第二稿補足:空気を読み合うその他の人達(抜粋) - シロクマの屑籠

シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

第二稿補足:空気を読み合うその他の人達(抜粋)

 
 現状の観察2:能動過小傾向に覆われる、20代〜30代の男性諸群(要約) - シロクマの屑籠で挙げた消極オタク・引きこもり・モテない男とイコールではないにしても、似た特徴を持った一カテゴリーを補足しておこう。昨今ありとあらゆる文化ニッチに多々みられる、「場の雰囲気を壊さないことだけに器用な男達」もまた、他者に対して能動的・積極的に働きかけることができない。もともと日本はハイコンテキストな社会で、お互いがお互いの顔色を通して利害を推量しあいながら行動選択する傾向が強いが、昨今では思春期真っ最中の男性においてすらこの傾向が拡大している可能性が高いと私はみている。ブログやmixiでよく見かける「毛づくろい的コミュニケーション」 - ARTIFACT@ハテナ系で書かれている“けづくろいコミュニケーション”(元々は斉藤先生の発言)のような、互い拳を突き合わせないようやりとりが、種々のコミュニケーションシーンで増えているのではないだろうか?

 彼らは、
A.互いの表情や発言から互いの嫌がる事を敏感に察知するアンテナは異様なまでに発達している
B.自分達の置かれている状況に劣等感を必ずしも抱いていない
という点で上述の三グループとは異なっている。また、
C.他者の利害や感情に敏感
という点でも、オタクや引きこもりに多い空気読め無さ加減とは真逆に位置している。

 だが、今回紹介したカテゴリーも“空気は読んでも互いに踏み込まない人達”も、「他者との深い関わりを避ける&他者との深い関わりに耐えられない」という心的傾向では共通しており、思春期における冒険を極めて限定的なものにしているという点でも共通している。

 よって、実際は「空気読みまくって空気に同化する思春期男性」と今回紹介した「能動過小」の諸カテゴリーは、全く別物というよりはコインの裏表の関係にあるのではないかと私は推測している。どちらの場合であれ、思春期において自分の限界と可能性を規定するにはあまりにも他人に踏み込む&踏み込まれる機会と意志を欠いており、リスク回避と不快回避に特化した適応と考えられないだろうか。そしてコインの表であれ裏であれ、モラトリアムな年頃におけるこうした傾向は、E.H.エリクソンの発達課題[参考:http://homepage1.nifty.com/~watawata/psycho/b7.htm]という視点からみれば、おそらくは好ましくない停滞として捉える事が可能ではないだろうか。具体的には、思春期〜青年期において、「自分はこんな塩梅」であるという規定の困難やアイデンティティの拡散が起こりやすくなり、相手の意志を尊重した男女交際に進む代わりに所有・支配の男女交際に向きやすくもなると私は想像するのだが。実際、現実の彼らの男女交際や“萌え”“モテ”からは、そういった特徴が読み取れはしないだろうか。もちろんそうした発達課題を解決することが「たったひとつの生き方」ではないし、多様な適応形態は文化的に尊重されなければならないわけだけど、『個人の葛藤の多寡』や『個人的適応の容易さ加減』という視点に基づいた時、“発達段階の不履行は葛藤多き生に繋がるだろう”とは言えると思う。もう少し丁寧に表現するなら、“防衛機制に依らなければ心的適応が維持しにくくなる”、と書くべきか。そしてオタクメディアや非モテ談義・電子デバイスなどは、こうした防衛機制に依った現代的心的適応に大いに役立っている、と考える次第である。
 
 オタク達であれ、自称非モテであれ、空気を読みあう顔色マスターであれ、現在の多くの思春期男性は、能動的でときに侵襲的でさえあるやりとりから遠い位置に存在している。そのような深くて泥だらけになりそうなやりとりに彼らは「我慢ならない」。こうした傾向は、目下日本の思春期男性においてみられる“若者の新しいステロタイプ”ということになるのだろうし、そんななかでなおも能動的にコミュニケーションの「剣」を振るえる若者は(比較的少なく、また同時に)猛威を振るう存在となるだろう。斉藤環先生が『博士の奇妙な思春期』で書いている若者の二極化と違う意味で*1、能動性を維持している比較的少ない狼達と、空気を読んで合わせるばかりor空気から退却する羊達によって、思春期男性は二極化しつつあるのではないだろうか。
 

*1:斉藤先生の二極化は、このテキストで言うコインの裏表に該当する