『火星の人』を、無双系web小説として読んだ - シロクマの屑籠

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『火星の人』を、無双系web小説として読んだ

 
 働きすぎて元気の出ない日には、砂糖菓子のように甘いweb小説を読みたくなる。
 
 でも今は『小説家になろう』にアクセスする気にはなれない。お目当ての作品を探すのにやたら時間がかかるからだ。
 
 そんな折、さる方面から「『火星の人』は無双系web小説」という素晴らしい情報を耳にした。
 

火星の人

火星の人

 
 
 ネットで検索しなおすと、togetterでも映画版*1に対して「最強なろう作家?」というタイトルのついたまとめを見かける。
 
 
togetter.com


 これ、俺が読むために生まれてきた小説なのでは!?
 
 『火星の人』はハリウッド映画化しているぐらいだから、必ずクオリティの高い作品のはずだ。wikipediaで調べてみると、2011年に自費出版されたのが本作なのだという。どれぐらいweb小説然としているんだろうか。
 
 

異世界ではなく、火星で無双する主人公

 
 『火星の人』の筋書きはこうだ。
 
 探査のため火星に降り立った宇宙飛行士6名。ところが着陸早々、とてつもない砂嵐に襲われて主人公は嵐に吹き飛ばされてしまい、よりにもよってバイオモニターコンピュータをアンテナに貫かれてしまったことで、死亡と判定されてしまった。残り5名が火星を脱出したため、意識が戻った主人公は、単身、火星に置き去りにされたが、ほとんど手つかずのNASAの物資を頼りにサバイバルを開始する……といった感じだ。
 
 筋書きだけ読むと、ハードなSF小説のような印象を受けるかもしれないし、実際、『火星の人』にはサイエンスな話がたくさん登場する。NASAの宇宙船についても、作者がよく知っていることが窺われる。題材だけ見ると、web小説、少なくとも日本のweb小説とはかけ離れた作品のように思えるかもしれない。
 
 ところがどっこい、序盤からweb小説だった! しかも日本のweb小説に意外とよく似ている!
 
 

  • 冒頭、いきなり主人公死亡→復活。実際にはバイオモニターコンピュータが破損してしまったため死んで転生したわけではないが、復活から一人で(火星という)異世界に放り出される筋書き自体は似ている。

 
 

  • 序盤は「まったく最悪だ」と毒づくモノローグ中心の早い展開。登場人物は最小限。話が進んでくるにつれて、他の登場人物がぽちぽち登場し、話の幅が広がっていく。先に進めば進むほど話のテンポがゆっくりになり、過去回想編なども挿入される。こうした展開も日本のweb小説ともよく似ている。web上で読者を意識しながら連載していると、おのずとこうなるのだろうか?

 
 

  • とにかく無双!する。web小説ではありがちなジャガイモ無双、工学無双、植物学無双。異世界とその住人達に無双するのでなく、『火星の人』では、火星の過酷な大地に主人公のテクノロジーとNASAの物資、そしてジャガイモやバクテリアが大活躍する。

 
 

  • 無双と絶望のアップダウン。『火星の人』は、ログ一日ぶんが一話といった形式で綴られているが、一話あたりひとつの無双が記される。テクノロジーやNASAの超絶物資によって困難が克服されるたび、間髪入れずに新しい困難やトラブルが入るのもweb小説っぽい。なんというか、アップダウンのスピードが一般的な小説や少年漫画よりもずっとweb小説じみている。

 
 

  • web小説の主人公たるもの、異世界であれ火星であれ、口では「最悪だ!」「もう死ぬ!」と言いつつ、すぐに頭を切り替え、アイデアを絞って難局を切り抜けなければならない。『火星の人』の主人公・ワトニーはまさにそういう人物で、難局と無双の繰り返しにぴったりだった。

 
 

  • 口語体で語られるすごく柔らかい文章。たとえば以下のような文体があちこちにある。

 

ううむ。破滅的失敗の起こる余地など微塵もない、すばらしいアイディアではないか。
これは皮肉です。念のため。
さあ、いっちょやったるで。

 
 たぶん、原文もこんな雰囲気なのを上手く翻訳してあるんだろう。スラングを使いまくった、読者に語りかけるような文体なんだと思う。SF小説には柔らかい文体のものが時々あるけれども、『火星の人』は自分の知るなかでは一番柔らかいレベル。めちゃくちゃ読みやすい。
 
 

  • 現世ではモテなかった人物像。この作品では、オタクはモテなくて女性とかかわりが乏しいものとして記されている。たぶんネタバレにはならないと思うので、主人公・ワトニーのモノローグの一部を紹介する。

 

ぼくは高校時代、ずいぶんダンジョンズ&ドラゴンズをやった。(この植物学者/メカニカル・エンジニアがちょっとオタクの高校生だったとは思わなかったかもしれないが、じつはそうでした。)キャラクターはクレリックで、使える魔法のなかに"水をつくる"というのがあった。最初からずっとアホくさい魔法だと思っていたから、一度も使わなかった。あーあ、いま現実の人生でそれができるなら、なにをさしだしても惜しくはないのに。

 
 ちょっとオタクの高校生。じつはそうでした。だそうです。このほかにも、作中の色々なところにリアルの充実していないオタクとリアルが充実している非-オタクの微妙な温度差を描いている場面があって、この作品が、そういう読者に訴求力のあるつくりになっていることが窺われる。
 
 

  • 主人公以外の人物像もweb小説っぽい。なんというか、主人公の無双を支えるためにすべての人物・組織が描かれる構造になっていて、主人公の無双とは無関係な人物が描かれていない。登場人物のリアリティという点では、これはリアリティの欠けた構図だけれど、主人公の無双を楽しむための作品として最適化されている、とも言える。こういう思い切りの良さもweb小説っぽい。

 
 
 
 
 こうやって挙げた特徴を別々にみると、どれもエンタメな読み物には珍しくないものだし、「こういうのは小説の王道」だと言う人もいるかもしれない。だけどこれらが全部揃っている小説といえば、やっぱりweb小説じゃないだろうか。文体も、登場人物の造型も、無双と絶望のアップダウンも、ことごとくがweb小説じみている。
 
 web小説として読んだ『火星の人』は100点満点中、100点の作品だった。いや、もっと点数をあげたいくらい。ハリウッドで映画化されただけのことはあって、考証良し、テンポ良し、ストーリー良し、ボキャブラリー良し、とにかく面白くて、途中で読むのを中断するのが大変だった。中国のSF小説『三体』もメチャクチャ面白かったけれども、『火星の人』の面白さはそれとはちょっと方向性が違っていて、web小説に慣れている人にこそ最適なSFだと思う。
 
 宇宙モノに抵抗のないweb小説愛好家なら、一度読んで損をすることはないはず。これだけ良くできたweb小説は、そうザラにあるものじゃない。これに匹敵するほど完成度の高いweb小説発の作品をひとつ挙げろ、と言われたら、とりあえず『ソードアートオンライン』の第一期を挙げたくなる。ただジャンルは全く違うから、両者の優劣を比較することはできない。
 
 それにしても、転生して無双する先が異世界ではなく火星というのがアメリカンというか、火星に新天地を夢見る余地があるのはちょっと羨ましく思った。こういう作品は、これからもアメリカや中国の独壇場なんじゃないだろうか。
 
 
 

サンドボックス型ゲームにも似ている

 
 
 でもって、web小説はしばしばゲームっぽいと言われるけれど、ちょうど『火星の人』によく似たゲームを遊んだことがあった。
  
store.steampowered.com
 
 この『アストロニーア』というゲームは、惑星に一人取り残された宇宙飛行士が、手持ちのツールを使って生存環境を整え、惑星を探検し、最終的には惑星脱出ロケットを打ち上げたりするゲームだ。数年前、アーリーアクセス版だった頃に遊んでいたのだけど、当時のバージョンは(ジャガイモ栽培が無いことを除けば)『火星の人』に雰囲気がよく似ていた。
 
 

 
 現行バージョンで始めてみると、やけに火星っぽくない惑星でスタートしたけれども、これはたまたまかもしれない。酸素供給、電力、テザーといったフィーチャーは健在だ。
 
 『火星の人』は、コツコツと居住空間をつくりあげたり食糧栽培ゾーンをつくったりするので、宇宙版『マインクラフト』といった趣も伴っている。たぶん、こういうところもweb小説っぽいと感じる要因のひとつなんだろう。
 
 SFとかweb小説とかお好きな人には鉄板だと思います。外出したくない、籠っていたい日のエンタメとしてお勧めです。
 

火星の人

火星の人

 

*1:『オデッセイ』