あるオタク精神科医の歴史 - シロクマの屑籠

シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あるオタク精神科医の歴史

 
 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20110711/1310313274
 p_shirokuma さんと、一番苦しんだオタク世代
 
 『ある人間がオタクであること』『ある時代においてオタクと呼ばれること』のニュアンスには個人や時代ごとに違いがあるので、オタクである自分・オタクという趣味について他人に説明する際には、「どのあたりのオタクなのか」を具体的に記しておかないと、何を言っているのか不明瞭になってしまいやすい。特に最近は、“オタク”という単語のニュアンスが出涸らしのお茶のように薄まって、一体どのあたりを指しているのか分かりにくくなっているため、真面目に説明しようと思うほど、長々しい注釈が必要となる。
 
 以上を踏まえたうえで、オタク精神科医として生きることを選んだ、ある人物の昔話を書いてみようと思う。「オタク」という一言で一緒くたに括られがちな人間やライフスタイルの背景に、個人ごとの歴史や文脈が横たわっていることを示すサンプルになればと思う。
 
 
 【1990年前後】
 
 90年代のおたくを語る際には、1989年の『宮崎勤による幼女連続誘拐殺人事件』のインパクトは欠かせない、と言われることがある。既に当時おたくと自己認識していた人達には、たしかに当てはまるのかもしれない。
 
 しかし当時の私はおたくではなく、自分が将来オタクになっていく素養すら自覚できていなかった。ここで書いたように、当時の私はゲーセンのシューティングゲームに魅了されはじめてはいたが、技倆もゲームマシンも満足に揃っていない未熟者だと自分のことを思っていた。また、『聖闘士星矢』のやおい同人趣味を開けっぴろげにして男女双方からドン引きされていたクラスメートの女子が、おたくと呼ばれて軽蔑されていたこともあって、おたくというのは、不可解な性的趣味を恥ずかしげもなく開陳する人間のことだと思い込んでいたふしがある*1
 
 そんなわけで、当時の私は、M事件を「蚊帳の外の出来事」「おたくってキモいなー」という思いで眺めていた。首都圏のおたくオピニオンリーダー達がM事件を深刻げに語っている事も、田舎の中学生には知るよしもなく、また知りたいとも思わなかった。「それより源平討魔伝やりにゲーセン行こうぜ!」
 
 ただし、M事件の影響が全く無かったわけではない。クラスの女子が用いる語彙のレパートリーに“おたく”という新しい罵倒語が加わったのだ。この、女子の罵倒語として用られる“おたく”の意味は“根暗”“気持ち悪い”に限りなく近くて、私も言われて落胆したことがある。けれども「自分がおたくと呼ばれるのがイヤ」だったのであって「自分がおたくであるのがイヤ」だったわけではなかった。私は自分がおたくだとは思っていなかったし、女子同様、おたくとはキモいものを指す罵倒語だと思っていた*2。そしてロリコン趣味の男性やホモ趣味の女性は変態だと本気で思っていたし、『きまぐれオレンジロード』や『電影少女』を熱烈に支持するのは変態的で危ないと思っていた*3
 
 つまり、この頃の私にとって、おたくという言葉は「キモいことをやっているキモいやつに投げつける罵倒語」以上でも以下でもなかった。
 
 
 【1995年頃】
 
 この頃の私は、大学生になっていた。進学すれば行動半径は広がるし、金銭的な自由度も高くなる。そんななかで、私はシューティングゲームの腕を磨き続けていたけれども、その他はだいたい普通の大学生生活を送っていた。1995年ごろまでは。
 
 変化は、シューティングゲーム仲間からの「貸し出し」という形でやってきた。『同級生』『同級生2』『ときめきメモリアル』『雫』etc…。まぁお前もやってみろよ、どれもいいものだから、というわけだ。幸い、『ときめきメモリアル』は藤崎詩織というボスキャラがすっかり嫌いになって免疫が出来たが、『同級生2』はかなり深刻だった。それまでの私は、二次元キャラクターがそれほど好きではなかった。エロゲー・エロマンガの類がダメだったというわけではないが、「二次元だから良い」とか「三次元には無いアドバンテージがある」とかいった認識を欠いていた。それが揺らぎ始めるきっかけになったのが『同級生2』だった。
 
 こうした私の動揺に気を良くした“とても面倒見の良いゲーム仲間”達は、次々に新しいコンテンツを紹介してくれた。『新世紀エヴァンゲリオン』のビデオテープ全巻*4、『サクラ大戦』、そして当時最新のヴィジュアルノベルだった『痕』や『ONE』。私の『硬派なシューティングゲームマニア』という自意識のメッキはすっかり剥がされ、気づいた頃には、アニメオタクやエロゲーオタクの知り合いが異様に増えていた。「シロクマ君(注:筆者)も、すっかり堕落したね!」と彼らはニコニコしながら迎え入れてくれた。
 
 この頃、私達の周辺でやたらと使われたのは「一般人」という表現だった。もしかすると「オタク」以上に口にしていたかもしれない。
 
 自分達が楽しんでいるアニメやゲームが世間からオタクと後ろ指をさされ、変態扱いされることを踏まえたうえで「一般人」を名乗る行為は、「オタクだけど私はまともな良識ある人間なんですよ」というエクスキューズめいた響きがあった。しかしそれだけではなく、「オタク同士で一般人を自称しあう」という現象は、自嘲・侮蔑・ジョーク・アイデンティティ・謙遜などの注意深い化合物で、大雑把に言っても「自分は一般人とは言えないオタクであると認めざるを得ない」「しかし、お前らみたいなヤバいオタクじゃないよ!」「いやいやホントは同じムジナなんだって分かってるんです」「みんなでオタオタするのは楽しいよな」「いや、でも、私なんて皆さんに比べれば不勉強なほうです」といった、複雑なニュアンスが込められていた。これらのニュアンスを欠いた、粗野な一般人という表現には角が立った。そうやってお互いに気を遣いあいながら「一般人とオタク」という言葉を使い分けられるか否かが、オタクとしての仲間なのかそうでないか――もっと言えば、オタクか一般人か――の試金石になっていたきらいもあったかもしれない。
 
 こうした、オタクがオタクであることを自嘲的にエクスキューズするような現象は、たぶん、割と色んなオタクコミュニティでも発生していたんじゃないかと私は推測している。
 
 その根拠のひとつは、この時期のオタク/オタク予備軍をターゲットにしている作品のなかに、自嘲的・エクスキューズ的な表現が含まれていることだ。それは、『ああっ女神さまっ』であれば「一巻に出てくるキモオタ」や「オタッキーフライドチキン」であったり、『同級生2』でキモさの限りを尽くす芳樹の姿であったりした。オタク向けの作品にオタクが登場する時、後の『らき☆すた』はもちろん、『げんしけん』と比べてさえ、オタクはキモく滑稽に描写されていた。
 
 もうひとつの根拠は、この時代のオタク界隈で定着したスラングに、やたら婉曲表現が多かったということだ。「一般人」「大きなお友達」そして「萌え」。こうした婉曲表現の元祖としては、「やおい」という女性オタク界隈のスラングが連想されるが、それはさておき、この時期の男性オタク界隈では、オタクのネガティブイメージや変態性を直視しないで済ませられるような種々のレトリックが重宝されていた。今でいう「ブヒる」のように、ストレートにパトスをばらまくオタクはまだ少なかった。
 
 
 【2001年頃】
 
 そうやってオタク的エクスキューズに埋もれながら学生時代を過ごしていた私は、どこからどうみてもすっかりオタクになっていた。『To heart』や『Air』にリアルタイムで触れることが出来たのも貴重な思い出だ。
 
 けれども2001年頃の私は、「オタクと一般人」とのギャップが無視できなくなりはじめていた。ここでいう一般人とは、前述のような身内内でのエクスキューズの意味ではなく、“オタクではない人達”という意味の、文字通りの一般人のことだ。オタク的な話題や身振りは世間では通用しない。――医師免許証を取得して間も無かった私は、「アニメやゲームを趣味にしている大人」に対する社会の風当たりの強さが、想像以上だと感じていた。私は、あるナースが「シロクマ先生、今日の患者さん観た?あれ、絶対オタクよね、怖いわねぇ」と話しかけてきた時、表面的には取り繕いながら、心のなかでは(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルしていたものだ。
 
 当時のインターネットではテキストサイトブームが到来し、『ちゆ12歳』的な、オタクに居心地の良い自虐を提供する“芸風”が結構ウケていた。しかし上記のような事情を抱えていた私は、テキストサイトよりも『脱オタ』をテーマにしたウェブサイトに夢中になっていた。この頃はまだ、『脱オタ』という言葉は殆ど無名に近かったと思う。そして『脱オタ』という表現自体、脱-オタクという具合に、オタクという存在に依存した・オタクを前提とした表現であって、そこには多かれ少なかれ同族嫌悪的雰囲気が漂っていた。当時の脱オタサイトを思い出すと、
 
 1オタク趣味を続けたい。差別されるのは回避したい。
 2オタク趣味をやめたい。差別されるのも回避したい。
 3オタク趣味は無い。けれどもオタク呼ばわりされて差別されるのを回避したい
 
 というサイトが存在していた。特にの場合、オタクの容姿だけでなくオタクの趣味に対する侮蔑もかなりのものだったが、実際の『脱オタ』サイトは123が多かれ少なかれ混合したような体裁をとっていた。それは仕方ないことだったのかもしれない。当時のオタクという言葉は現在よりもずっと侮蔑的で、「アニメやゲームに耽溺していなくても、キモい奴ならオタクと呼んで構わない」という人が多かったのだから。
 
 それらの『脱オタ』サイトを参考にしながら、私はオタク界隈の外に生活圏を獲得するべく必死だった。多くの失敗・屈辱を経験したが、当時の私は「必要な出費なら金に糸目をつけない」「恥をかくなら今のうち」「未来の自分のために今は人柱になれ」と息巻いていたので、懲りることなくトライアンドエラーを続けることができた。幸い、私の選んだ精神科という職場は、コミュニケーションについてたくさんの理論と実践のチャンスを与えてくれた。大学や外勤先病院の図書館は、理論面を漁る宝の山で、コミュニケーションが下手で常識を欠いていた私を先輩達は根気良く指導してくださり、バリエーションに富んだお手本を見せてくれた。この頃にお世話になった人達のことは決して忘れられない。
 
 こうしたトライアルの一環として、私はウェブサイトを立ち上げ「汎用性の高い適応を達成するために何をすべきか」について自分なりに考え始めるようになった。ほどなく、アニメやゲームを楽しんでいること自体はたいした問題ではなく、コミュニケーションの技能や基礎的なTPOのほうが本質的な問題だと気が付き、その基礎的なコミュニケーションの技能やTPOですら、身につけるためには年余にわたる継続が必要だという結論に至った。また、何をやるのであれ、勇気を失った人間・恥に対して敏感すぎて行動できない人間には、そうしたトライアルが難しいということも知った。
 
 それから3年ぐらい経つ頃には、私はずっとコミュニケーションが上手くなったと自覚していた。実際には「だいぶましになった」ぐらいが本当のところだったのだろうけど、自分でも成長の手応えが感じられるようになると、コミュニケーションへの挑戦がグッと楽になった。オタクじゃない人ともまずまずコミュニケーションができるということが、とてもうれしかった。
 
 ただし、良いことばかりだったわけではない。『脱オタ』系のウェブサイトに夢中になっていた頃の私は、自分自身と周囲のオタク仲間に対する同属嫌悪が高まりすぎていた。これは、昔からのオタク仲間達にとって傍迷惑なことだったと思う。実際の私は、そうしたコミュニティを心理的なホームベースにすることなしには、オタクの世界の外に挑戦することは出来なかった。中学生が親に依存しながら親に反抗するのにも似た、アンビバレンツな感情を抱えていた私を、オタク仲間達は持て余し気味だったのではないか。けれどもそんな私を、コミュニティの仲間達は追い出すでもなく、今まで通りに付き合ってくれた。それは本当にありがたいことなのに、当時の私はそのありがたさに気付くことが出来なかった。*5
 
 
 今から振り返れば、『脱オタ』は「オタクである私というアイデンティティ」に「オタク以外の私というアイデンティティ」を付け加えるために戦われた“思春期の天王山の戦い”だった。「オタク以外のアイデンティティを引き受けなければ適応できそうにない」という職業上のニーズと、「だけどオタクはやめたくない」という願望の折衷案として、私は『脱オタ』を――より正確には、身振りや外見ではオタクと差別されずにオタク趣味を継続できる手法を――修めていった、ということになる。もし私が2010年に研修医をやっていたら、こんな事をやらなくても良かったのかもしれない。だが2000年頃に研修医をやっていた私には、どうしても必要なことだった。
 
 
 【2006年頃】
 
 2006年頃になると、社会適応にも概ね支障を来さずに済むようなオタクライフができあがり、私は再びゲームやアニメを素直に――そして存分に――楽しめるようになっていた。しかも『脱オタ』の副産物として、オタクの世界の外側にも楽しいこと・楽しいひとがたくさん存在することを知って、知ったうえでなおゲームやアニメが好きだと言えるようになっていた。つまり、『脱オタ』前の私は「自分にはゲームやアニメしか無い」と心理的に依存していた*6が、『脱オタ』後の私は「自分にはゲームやアニメ以外にも沢山の選択肢がある。けれども、私はそのなかからゲームやアニメを選ぶ」ようになった。初対面オフ会で、自虐やネタ臭さでごまかすことなく「自分はシューティングゲームを専攻とするオタクです」と名乗れるようになったのも、この頃からだった。
 
 さて、ちょうどこの頃、blog界隈(というよりはてなダイアリー界隈)では、非モテというキーワードのもとに集まった思春期男性達が、自分達がモテないことについて、あれこれ議論を繰り返していた。そんな彼らにとって『脱オタ』をテーマとする私のウェブサイトは格好のターゲットだったらしく、たびたび批判されるようになっていた。なかには道理に適ったものもあれば*7、そんな事を言ったってしょうがないとしか言えないようなもの*8まで様々だった。こうして私は「非モテ」vs「脱オタ」という、わけのわからない論争に巻き込まれていった。
 
 ネット上やオフ会でのやりとりを通して、私は自称非モテ達のことを知るようになっていった。まず私が気にしたのは、この、自称非モテの人達の殆どが、生粋のオタク趣味愛好家ではないということだった。なかにはジェスチャーやファッションとしてオタク趣味に手を染めているのがミエミエの自称非モテもいたが、これは後の時代の先駆けだったのかもしれない。『脱オタ』のウェブサイトを運営していた当時の私は、あくまでオタクの社会適応だけを気に掛けていたので、この、オタクとしての来歴の希薄な人々のモテないという声には、どこか他人事めいた印象を覚えていた。
 
 ただし、そんな彼らの、非モテという狭くてネガティブなアイデンティティに固執し、その内輪でハシャギ回ったり高踏的な議論に陶酔したりする姿には、過去に出会った「いちばんヤバいオタク」に相通ずるような痛々しさがあって、そこのところは非常に気になった。つまり、オタク界隈の内側しか知ろうともしていないのに「『Air』を気持ち悪がる連中はクソ」などと言ってしまえるオタクや、オタク界隈のロジックを外の人間に押しつけた挙げ句「あいつらは俺達を受け容れない」と敵視するオタクに相通ずるような、「視野の狭さを生かした唯我独尊」っぷりに、オタク界隈でよく見かけたメンタリティと共通する何を感じずにはいられなかった。もちろん、私自身、そんな彼らに昔の自分の姿を投影して苛立っていたという部分もあるかもしれない*9
 
 とにかく、自称非モテ達の言葉はあくまで内輪に向けられたものであって、モテている(と彼らが思っている人達)への説得力も目配りも、自分をどうにかするための実践も政治も、未来への展望も、すべてを欠いていた。私はこの頃、ある非モテ同人誌*10に、「非モテの人達は、10年後のことをどう考えるのか」といった文章を寄稿したことがある。そういった、少し先の事を真面目に考えている自称非モテ論者が、まともにいないように見えたから、挑発してやろうと思って書いたのだが、興味すら持って貰えなかったと記憶している。また、オフ会で似たようなことを質問しても、いつもはぐらかされた。「これから非モテの自分がどうしていくのか」をまともに考えている人は皆無に近く、あくまで非モテというキーワードで集まって一体感に陶酔するのがこの人達の目的だと確信した。程なく、彼らは内ゲバに明け暮れはじめ、非モテという言葉はキーワードとしての存在感を失っていった(ちなみに、非モテに代わって存在感を示し始めたのはリア充、という言葉である)。
 
 こうした自称非モテ論者達とのやりとりは、考えようによっては遠回りだったかもしれないが、「オタクの社会適応」から「オタクではない人達も含めた社会適応」へと興味をシフトさせるきっかけにはなった。世の中には、オタクではないけれどもコミュニケーションが不得手な、それでいて心療内科や精神科に通うほどでもないサブクリニカルな*11水準の人達がたくさん存在している――そのような人達の悩みや、渡世の様式をもっと知りたいと思ったのは、これがきっかけだった*12
 
 
 【現在(2011年頃)】
 
 以上のような来歴を経たうえで、現在の私はオタクな精神科医を続けている。それぞれの年代に考えていたこと・それぞれの年代に遭遇していた課題もバラバラで、それなりに矛盾を含んでいる。けれどもそれだけ私は変化を続けてきたということだろうし、オタクなりに真面目に思春期というやつをやっていたのだと思う。2001年頃の私と2011年の私で、オタクという趣味・オタクという生き方に対してまったく矛盾したスタンスでいることを、むしろ嬉しく思う。
 


そして上記が象徴しているように、オタク界隈のコンテンツが幅広く評価されるような時代がやってきた。これは個人的な当て推量でしかないけど、2006年〜2015年ぐらいは、後世から見てアキバ系文化の黄金期とみなされる*13はずで、この黄金期をタイムリーに経験できるのはオタク冥利に尽きる。90年代のオタクコンプレックス的な感性が“古くさい”と感じられる時代になった事に、当時思春期を過ごしてきた一人として寂しさを感じないわけではないけど、新時代の意識やコンプレックスが滲み出ているようなコンテンツも、それはそれで面白いと思う。とりわけ今年はアニメが大豊作になりそうな気配がする。心から楽しみたい。
 
 こうした幸福なオタクライフが、あとどれぐらい続くのかは、自分には分からない。当たり前の日常として享受しているオタクライフなんてものは、本当は当たり前のものでもなんでもない。人間は(とりわけ壮年期以降は)案外あっさりと命を落とすし、ジャンルの黄金期は儚いものと相場が決まっている。そうでなくても、毎年のコンテンツをタイムリーに楽しめるのはこの瞬間しかない。だから精一杯、歳を取ったなりに楽しんでいこうと思うし、コンテンツを心から楽しめるよう、日々の生活のつとめを怠らず、果たしていこうと思う。
 
 

*1:そして正直に書くと、そのクラスメートの女子を私もおたくと呼んで軽蔑していた。おたく差別に加担していたのである。

*2:だから私は自分が尊敬していたゲーマーを絶対におたくとは呼ばなかった。彼らは“マニア”なのであって“おたく”じゃない、というわけだ。この頃、マニアという言葉とおたくという言葉の両方が流通していて、両者の使い分けがそれなりに問題になっていた。マニアという言葉には、おたくのような罵倒的ニュアンスは漂っていなかった

*3:ちなみに少女漫画は意外とNGではなかった。なかよしの『美少女戦士セーラームーン』なども、かなりの男子が読んでいた。対してアニメ版の『美少女戦士セーラームーン』は、小さな子どもが見る番組とみなされ、男子が見るのはちょっとヤバいというコンセンサスが出来上がっていた。

*4:ちなみにエヴァンゲリオン本放送時、私は7話・9話・10話・22話だけを目撃するという非常に運の悪い出会い方をしてしまったために、周りがすっかり興奮していても、すぐにその波に乗れなかった。けれども友人宅で第1話を流していたのに居合わせた瞬間、やられた。

*5:それに気付くようになったのは、もっと後の時代のことだ。今は深謝せずにいられない。

*6:アイデンティティの面から見れば、私には「オタクである私」というモノカルチャーなアイデンティティしか無かったということだ。

*7:例:「誰もが脱オタをやるようになれば、今まではコミュニケーションの競争をしていなかったオタクまでもが、競争に巻き込まれて四苦八苦するようになる」。これはある種見事な予言となり、オタク界隈は以前よりTPOのアベレージが高くなった一方、オシャレでライバル達に差を付けるようなオタクが出現するようになった。さらに、TPOを弁えない者にとって、オタク界隈は必ずしも居心地の良いとは言えない空間へと変貌していった。

*8:例:「努力しなければならないというのはおかしい。」「俺達は被害者。女は敵。革命だ!」

*9:説明するならこうなる;「オタク界隈という狭い領域のアイデンティティに固執し、その内輪で酩酊感におぼれていた自分自身の姿が、非モテ界隈の彼らに重なって、一種の転移を起こしていた」

*10:奇刊クリルタイvol.2。現在のメルマガクリルタイの前身。メルマガクリルタイのアーカイブについては、右を参照。 http://blog.livedoor.jp/chikumaonline/

*11:「サブクリニカルな」:病院に受診するほどではないけれども、潜在的には問題を含んでいるような、といった意味

*12:そして、そういった人達のことを知るにあたっては、病院の診察室から眺めるだけでは気付かない事がたくさんある、ということも。メンタルヘルスの破綻まではいかなくても、その手前で凌いでいる膨大な人達の「渡世の様式」は、既に破綻した人だけがやってくる病院の診察室からではその一面しか見えにくいし、診察室ではどうしても疾患とその治療に話が集まってしまいやすい。もちろん、病院の機能上、それが正しい在り方なのだが。

*13:少なくとも、ひとつの特徴的な時期としてカテゴライズされ記憶されると思う