「思春期は自由な季節」。
自分が何をやるのか・自分が何者であるのか・自分がどこに住むのかを試行錯誤できる、モラトリアムな季節、思春期。その自由奔放といわれる思春期は、かつて、大学卒業ぐらいまでといわれていたらしい。それが二十年ぐらい前には「思春期は30歳まで」と言われるようになり、近頃は「いやいや35歳ぐらいまでが思春期でしょ」と言う人もいる。字義通りに解釈するなら、思春期が延びたということは、自由に生きられる時間が延びたということになるし、おめでたいことである。
しかし、思春期の延長はめでたいことばかりではない。
「思春期とは自由な季節である」というのは、いわば表のルールのようなもので、実際にはもう一つ、裏のルールがある。
裏のルールとは、「○歳までに××していない人は置いてっちゃいますからねー」である。現代社会が思春期と呼んでいる時期には、一定年齢になるまでにやっておかなければできなくなること・少なくともやりにくくなることが大量に存在していている。そこを忘れて「自由な思春期モラトリアム」などと呆けていると、いつの間にか置いていかれる点は、もう少し周知されていいのではないかと思う。
私達は社会的/生物学的加齢からは自由ではない
まず、分かりやすい例を挙げてみよう。karumen007さんがtwitterに投稿した、以下の図像を見ていただきたい。
http://twitter.com/karumen007/status/282310631758114818こんな青春がしたかった URL
この絵とタイトルの組み合わせにシンパシーを感じる人は少なくないと思う。学生服に袖を通した男女交際は、学生服を着ていられる時期にしか出来ない。そして実際には、中学〜高校時代にそれなり運・リソース・甲斐性といったものに恵まれた人達だけが上記のようなシチュエーションを体験する。二十代三十代になってこんな事をしていたら、コスプレになってしまう。
もちろん、「学生服に袖を通したままの男女交際」は卒業後の男女交際で十分にカバーの利くものではある。大学生時代〜社会人になってから男女交際を経験したって別に構わない。けれども年齢が上がれば上がるほど“この歳の男(女)だったらこれぐらいの身振りや配慮ができて当然”と期待するハードルが高くなりがちで、幼稚な失敗は許容されにくくなっていく。例えばこちらの35歳男性のひどい失敗例なども、中学生や高校生だったらギリギリセーフかもしれない。しかし35歳という年齢ではおよそ許容されるものではない。
思春期の後半までノウハウ蓄積を放っておいた人が、ある日男女交際をはじめたいと思いたったところで、ハードルが高くなっているから新規参入が難しい――こういうタイプの問題が生じるのは、思春期モラトリアムと括られる時間のうちにも、私達が着実に社会的に歳をとっていくためである。つまり、一言で思春期モラトリアムとは言うけれども、中学生や高校生〜二十代前半のフレッシュマン〜35歳のおにいさんやおねえさんを誰も同列にはみてくれないのである*1。
こうしたことは恋愛に限ったものではなく、社会的場面のあらゆる事象についてまわる。スーツの着方・公共空間を利用する際のマナー・学校や企業の面接 etc ……十代のうちだったら見逃して貰える失敗・ちょっと恥ずかしい体験で済ませられるものが、二十代には眉を顰められるものになり、三十代ともなれば「なんだこの人…」という違和感になってしまう。「○歳までに××してない人は置いてっちゃいますからねー」という裏のルールが、思春期モラトリアムにあぐらをかいてノウハウ蓄積を怠っていた人を追い詰めていくのである。
のみならず、思春期男女は生物学的にもどんどん加齢していく。
十代〜二十代の頃に徹夜で遊んで回ってもビクともしなかったのに、三十代に入ると徹夜が堪えるようになりはじめる。無茶な遊びが成立するのは、思春期のせいぜい中盤ぐらいまでだ。このことが示しているのは、「無茶な修行や研鑽も、思春期の後半になると難しくなっていく」ということでもある。「思春期は35歳まで説」を採用する場合、情熱と体力に任せてムリができる時期は思春期前半に限られている、というルールもあわせて記憶しておくべきだろう。
また、子どもをつくろうと思った時にも、生物学的な年齢が問題になる。男性も女性も、三十代の中盤を曲がり角として生殖能力は次第に低下していく。よしんば子どもをもうけたとしても、三十代の後半になってからの初産・子育てはいかにも身体的に大変である。
生物学的には、思春期は猶予期間(モラトリアム)ではない。少なくとも思春期の後半に関してはそうである。油断しているとあっという間に歳をとって、今まではラクラクと出来ていたことが至極困難になってしまう。
思春期は延長したという。しかし猶予期間は延長していない。
このように、現代の思春期、とりわけ最近の論者が「延長した思春期」に含めている三十代にさしかかるような思春期後半は、実際には社会的・生物学的なモラトリアムとは言い難いニュアンスが含まれている。むしろ、一定年齢に達するまでに経験しておかなければ難易度やリスクが急上昇するような要素がいよいよ顕在化し、「○歳までに××してない人は置いてっちゃいますからねー」という裏ルールが強く意識されやすい時期になっているようにみえる。
一昔前、思春期を「終わらない文化祭」「終わらない夏休み」的に比喩した人々がいて、そのような比喩を信じた人々が存在した時代があった。けれども、そんなのは思春期の表ルールだけを真に受け、裏ルールを無視した比喩*2に過ぎないし、とりわけ思春期後半の現実には即していない。思春期の前半がある種のモラトリアム性を孕んでいることに異論は無いし、そうした猶予期間は貴重きわまりないと私は思う。だがそれだけでなく、思春期の一回性とかけがえの無さ、そして取り返しのつかなさを心得ておく必要もある。いや、今思春期たけなわの人達においては、そうした一回性とかけがえの無さは強く意識されているのかもしれないし、「終わらない文化祭」的な比喩はとっくに時代遅れになのかもしれないが。
「思春期は自由な季節」vs「○歳までに××してない人は置いてっちゃいますからねー」。
私達がいま思春期と呼んでいる時期が延長したからと言って、私達が社会的・生物学的に加齢しなくなったわけではない。「少年老いやすく、学なり難し。一寸の光陰軽んずべからず。」という古の言葉は、いまや学に限らず、社会適応上のあらゆる事象についても当てはまるようにみえる。