏しい人には向いていない"ってくだりがありましたが、これもそのとおりだと思います。マズローとそれに関連した書籍と同じく、コフートとそれに関連した書籍も、状態があまりにも悪い人には向いていません。それを承知のうえで私は『「推し」で心はみたされる?』を書きました。ですから、あの本を作成するにあたって想定していた中核的読者はメンタルヘルスに障害を呈している人ではなく、これからビジネスマンになっていく人・これから上司になっていく人・これから家庭を持っていく人・現在の手札をもっと豊かにしていきたい人です。そういう本を作るなら、コフートだと思うんです。コフートが診ていたクライアントが、自費でカウンセリングが受けられるような境地の人だったことは、そのままコフートの理論にも、コフートが得意とする領域にも反映されているでしょう。
ですから意地の悪い要約も何も、この本は自己啓発本であって、病者への処方箋ではないと私は認識しています。実際、編集者さんにも私の考えはある程度汲み取っていただき、上掲のように表紙がポップな感じなのもそれを反映してのものだと思います。
人生は、苦か、苦でしかないか
さて、アジコさんは冒頭リンク先で「人生は苦である」といったことを盛んに述べてらっしゃいました。私は日本の在家の大乗仏教徒のなので、生老病死を苦とみなす考えには親しんでいるつもりです。アジコさんはそうではないと思っていたので、意外だな、などと思ってしまいました。
さておき、人間が社会適応していくためには「ケのものとしての推し」も含めた、地べたをはいずるような人間関係や自己対象体験が必要で、そうやって人は育ち、人に育てられ、生きていくものでしょう。たとえば丁稚奉公する小僧さんがサバイブしていくにあたっては、承認欲求だけで心をみたすでなく、奉公先や番頭さんを「ケのものとしての推し」にできていないとやってられなかったでしょう。丁稚奉公の時代が遠ざかった2020年代でも、そういう「ケのものとしての推し」を持つこと・持てることは日常を支え、技能習得のうえでも重要です*2。
が、それはそれとして、ままならない日常を補填するものとして「ハレのものとしての推し」も必要だったのは確かにそうだと思います。昔だったらそれは、収穫祭だったり、お伊勢参りだったり、旅芸人の芝居だったりしたでしょう。「ケーキのような推し」もそうです。昔はSNSも二次元キャラクターもなかったから「ケーキのような推し」に相当するものは限られていました。でも、たとえばマリア様や観音様などはその対象に相当したのではなかったでしょうか。
そうした過去を振り返れば、「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」にも歴史があり、社会のなかで居場所があったはずです。いや、きわめて重要だったと言えそうです。推しの対象としての神仏のいいところは、現実には救いの見出せない人でも推せるところです。いや、危険な宗教が危険であるのも、このためなのですが。拙著でも、苦しい時に二次元キャラクターなどへの推しは役に立つし、それ否定する向きには賛同できない、みたいなことを書きました。必要な時、必要な人のもとに届く「推し」って、確かに尊いですよね。そして二次元や神仏のいいところは、どれだけ推してもそれを受け止めてくれることです。生身の人間ではとうてい無理なことも、神仏や二次元なら黙って聞いてくださる(願いかなえてくださるかはまた別)。
人生は苦、でしょうか。私は苦だと答えます。では、苦でしかないのか? 思案のしどころです。私は有性生殖生物の末裔として生を享け、今を生きています。人生は苦ですが、それだけに「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」は甘美です。と同時に、私には「ケのものとしての推し」や「家庭料理的な推し」も滋味深いと感じています。職場や学校や日常生活の領域にいる人と人とが敬意を持ちあったり、お互いに一目置きあったりするのは幸福なことではありませんか。そうしたものが皆無で、「ハレとしての推し」や「ケーキのような推し」に依存するしかない境地なら、生きることの辛さに拍車がかかるだろうとは思います。でも、その限りでないなら人生にはほどほどに楽しい瞬間やほどほどに敬意を交換できる瞬間もあり、それらを縫い合わせて人生という織物をなしていくのもまた人間だ、と私は思っています。これは理想論でしかないのかもしれませんが、その理想に近づきたいとあがきながら、年を取っていきたいものですね。
私の祖父は浄土真宗の僧職でした。最後にしっかりと交わせた会話のなかで祖父は、「それでも人生とは苦にほかならない」と述べました。それから間もなく、祖父は病院で点滴につながれなければならなくなり、亡くなりました。祖父が言い残したことは正しかったと思いますし、私の末路も祖父と同じもの、またはそれより悲惨なものでしょう。それでも私は生きています。生きる限り私は生きていきます。だって生きているんですもの。『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで碇ユイもそう言っていたように思います。生きられるだけ、生きていたいですね。だって生きているんですもの。どうせなら、いろんな人に推したり推されたりしながら生きられたらとも思います。『「推し」で心はみたされる?』は、そういう私の年来の願いと実践が反映された本でもあります。渡世のための自己啓発本です。確かにそれは、アジコさんの通奏低音とは噛み合わないものかもしれない。
気づいたら自著の宣伝になっていました。
浅ましいことですね。
でも、ちょっとぐらい浅ましくても人間関係をうまくやっていきたい人向けの本だとも思います。もっとうまく世渡りしたいって気持ちに燃えている人には、特におすすめです。
※阿佐ヶ谷ロフトで2月25日(日)におしゃべりすることになりました。よろしければお出かけください。
*1:または、関係修復の機序が働きにくく、推す-推されるの関係が一方向的になりがちな
*2:アジコさんは、リンク先で「他者に対して敬意をもって生きるということは実はすごく難しいことです。そして、誰かから、それを与えられるというのも、また、得難いことであります。」と書いています。これは誰でも・いつの時代もそうなのですか? 少なくとも一時代はある程度そうだったのかもしれませんね。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、日本では所属欲求や理想化自己対象ベースの心理的充足が軽視されていました。「ケのものとしての推し」が思いっきり軽視された一時代だったと言えますし、それに適した人間関係や社会関係も軽視されていました。アジコさんに限らず、インターネットの普及期にテキストサイトやブログをやっていた人々も、そういうものを軽視していたかもしれませんね。でも、コフート以前の時代はそうではなかったのではないでしょうか。20世紀後半から21世紀初頭の、個人主義的で承認欲求や鏡映自己対象ベースの心理的充足にものすごく偏っていた一時代は、私には異様な時代とうつりました。それがロスジェネ世代の歯車を狂わせた一面もあったのではありませんか? 私は、当時そのような風潮を牽引していた人たちにもフォロワーたちにも違和感をおぼえていましたし、そうした風潮が「推し」ブームに象徴されるように変化してきていることを、嬉しく思っています。