ヱヴァQのシンジは意外と「シンジさん」だった――内面葛藤の無いチルドレン達 - シロクマの屑籠

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ヱヴァQのシンジは意外と「シンジさん」だった――内面葛藤の無いチルドレン達

 
 オタク仲間と一緒に、『新劇場版ヱヴァQ』をもう一度見に行ってきました。
 
 

「ヱヴァQのチルドレン達は誰も葛藤していない!」

 
 私は、新世紀エヴァンゲリオンおよび新劇場版ヱヴァを、碇シンジの物語として見る前に、惣流/式波アスカ・ラングレーの物語として眺めてしまうクセがある。ヱヴァQを見た初回、私は28歳になったアスカが十分とは言えないにしても齢を重ねたというか、自分のアイデンティティや内的葛藤に左右されずに仕事ができるぐらいに成長したと喜んでいた*1
 
 で、そうやってウジウジ悩まない“アスカの成長らしきもの”を喜んでいたのだが、友人から以下の指摘を受けてちょっと考え始めた。
 
 「今回、チルドレンが誰も葛藤していないよね?
 「登場人物が葛藤するのがエヴァじゃなかったっけ?
 
 確かにそうだ。アスカは上述の通り。真希波マリはいつものあの調子。作中に出てきた綾波タイプは無機的すぎる。なにより、碇シンジが自分の悩みを内面に抱えようとしていない。より正確には、自分の悩みを言語化させていない
 
 もちろん今回の碇シンジは、大いに苦しんでいた。それを否定したいわけではない。問題はそこからで、今回の碇シンジは、葛藤に対して言語レベルで煩悶する前に、身体が動くのである。あるいは、なんら言葉を発することなく、ただ寝ている描写があるのみだ。
 
 綾波ボイスを聴くや、ヴィレのメンバーの制止を振り切ってネルフ本部に向かうシンジ。冬月先生に事実を聞かされてからは、自分の内的煩悶をモノローグする代わりにS-DAT*2を投げつけるシンジ。渚カヲルが「シンジくんもうやめよう」と言っても立ち止まって考える描写が無いシンジ。
 
 自分自身の内的葛藤をモノローグ的に言語化して悩むことがなく、ひたすら身体を動かして行動するシーンばかり目につく。今回のシンジのそれは、粗雑で脊髄反射的で、ときどき行動化 acting out という語彙をあてがいたくなるようなところもあった。このあたりが旧エヴァのシンジとは大きく違っているし、ヱヴァ破のアスカよりももっと悩みが言語化されていない。
 
 

ヱヴァQの碇シンジは、ヱヴァ破のシンジ以上に「シンジさん」なのでは?

 
 この視点から見たヱヴァQ碇シンジは、葛藤に行動と決断がリンクしているという点ではヱヴァ破の碇シンジと同じくらい直情的だし、みようによっては動物的にすらみえる*3。悩みを言語に転換し内面に抱えるのではなく、可能な選択肢のある限り、外界に対して即座に行動して葛藤の解決を図るという身振りは、今までの碇シンジ以上に「シンジさん*4的でもあった。ヱヴァQのシンジのほうが、ヱヴァ破のシンジよりは苦しいに違いないのだが、その苦しさがほとんど言語化されることがなく、行動に直結するあたりが「シンジさん」的だとここでは言いたいわけだ。
 
 碇シンジの葛藤に対する対処のしかたが、言語化して内に抱え込む様式から、言語化せずに外界への行動へと発散する様式に変化したことは、90年代の心理学ブーム時代〜2012年の現況との違いを反映したものとも言えるし、古典神経症の時代〜パーソナリティ障害の時代へ(そして双極性障害と発達障害の時代へ)という精神病理のトレンドシフトとも一致しているように感じた。このあたりも、新劇場版の碇シンジが、旧版の碇シンジに比べて現代風に見える一因かもしれない。
 
 

キャラクターが葛藤しないヱヴァQを、エヴァ旧と呼んで構わないのか

 
 こんな具合に、チルドレン達は葛藤を言語化しなくなった。年上のキャラクター達も、自分のことを語ろうとはしない。大人も子どもも、とにかく情況に即して行動しようとするようになったサードインパクト後のヱヴァンゲリオン。しかし、ここまでキャラクター達が葛藤を、内面を語らないアニメを、本当のエヴァンゲリオンと呼んで構わないのだろうか?
 
 まあ、こういうウジウジと悩まずに行動するキャラクター群像劇のほうが現代のアニメとしては正しいのかもしれないし、今更、旧エヴァ的な心理描写を期待しているファンなんて少ないだろう。第一、時代遅れも甚だしい。
 
 けれども、その臭み、その20世紀的古臭さが、エヴァンゲリオンの、エヴァンゲリオンたるゆえんであるとするなら、その糠麹のような臭みを脱臭したヱヴァンゲリオンとは、臭みを消したゴルゴンゾーラチーズのような何かであり、スペイン産生ハムに対する日本産生ハムのような何かではないか、という疑問は禁じえない。なるほど、食べ慣れない人々へのウケはよろしかろう。しかし、旧来持っていたテイストは薄められるか、失われている。
 
 もちろん私は、「内的葛藤の言語化」だけがエヴァンゲリオンを判定する指標だと言いたいわけではないし、エヴァンゲリオンの楽しみどころは他にも沢山あると思う。例えばヱヴァQ序盤15分間の、緊張感とスピードにあふれた描写は最高だった。そもそも私だって、碇シンジのモノローグを長々と聞かされたいかと言われたらNoと答える。
  
 けれども、「内的葛藤の言語化」に関する限り、ヱヴァQはエヴァ旧を切ったということだし、キャラクター群像劇としての意味合いが旧作とは根っこのところで違っていると覚悟はしなけばならないのだろう。なまじ、キャラクターの名前が同じなだけに紛らわしい限りだが、そのあたりの違いを心得たうえで新劇場版ヱヴァなりの楽しみを見出したいとも思うし、チルドレン達、とりわけ式波アスカラングレーさんの幸福と無事を祈ろうと思う。
 
 私はついついアスカばかり見てしまうので、ヱヴァ破の時点では「悩まないキャラクターばかりで構成されたヱヴァンゲリオン」についてあまり真面目に考えていなかったし、シンジを「シンジさん」と揶揄する向きを過剰反応だと笑い飛ばしていた。けれども今は、笑い飛ばしにくくなった気がするし、旧世紀エヴァンゲリオンの臭みが少しだけ懐かしくもなった。ともあれ、完結編を楽しみに待ちたいと思う。
 

*1:尤も、アスカはアスカで幾つかの問題点というか、完結編での補足なり辻褄あわせなりを必要とするような、首をかしげるところがあった。第一に、彼女は14年経っても、碇シンジの事になるとツンデレ少女のような振る舞いになってしまう。14年の時を超えてツンデレするだけの説得力は描かれるのか?第二に、ヱヴァ破では「ヱヴァに乗らなくても幸せになれるかもしれない私」にアスカは気付いた筈なのに、それとは真逆の十四年後が描かれ、しかもアスカはそこに馴染みすぎている。おーい、エヴァに乗らないアスカさんに最後は戻れるんですよねー。これらについて、完結編でなんらかの補足や辻褄あわせがなければアスカファン達の怨嗟の声がネットにこだますることになるのだろう。製作サイドがうまくやってくれるのを祈るばかり。

*2:注:あの旧式ウォークマンみたいなもののこと

*3:そういえば、檻のなかでは寝ているばかりで、家畜のように餌を与えられるシンジの姿もすこぶる動物的、あるいは動物園的だった。このあたり、ヱヴァ破の豊かな食事風景とは対照的だ

*4:「シンジさん」とは、自分の意志で主体的積極的に決断して行動する、ヱヴァ破における碇シンジの身振りを揶揄するようなネットスラング。ハイパーリンクを参照のこと。