大佛次郎Q&A | 大佛次郎記念館

大佛次郎Q&A

Q
大佛次郎と横浜のかかわりは?
A

横浜に生を受けた大佛次郎は、終生、自らの故郷である横浜を愛し続けました。
1931年(昭和6)頃から約10年の間、横浜のホテルニューグランドの一室を仕事場として、横浜を舞台とする名作の数々を世に送り出しました。
東京の病院で亡くなった大佛次郎ですが、遺体を乗せた車が鎌倉の自宅に向かう途中、横浜の港やホテルニューグランドに立ち寄り、生涯愛した横浜と多くの見送りの人々に別れを告げました。

1932年 ホテルニューグランドの屋上にて
Q
作家〈大佛次郎〉誕生のきっかけは?
A

役人になる気持ちを失くしていた大佛次郎ですが、関東大震災(1923年)により、嘱託で勤めていた外務省との距離はさらに広がりました。しかし、震災の影響で翻訳や執筆の場となっていた雑誌が廃刊となって生活が苦しくなると、大佛は迫る生活費や書籍代の支払いに困り、博文館の編集者・鈴木徳太郎の「髷物(まげもの)を書くような時は、原稿を拝見しましょう」という言葉を頼りに講談調の読み物を書きました。これが好評で、とくに「鬼面の老女」からはじまる「鞍馬天狗」の連作は、雑誌の柱となり早々に映画化されて、大佛は一躍人気作家となります。

大佛次郎『鞍馬天狗』(初版本)
Q
〈大佛次郎〉のぺンネームの由来は?
A

ちょうど「鞍馬天狗」を書きはじめたころ、鎌倉・長谷(はせ)の大仏の裏に住んでいて、このペンネームを思いつきました。「ほんものの大仏が太郎だから、謙遜して自らは次郎とした。おさらぎと読むのは、北条氏の一族でこの土地に住むのを大仏と書いて、こう読んだから」と自ら書いています。
ほかにも多くのペンネームを使い分けていた時期があり、大佛が好きだったフランスの作家アンリ・ド・レニエに因んだ〈安里礼二郎〉や、鎌倉の地名に由来すると思われる〈由井浜人(由比ガ浜)〉、〈阪下五郎(坂ノ下の権五郎神社)〉などがありました。

鎌倉大仏と大佛次郎
Q
なぜ、大佛次郎と言えば、猫なのか?
A

大佛次郎は、生涯に500匹以上の猫と暮らした愛猫家でした。
大佛次郎にとって「猫は生活になくてはならない優しい伴侶」と語るほどの存在で、常に十数匹の猫に囲まれた生活の中から「スイッチョねこ」をはじめとする童話や、数々のエッセイが生まれました。
「スイッチョねこ」の絵本原画や大佛が愛用した猫の手あぶり、収集した置物などを集めた常設展示のほか、玄関、照明器具の上、展示ギャラリー内など館内各所で猫コレクションをご覧いただけます。

1958年夏 猫と
Q
大佛次郎最後の大作と言えば?
A

大佛次郎のライフワークとなった史伝「天皇の世紀」は、明治100年を記念して新聞連載が始まりました。この作品で、大佛は明治・大正・昭和の三代にわたる日本人の精神の歴史を明らかにしようとします。約1000点にも及ぶ史資料を駆使し、「書く為に生きている」と思い定め、病を押して現地取材旅行を重ね執筆しますが、第1555回で未完の作となりました。

1971年 京都御所 朝日放送「天皇の世紀」トップシーン
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