「女は自由でいい?」 裏に潜む覚悟なき人々の羨望:日経ビジネスオンライン
リンク先は、アラフォー女性の自由についての記事だ。男女のジェンダーによる違い・組織と個人・周囲の目線といった諸点に触れていて興味深い。
しかしそれ以上に、そもそも40歳にもなって「自由」に執着するということ・アラフォー向けの「自由に関する記事」なるものが流通していることのほうが私には興味深く感じられる。40歳にもなって、まだ「自由」とかそういうことを言っているのか。四十といえば不惑とも言う。自由がどうこう言う歳というより、既に引き受けたもの・“しがらみ”・立場といったものを意識する年頃ではないのか。さらに言えば、自分自身の自由を追いかけるより、若い世代の思春期モラトリアムを応援したり、子ども世代の自由のための礎となったりすることを意識しはじめる年頃なのではないか。
むろん、リンク先を読めば分かるように、ここでいう「自由」とは「自分自身が自由を謳歌する」というよりは「これからの軟着陸地点を自由に選ぶ自由」なのだろう。しかし、いくら思春期モラトリアムが延長したとはいえ、これぐらいの歳になればもう“精神の軟着陸”を終えていてもいい筈だし、思春期モラトリアムな気持ちとライフスタイルに身体がついてこないようにも思える。
人は、自由は良いものだと言う。
確かに、人間は不自由よりは自由を求めるものだろうし、極端な束縛に晒されると人間は心身を蝕まれていく。だから、社会の自由度を上げるように頑張ってくれた先人の功績には感謝せずにはいられないし、社会の自由度が下がっていくような事態を恐ろしいものだと思う。
その一方で、いつまでも自由であり続けること、何者からも束縛されない処世術にしがみつくことは、それはそれで人間の心身を蝕んでいくのではないか。特に、フレキシビリティが低下していく年頃の個人にとって、“精神の軟着陸”を遅らせて“精神の無重力状態”を漂い続けるのは、非常にタフでなければ身の持たない、メンタルヘルスにとって脅威となり得る境地となり得ないか。
もっと言えば、自由であり続けることに執着し続けること自体は、甚だ不自由なことではないか。
歳をとると、“自由飛行”は要注意物件になっていく
いささか禅問答めいた文章になってしまった。
ともあれ、40代になっても“精神の無重力状態”を漂い続けるのは容易ではないと思うし、そこで語られるところの「自由」という言葉には、十代や二十代の青少年には無かった、ほろ苦いニュアンスが潜んでいるだろうとも思う。手放しで喜べるようなものではあるまい。
なかには、圧倒的な才能と強靱な精神でもって、40代になっても軽々と“自由飛行”し続ける人もいるだろうし、そのような人は「何歳になっても自由は素晴らしいよ」と語ってみせるのかもしれない。けれども、そういう常軌を逸した精神の飛翔力を持った人物を誰でも真似できるというわけではないし、そのような生き方がラクな生き方というわけでもあるまい。仕事や家庭の事情に束縛されながら、それでも自分の人生を精一杯生きている人は沢山いる。むしろ、その不自由な境地のなかに幸福を見いだしている人のほうが多数派なのであって、メディアで目にするような“自由飛行”し続けるようなアラフォーなど、少数派に過ぎない。
十代、二十代の頃にはなにより愛すべきものに感じられた「自由」も、歳をとるにしたがって取り扱い要注意な物件へと変化していき、やがては心身を蝕みかねないリスクになっていく――このことは、もっと周知されてもいいと思う。そして、そのリスクを抱えるだけの精神力とエンジンを持った人間だけが、主体的に選ぶようなものになればいいな、と思う。不惑を迎えても惑い続けるためには、非凡な才能やパワーが必要になるのだから。