マムシとりんご 前編
「ケンカのやり方を教えてくれ、だと?」
赤城が怪訝そうに聞き返した。
ああ、と群青はうなずき、
「相手をとっちめる方法を教えてほしい」
暮れなずむ廃墟の町にはあちらこちらから夕餉の煙が立ちのぼっていた。
外にいた赤城が、闇市で手に入れた干物を焼いていた時のことだった。学校から帰ってきた群青は、やけに神妙な顔をしていた。
赤城は質問の意図を探るように顔を窺っていたが、また七輪に向き直り、うちわをはたき始めた。
「そんなこと知ってどうする」
「強くなりたい。あんちゃんはゴロまいたら負けなしだろ。俺にも教えてくれよ」
赤城が闇市で気の荒い連中と取っ組み合いになるところを、群青は何度か目撃している。先日もゴロツキに因縁をつけられた親子がいて、赤城が見かねて割って入り、手を出してきた相手をとっちめて退散させたばかりだった。
「中学で柔道をやってたからな。そのせいだろ」
「それだけじゃないだろ。こっちはどこで習ったんだい?」
と群青は赤城のまねをして拳をシュッシュッと前に突き出した。
「ありゃあ、ガキの頃、近所に拳闘馬鹿のおっさんがいてな」
「拳闘馬鹿……」
「ボクサー崩れってやつだ。あの頃の俺はむしゃくしゃするたび、近所の子供とケンカしては、そのたんびにこっぴどくやられてたもんだから、見かねたんだろう。一から教えてくれたんだ」
赤城にそんな子供時代があったとは意外だ。だが、その「拳闘馬鹿のおっさん」のおかげで、ケンカの作法や暗黙のルール、やり過ごし方から潮時の読み方まで一通り身につけることができたのだ。
「俺にもそれを教えてよ」
「ケンカなんて好んでするもんじゃない。あと、たとえ取っ組み合いになっても拳だけは使わないほうがいい」
「なんで? 殴りとばすのが一番効くだろ」
「ばか。素人は一発当てられりゃいいほうだ。それに顔を殴られると、大抵の人間は逆上する。血の気の多い相手なら尚更な。自分より体のでかい奴を逆上させるのは、わざわざ自分からのされにいくようなもんだぞ」
赤城がうちわをはたくと、七輪の炭から灰が舞い上がった。
「なら、どうしたらいいんだい?」
「おまえは小柄で力もないし、一目散に逃げるのが確実だな」
「逃げるのは駄目だ。とっちめるにはどうしたらいい?」
「とっちめなくてもいい。自分が無傷なら、それが勝ちってもんだ」
「俺じゃなくて相手が逃げ出す方法を知りたいんだよ」
食い下がる群青に、赤城はあきれた顔をした。
「一朝一夕で身につくもんじゃない。まずは足腰鍛えないと」
「鍛えれば、あんちゃんみたいになれるかい?」
「鍛えればな。だがおまえは体を作るところからだ。そんなガリガリじゃ鍛える前に怪我をする」
それが一番の難題だ。年が明けてから食料不足はますます深刻になっている。特に米の配給はどこも長蛇の列で数時間並んでも手に入らないこともある。おかげで群青はいつも空きっ腹を抱えていなければならない。育ち盛りにはこれが一番つらい。
赤城たちは、といえば、食料のことはもう闇市に頼るしかないと開き直っていた。家も財産もない引揚者と復員兵だ。開き直るのは早かった。まじめな国民ほど、耐えて律儀に配給を待ってしまう。闇市で売るのも買うのも違法だが、いまは法律を守っていたら飢え死にするとわかるから、背に腹は代えられない。ルールを守って死ぬより、今日を生き延びるのが先決だ。
思えば、戦時中は配給の列に並んでさえいれば、少なくとも最低限食いはぐれることはなかった。……充分な量だったとはお世辞にも言えないが。
「体ができあがるまでは、勝とうなんて考えるな。逃げることだけ考えろ」
「それじゃだめだ。相手をとっちめる方法が知りたいんだ」
赤城はさすがにうちわを止めて、群青を真正面から見据えた。
「おまえ、なにか企んでるだろ」
群青はすっとぼけた。隠し事をする時、斜め上へと目線を泳がす癖があることに、赤城は気づいていて、
「学校か? 内地の子供に何か言われたのか?」
「ち、ちがうよ。そういうことじゃないよ」
これ以上はボロが出る、と思った群青は、慌てて手を振り、
「わかったわかった。もういいよ。近江のアニキに聞くよ」
そそくさと家に入ってしまう。赤城はあきれつつも、気にかかるのだろう。
「群青のやつ、何かあったな……」
*
皮肉なことだが、戦時中の内地はとても治安がよかった。
敵機の空襲に怯えることはあっても、人々が空き巣に怯えた話はついぞ聞かない。
戦時下ではあらゆるものが厳しく統制されていた。はみ出したことをすれば「非国民」と罵られたあの頃は、きれいごとや建前という同調圧力が世の中の箍となっていて、不心得者が跋扈できる空気ではなかった。警察や憲兵は思想犯や徴兵逃れを取り締まり、市民は思っていることを口にできないかわりに安心して夜道も歩けた。忍耐が美徳とされた「清く正しい」監視社会に、狼藉者の居場所はなく、おかげで悪さを働く者への用心を忘れることができたのだ。
だが、いまはどうだ。見事に箍がはずれた。
人々の本音がむき出しになって、きれいごとが通用しなくなった。建前に従っていたら生きていけない人間が巷に溢れた。食料不足はその最たるもので、あまりの窮乏に皆の不満があちらこちらで爆発している。
窮状を訴える人々が皇居前でデモ行進するニュースが流れたと思ったら、旧軍施設や政府機関から隠匿物資が大量に見つかったとたびたび騒ぎになる。高級官僚や旧軍人がそれを売って稼いでいるなどと耳にするに至っては、溜まりに溜まった庶民の怒りが爆発した。結局、自分たちが唯々諾々と従ってきた相手は信用できない連中だったということを、ここにきて思い知るはめになった。
そんな世の中だから、当然、自分の身は自分で守らなければならない。群青たちは身にしみて実感している。
強さに憧れるのは思春期特有の心の有り様だ、などと簡単には片付けられない。まして群青には、母が残したメッセージのことがある。
――強く生きていくのよ。
強く、とはどうあることなのか。
「強くなりたい? ああ、相手を制圧する方法が知りたいのか」
近江勇吉の答えは単純明快だった。
「制圧術なら俺も昔、陸軍学校で習ったが、こっちから仕掛けることはあまりないな。まあ、護身術みたいなもんだから」
群青が知りたいのは、万一、誰かと対決した時に必ず勝てる方法だった。その誰か、とはひとりとは限らない。
「結局のところ、強いってのは賢いってことだ。まずケンカにならないようにする」
「でもケンカにならなきゃ、どっちが強いか、わからせてやれないじゃないか」
「わからせたい相手でもいるのか?」
群青は口ごもってしまう。
何かトラブルを抱えているようだと近江は察した。群青はこの四月から学校に行き始めた。待ちに待った学校だったが、どうも内地の子供とはうまくいっていないらしい。
近江は天日干しした石鹸を箱に詰め込みながら、
「なんだなんだ? 嫌がらせでもされたか」
「そ、そんなんじゃないよ」
「どっちが強いか、なんて、わからせたって良いことはないぞ。相手をびびらせて友達になれた例しはない。子分にしたいなら別だがな」
「わかってるよ。でも見下されるのは……いやだよ」
やはり学校で何かあったらしい。だが気安く相談するのは、群青のプライドが許さないのだろう。近江も深くは訊かず、
「……ま、俺と赤城みたいに拳を交えて初めて打ち解けることもあるからな。思いきって真っ正面からぶつかってみたらどうだ?」
大雑把なアドバイスをして、近江は石鹸を載せたリヤカーを引き、出かけていってしまった。
群青は憂鬱そうに玄関先で座り込んでしまう。
「そうは言われても……な」
きっかけは登校初日のことだった。
校舎はまだ仮のものだ。空襲で焼けた学校の跡地に建てられた小屋が、新しい学び舎だった。
担任教諭が生徒たちにひとりひとり自己紹介するよう求め、群青は自分が京城生まれの引揚者だと話したところ、空気が変わった。
元々この学校に通っていた地元の生徒には、疎開先で同じ釜の飯を食べてきた者もいて、結束が強い。よそ者の群青はさっそく目をつけられてしまったようだ。
はじめは遠巻きにされていたが、こちらを見てコソコソ何か話しては笑われているのがわかった。そのうちにゴミを投げられたり、足をひっかけられたり、ちょっかいを出されるようになった。生徒たちはこちらの反応を見てクスクスと笑っている。
感じが悪い。
たまりかねて「何か言いたいことでもあるのか」と肩を怒らせても、薄笑いで無視される。こちらが言い返さずに無視していると、今度は「ヒキアゲ」「臭い」などとはやしたてられるようになった。
――目障りなんだよ、ヒキアゲ。
――ヒキアゲは朝鮮に帰れ。
とまで言われて、すっかり気が滅入ってしまった。
登校しようと家を出たものの学校に足が向かず、角を曲がって、いつしか隅田川に向かって歩いている。次第に学校に通うのが馬鹿馬鹿しくなってきた。時間の無駄にも思えてきた。不愉快な思いをして学校通いに時間を割くくらいなら工場で石鹸作りに没頭していたい。かと言って、今から家に帰るわけにもいかず、途方にくれた。
「俺が何したってんだ」
引揚者が内地の人間によく思われていないことは知っていた。そうでなくとも食料不足・物資不足で国民全体が困窮しているのに、大陸から帰ってきた大量の引揚者はその少ない物資を奪うとして厄介者扱いされていることも。
「こっちだって好きで内地になんか来たわけじゃないや」
怒りを石に込めて川へ投げた。石は三回跳ねて川面に沈んだ。
京城の学校で机を並べた同級生の顔が浮かんだ。みんな、今頃どうしているだろう。引揚でちりぢりになって、今どこにいるかもわからない。友たちもそれぞれの地でこんな思いを味わっているのだろうか。
会いたい。京城のみんなに。
あの頃に戻りたい。
恋しさが募って、しゃがみこんで涙をこらえた。悔しくて惨めで、泣いた。
ふとリョウの顔が浮かんだ。……そうだ。リョウたちは何をしてるだろう。
自然と足は西に向いた。橋を渡って上野を目指した。
上野の駅前は今日もたくさんのひとで賑わっている。闇市もいつものように賑やかだったが、アメンボ団の姿が見当たらない。探しているとガード下からタケオがひょいと現れた。
「よう、群青。どうした、赤城の旦那のお使いか?」
タケオの顔を見て、ほっとした。同じ内地の人間でも、アメンボ団の孤児たちは群青たちと同じだ。仲間だ、との意識がある。
「あ、ああ……まあ、そんなとこ。リョウは?」
「今日はレイコ姉さんたちのお使いで秋葉原まで出かけてる。言伝なら取り次ぐぜ」
特に用があるわけでもない。心細くて顔を見に来た、とも言えず、急に恥ずかしくなってきた。「なら、また来るよ」と言い、そそくさと帰ろうとした時、タケオが不意に「うお」と声をあげて、群青の陰に隠れた。
「おい、なんだよいきなり」
「来てる。来てるんだよ、あそこに」
「なんだ。やばいやつか」
「りんごちゃんだよ」
タケオが指さした先には出店がある。店先には大小の竹かごが並んでいて、店番をしているのは珍しく若い娘だった。背がすらりと高く、お下げ髪の先に慎ましげな白いリボンをつけている。笑うとぷくっと頬が丸くなり、リスみたいだ、と群青は思った。
「あれが〝りんごちゃん〟?」
「かわいくないか? あの子」
「ああ……うん、かわいいんじゃない?」
「じゃない? じゃなくて、かわいい! だろ。みろ、あの笑顔。まるでお天道様だ」
タケオは見とれている。聞けば、週に一、二度、親子でやってきて竹製品の店を出しているという。絣のもんぺにお下げ髪、年の頃は十代半ばか。肌が白くて、寒い日には頬が赤くなる。タケオはその娘に一目惚れしてしまったのだ。
「赤いほっぺがリンゴみたいだろ。今日もいい笑顔だなあ。見てるとこっちが幸せになる。〝赤いリンゴに くちびる寄せて〟ぇぇぇ……」
と流行歌を口ずさむ。ラジオから聞こえてくる明るいメロディーにあの娘を重ねて、ひそかに「りんごちゃん」と呼ぶようになったらしい。
「話したいなら声かけてみれば」
「かけられるわけないだろ」
日本男児の端くれとして、気安く声をかけるのははばかられる、としかつめらしく言うが、実のところ年頃の見知らぬ娘にどう声をかけていいのか、わからなかったのだ。そもそもきっかけがない。
「きっかけなんて、なくてもいいじゃないか。売り物のことを聞けばいい。ほら」
「いいって。おい、ひっぱんな」
群青はお節介にもタケオの腕を引いて歩き出した。タケオは抵抗していたが、ずるずる引きずられて店の前に連れていかれてしまう。
「竹かご見せてもらってもいいですか」
群青が声をかけると、お下げ髪の娘は「どうぞ」とこたえる。頬がふっくらしていていかにも健康そうで、ガリガリに痩せた少年少女ばかり見ている目には、確かにまぶしく映った。
その〝りんごちゃん〟が「あら?」というようにこちらを見た。
「そこにいるのは……」
視線はタケオに向けられている。
タケオは「お、おう」とぎこちなく手などあげた。
「先日はありがとうございました。おかげさまで父の怪我も軽くてすみました」
ふたりは初対面ではないらしい。群青が置いてきぼりを食っていると、タケオは無愛想に群青を指さし、「こいつが竹かごを探してるっていうから」とまるで自分が連れてきたかのように格好つける。お下げ髪の娘は喜んで、
「祖母が家の裏に生えている竹で作ったものなんです。うちの竹は柔らかくて丈夫なんですよ。おすすめはこの……」
と商品の説明をしてくれる。聞いているタケオもまんざらでもない顔だ。ひととおり見せてもらい、「また来ます」と店を後にした。
娘の姿が見えないところまで来ると、タケオは顔を手で覆って身を震わせている。
「ああ、緊張したあ。りんごちゃんと話してしまった」
群青はあきれている。聞けば、数日前、彼女の父親が駅からの階段で転んでしまったところをタケオが助け、荷物を運んでやったという。
「知り合いだったなら、早くそう言えよ」
「知り合いじゃない。……大体、名前も知らないし」
「訊けばいいじゃないか」
「軽々しく訊けるか」
意地を張るタケオに群青はまたあきれ、
「挨拶がてらでいいんだよ。今日はいいお天気ですね、売り行きはどうですか、から始めて、さらっと自分から名乗れば向こうも名乗ってくれるよ」
「いいんだよ。そんなの」
タケオは顔を真っ赤にして、ふくれてしまった。
「見かけによらず、恥ずかしがり屋なんだなあ。タケオは……」
年頃の娘とまともに口をきいたこともないから、距離の縮め方もわからない。お近づきになろうなどと欲を出して失敗してしまうのを恐れている。嫌われて避けられてしまうくらいなら、遠くから見ているだけのほうがなんぼもいい、と思っている。
「……それに、こんな薄汚い浮浪児なんかに声かけられても嫌がられるだけだろうし」
意外な物言いだと群青は思った。アメンボ団の団員であることを誇りに思っているだろうタケオの口から、そんな言葉が出るとは。
「でも、気づいて話しかけてくれたじゃないか」
「あれはおまえが一緒にいたからだ。おまえはこぎれいにしてるから」
いや、群青だって着ている服はおんぼろで、ほとんど「着たきり雀」だし、身なりはお世辞にも「こぎれい」とは言えない。だが、路上暮らしのタケオの目にはそう映るのか。群青は返す言葉に迷った。
そこにリョウが帰ってきた。珍しく険しい顔をしている。声をかけると、
「……ああ、群青。きてたのか」
「どうしたんだ、リョウ。難しい顔して」
リョウは「やれやれ」とばかりに頭をかきながら、
「面倒なことになった。マムシが帰ってきた」
途端にタケオがヒュッと顔色を変えた。群青だけが状況を呑み込めない。
「ああ、群青は知らなかったよな。マムシってのは、俺たちと同じ、この界隈で路上暮らししてたやつのことなんだが」
年齢はリョウたちといくつも違わないが、タケオよりも体が大きく、見た目はまるで大人と変わらない。やたらと腕っぷしが強く、大勢の子分を引き連れていた。アメンボ団とはちがって盗みも恐喝も平気でやる。子分たちのアガリをせしめて自分専用に建てた小屋は「マムシの城」などと呼ばれて、上野界隈の子供だけでなく大人にも恐れられていた。
「本名は誰も知らない。でも、少し前に警察に挙げられて島送りにされたはずだった」
「島送り?」
「東京湾に浮かぶ島にあるっていう孤児院のことだ。周りが海だから絶対に脱走できないって噂で、そこに入れられるのを島送りって呼んでるのさ。本来なら感化院行きになるところなんだが」
感化院とは犯罪に手を染めた「不良孤児」が入れられる施設のことだ。
「……マムシは自分の手を汚さないし、ずる賢いから、子分にやらせてたって証拠もつかませなかったみたいで、感化院送りになる代わりに島送りになったらしい」
いわば、子供ギャングのボスだ。一味はマムシ団なんて呼ばれ、警察だけでなく闇市を仕切るパクたちにとっても看過できない集団だった。ヤクザたちもあの手この手でマムシを取り込もうとしていたようだが、そうこうするうちに島送りにされてしまった。
さすがのマムシも二度と帰ってくることはないだろう、とリョウたちも安心しきっていたのだが。
「それが帰ってきたのか」
「脱獄だ。泳いだのか、ボートでも奪ったのか。……とにかく、ありえないやつだ」
暴君の帰還で子分たちは大騒ぎになっている。喜ぶ、というよりも「またあの恐ろしいやつが帰ってきた」と震えあがっている。
「俺たちはなるべく関わらないようにしてたが、それでも時々ちょっかい出してきやがって、子分になるよう脅されたのも一度や二度じゃなかった」
「よく断れたな。そんなやばいやつ相手に」
「そりゃあ、しつこかったさ。とうとう力ずくで来やがったからケンカ沙汰にもなった。返り討ちにしてやったけど」
な? と同意を求めると、タケオは誇らしげにうなずいた。
「リョウは強いんだぜ。マムシ団の連中、何人もギッタギタにして、仲間には指一本触れさせなかった。何度かケンカ沙汰になりかけたが、そのたんびに撃退して、しまいにゃ〝上野の狂犬〟なんて異名がついたんだよな」
「よせよ。そういうおまえも〝土佐犬〟なんて呼ばれてたくせに」
まだ群青と出会う前の話だ。群青はあぜんとしてしまった。
「おまえたち、そんなに強いのか。ケンカ」
「やるときゃやるってだけさ。……とはいえ、マムシ本人とやりあったわけじゃないからなぁ」
直接やりあったら、さすがのリョウたちも勝てるかどうか、わからない。それくらいマムシの強さは図抜けているという。
マムシがいなくなったおかげで子供ギャングは求心力を失い、盗みを働く者はいても徒党を組んで集団犯罪に及ぶ子供は少なくなった。主だったメンツは感化院送りになったせいもある。おかげで上野界隈はすっかり平和(とは言い切れないが)になっていたのだが……。
「また荒れるかもな……。とにかく、復活したマムシ団がうちのやつらにちょっかい出してこないよう、用心しとかないと」
群青の周りもリョウの周りも、なんだかざわざわしている。
上野の山の桜が咲いても、穏やかな春とはいかないようだ。
*
「へえ……、リョウさんってそんなを持ってたの? びっくりね」
帰宅してその話を佳世子にしたら、佳世子は意外そうな顔をした。群青はとりこんだ洗濯物を畳みながら「ほんとびっくりだよ」と感慨を述べた。
「タケオはわかるけど、リョウのやつ、俺より細っこい体して〝狂犬〟だからな……。やばいなんてもんじゃないよ。あいつだけは怒らせないようにしないと」
タケオによると、リョウは激怒すると目の色が変わる。どこにそんな凶暴さを秘めていたのか、と思うほどらしい。特に嚙みつき攻撃が強烈で、気がつくと口の周りを真っ赤にしていて、相手は血まみれになっているというから、凄まじい。一度キレると手がつけられず、度胸とは別の何かが発動するという。
「グンちゃんたら、リョウさんが怖くなっちゃった?」
別に怖かないよ、と群青はうそぶく。あの上野で仲間を守って生きていくには、それくらいでないと務まらないのだ、きっと。
佳世子は……、といえば、怖がるどころか、目を輝かせている。
「さすがリョウさん。かっこいい」
「かっこよくなんかあるもんか。狂犬だぞ」
「狂犬でもいいじゃない。私、向こう見ずなひと好き」
こまっしゃくれたことを言う。男はやっぱり腕っぷしなのだろうか、と群青は考え込んでしまう。
「でもグンちゃんはケンカなんかしちゃだめ」
「リョウはよくて俺はだめなのかよ」
「怪我するでしょ。グンちゃんはおとなしく、うちで石鹸作ってればいいの」
なんだか釈然としない物言いだ。そこへ「石鹸小屋」と呼んでいる作業場にこもっていた赤城が戻ってきた。まだ昼前だったのに群青がいたので驚き、
「もう帰ってたのか。学校の授業は」
群青は適当にごまかした。石鹸製造のほうはまだまだ試行錯誤中だ。これから新しい釜に火を入れる、と聞いて、群青はいてもたってもいられなくなった。
「釜は俺が見てるよ。あんちゃんは飯食ってな!」
というと、畳みかけの洗濯物もほったらかしにしてすっ飛んでいってしまう。やれやれ、と赤城は肩をすくめた。
「あの目の輝きっぷりときたら……。すっかり石鹸に夢中だな」
「グンちゃんはあれでいいの。ケンカよりもね」
佳世子はにっこりと笑った。
一度石鹸小屋にこもった群青は、寝るまで出てこない。没頭しきって夕飯だからと呼んでも食事を石鹸小屋に持ち込んでしまう始末だ。のめりこみ方が半端ではなかった。
手探りの挑戦だから、まだまだ失敗作になることも多いが、データを細かくとって成功例を重ね、再現度をあげていく。教えてくれる人もいないから自分で試行錯誤するしかないのだ。
夜遅くなっても戻ってこないから赤城が石鹸小屋に様子を見に行くと、机がわりの木箱に突っ伏して寝落ちしている。
「おい起きろ、群青。こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
寝ぼけている群青を赤城がおんぶして母屋に戻る。やれやれ、と思って夜空を見上げると狙い澄ましたようなタイミングで、星が一筋、航跡を描いて低い空を横切った。
「流れ星だ。見たか? 群青」
声をかけると、背負われた群青はまた寝息を立てている。
赤城は苦笑いだ。
「……まったく。どんな夢を見てるのやら」
広い背中に体を預けて、群青は安心しきっている。
子供のような顔をしている。
*
やはり時間が勿体ない。学校に行くのはやめて、石鹸作りに専念しよう。
群青はついに結論を下した。学校に行くふりをして物陰に隠れ、赤城と近江が出かけるのを見計らい、作業場に忍びこむと、さっそく石鹸作り開始だ。
考えてみれば学校の勉強よりも今はやらねばならないことがある。一日も早く商品を完成させて売りに出すのだ。四人で食べていくためだ。石鹸を売ると決めたのだ。学校で不愉快な思いをしながら時間を無駄にするよりも、今は石鹸だ。石鹸製造を軌道に乗せるのが最優先だ。それが俺の使命なのだ。
そう自分に言い聞かせ、ひとり、石鹸小屋で作業に没頭していると、珍しく客がやってきた。リヤカーを引いている。
「タケオじゃないか」
荷運びの途中で立ち寄ったタケオは、興味津々で、試作中の石鹸を覗き込んできた。
「すげえなあ。石鹸って自分で作れるんだな」
「まだまだ完璧とは言えないけど、いくつかはもう闇市で売った」
「いいのかよ。つかまるぞ」
「闇市じゃどぶろくだって売ってる。見つかったら、ずらかればいいのさ。それより何か用か?」
タケオが小さな包みを差し出した。
中に入っていたのは、飴だ。霧島の工場で作っている飴だった。
「今日の駄賃、現物支給にしてもらった。これをりんごちゃんに、と思って」
お、と群青はつぶやき、にやにやした。あんなに意地を張っていたくせに、急に積極的になったもんだな、と思っていたら、
「おまえに頼みがある。これを俺の代わりにりんごちゃんに渡してほしいんだ!」
「は? なに言ってんだ。それじゃ意味ないだろ。自分で渡せよ」
「いいんだ。俺はあの子に甘い飴を食べて笑顔になってほしいだけだから。おまえが渡せばきっと受け取ってもらえる。頼むよ、群青」
しかし群青が渡したのでは勘違いさせかねない。ややこしいことになるのはごめんだ、としばし押し問答になったが、タケオはどうしても自分の手からは渡したくないという。浮浪児の自分があげるものなんて怪しくて口に入れられないだろうし、もし冷たく突き返されたりしたら、と思うと怖くてとても渡せないのだと。
仕方なく群青は引き受けた。ただし、タケオの直筆の手紙を添えることを条件にした。
数日後、群青は再び上野を訪れた。
竹かご屋は毎週火曜と金曜に店を出すという。
「いた」
物陰に隠れて様子を窺う。竹かご屋の娘は今日は紺絣のもんぺを穿いていた。
タケオに背中を押されて群青は店に向かった。娘は群青の顔を覚えていたらしい。あら、という顔をして「いらっしゃい」と迎えてくれた。
「決まりました? どのかごにします?」
これ、と群青は飴の袋を差し出した。
「こないだ一緒だったやつから頼まれた。君に渡してくれと」
私に? と娘は首をかしげている。そこに買い物客が連れだってやってきた。群青は娘に袋を押しつけると「渡したから」と言い、きびすを返して走り去った。物陰から固唾をのんで様子を窺っていたタケオが、群青の服を引っ張って、
「ちゃんと受け取ってくれたか?」
「ああ、渡したよ。おまえからだって言っといたし、手紙も入ってるからわかるはずだ」
タケオは高鳴る鼓動を抑えきれない。飴を食べてくれるところまで見届けようとなおも物陰から熱い視線を送っていたが、突然、背後からタケオを呼ぶ声があがった。振り向くと、アメンボ団の少年が血相を変えて走ってくるところだった。
「たた大変だ、タケオのアニキ!」
「どうしたカンキチ」
リョウが!
とカンキチは肩であえぎながら叫んだ。
「リョウがマムシの根城に連れてかれちまった!」
なんだと! とタケオが怒鳴った。群青はタケオを見、
「マムシって……例の島から脱獄してきたっていう、あのマムシのことかい?」
カンキチによると、リョウたちが寝起きする地下道の一角にマムシの子分たちが突然押しかけてきて、アメンボ団の子供たちを追い払おうとしたという。知らせを聞きつけて飛んできたリョウは、マムシ団を追い返そうとしたが、いきなり頭から麻布をかぶせられて縄で縛り上げられ、そのまま連れていかれてしまったというのだ。
「それって、はじめからリョウを狙ってたってことじゃないか」
群青とタケオは、ただならぬ状況にいてもたってもいられなくなった。
すぐに助けに行かなければ。
「案内しろ、カンキチ!」
言い終わらぬうちに走り出し、雑踏をかきわけてマムシの根城に向かった。
*
頭から麻袋をかぶらせれたリョウが、マムシの子分たちに連れていかれた先は、駅から少し離れたところにあるバラック街の一角だった。
あたりはまだ空襲の痕跡も生々しく、焼けて崩れた塀の残骸が目につく。「島抜け」したマムシと呼ばれる少年は、掘っ立て小屋のひとつに潜伏していた。床もなく、地面に筵を敷いただけの粗末な小屋だ。
麻袋を外されたリョウはトタンを立てかけただけの壁の隙間から中に引っ張り込まれた。子分のひとりが奥のほうに声をかけると、暗がりから大きな影が、むくり、と起き上がった。
「よう、久しぶりだな。アメンボの」
木箱に腰掛けた少年は、ボロボロの衣服を身にまとい、靴も履いていない。ほころんだ裾からは汚れた手足が覗いている。体はそのへんの大人よりもがっしりしていて、手足も大きく、伸ばし放題の前髪の奥の目は眼光鋭い。汚れて黒ずんだ顔に白目部分だけがやけに浮いていて、闇の中で不気味なくらいギラギラしている。
右手にはしなびたリンゴを摑んでいる。
リョウは怖じ気づくこともなく、
「本当に帰ってきてたんだな。上野に」
マムシはこたえるかわりにリンゴに嚙みついた。
「ずいぶんあっさり捕まっちまったもんだな。ノガミの狂犬ともあろうもんが」
「捕まったんじゃない。捕まえられてやったんだ」
へえ、とマムシはもう一口、リンゴに嚙みつき、
「自分から捕まったってのか。なんのために」
「話をつけにきた」
リョウは涼しいまなざしでマムシを眺め、
「俺の仲間に手を出すな。次は容赦しない」
「そうかい。実は、俺もおまえに話があったんだよ」
マムシは口の中のリンゴをまずそうに咀嚼して、
「サシで話がしたかったから、わざわざお招きしたってわけだ」
「お呼び立てしてくれてありがとうよ。俺の仲間に手ぇあげやがったやつ、二、三発殴らせろ」
「そりゃ仕方ねぇ。丁重にお願いすれば挨拶にくるってタマでもねえだろう」
マムシはリョウの性分もわかっている。リョウはますます冷たい半眼になって、
「なんだ。話って」
「久しぶりに帰ってきたはいいが、使える子分がみんな施設送りにされちまってよ。抜けた分を増やそうって寸法だ。おまえ、俺の子分になれ」
はあ? とリョウは目を剥いた。
「なんで俺が。なるわけねえだろ」
「俺の子分になれば、おまえんとこのガキもまとめて面倒みてやるぞ。そうすりゃ小遣い稼ぎなんかせずとも食えるようになる」
お断りだね、と即答する。
「俺たちは盗みも恐喝もしねえ。おまえらの片棒なんか誰が担ぐか」
「やせ我慢するなよ、アメンボの。おまえの噂は聞いてる。俺の側近にしてやる。そうなりゃ子分どものアガリでたらふく食えるし、こいつら顎で使って、面白おかしく暮らせるぜ」
と子分たちを指さす。マムシの体格が人よりいいのは、子分たちの稼ぎで腹一杯食べてこられたからだ。島流しで幾分やつれはしたものの、それでも成長期にしっかり栄養をつけてこられた者の体付きをしている。戦災孤児とは思えないほど血色もよく肩も腕も隆々としているのは、子分から搾取してきた成果といえた。
「俺に逆らわねえほうがいいぞ。俺は上野の天皇だからな。逆らったら最後、この上野にはいられなくしてやる」
マムシの不敬極まりない物言いにリョウはサッと青ざめた。
「言って良いことと悪いことがある。誰が天皇陛下だって?」
「いいじゃねえか。本物の天皇だって人間宣言したんだ。同じ人間であるこの俺が、天皇を名乗っちゃいけねえ理由はねえ」
これがほんの一年前だったら、不敬発言で憲兵に一発で連れていかれるところだ。リョウは怒るどころか、心底情けなくなってきた。
「こんなゴロツキが天皇陛下を名乗るなんて、大日本帝国も地に堕ちたもんだな」
「おいおい、そんな国はもうこの世界のどこにもねえ。ここはなあ、食うに食えない奴らが溢れる、ただのみすぼらしい三等国ニッポンなんだよ」
マムシは世情に通じている。闇市をうろついていれば事情通の話も耳にする。戦時中には口にできなかったあけすけな本音や揶揄を放言して憂さ晴らしする大人は珍しくもなかったし、ましてマムシには自分をこんなふうにさせた者たちへの恨みもある。自称天皇が雨後の竹の子のよう湧いて出た時世でもある。物言いが変に大人びているのは、箍がはずれて溢れだした有象無象の本音に揉まれたせいでもあった。
「こんな薄汚い小屋が皇居だっていうのか。はは、冗談も休み休み言え。てめえのそのナリ見てから物言えよ」
すると、マムシがいきなり立ち上がった。大きな図体で前に立たれると、威圧感がある。リョウは一瞬、呑まれかけた。
「口の減らねえガキだな。いいから俺の子分になれよ。そうでないと」
と大きな手でリョウの顎をわしづかみにした。
「このきれいな顔、ふた目と見られないようにしてやるぞ」
リョウは怯えるどころか、不敵に笑った。
「やれるもんならやってみろ。この狂犬の歯でてめえのキンタマ両方食いちぎってやる」
途端にマムシが顎をつかんだままリョウの体を振り回し、地べたにたたきつけた。あまりの強さに息が止まった。筵にへばりついたままリョウがにらみ返すと、マムシはその髪をつかみ、覆い被さるようにして耳元に囁いた。
「知ってんだぞ。おまえが……――だってこと」
リョウは息を呑んだ。
マムシは、にやり、と笑い、
「……一週間後だ。俺とステゴロで勝負しろ。おまえが勝ったら二度と仲間に手は出さねえ。だが俺が勝ったら、おまえは子分だ。アメンボ団はマムシ団の下につく。俺の小姓にして身の回りの世話をさせてやる」
「決闘か」
「逃げたら、おまえの正体を上野中に言いふらす」
と脅し、リョウを放した。マムシはしなびたリンゴをかじり、小屋から出ていこうとしたが、ふと何かを思い出して、
「ああ、加勢をつけてもいいぜ。……但し、俺がそいつらもぶちのめしたら、全員俺の下僕な」
言い残し、食い終えたリンゴを投げ捨てて、出ていってしまった。
這いつくばったリョウの目の前に、食い尽くされたリンゴの芯が転がっている。
リョウは青くなっている。
まずいことになった……。
*
「リョウ、大丈夫か! 怪我はないか」
マムシの小屋に駆けつけた群青たちは、その近くで座り込んでいるリョウを見つけた。
群青が心配そうに覗き込み「何もされなかったか」と尋ねた。幸い、頬に筵で擦れた痕がついただけで、目立った怪我はない。タケオが怒りをあらわにし、
「マムシのやつ、なんのつもりだ。ふざけやがって」
「そいつと何を話したんだ、リョウ」
顔をあげたリョウが何か言いかけたが、口ごもって呑み込んでしまう。すぐに取り繕って、
「大したことじゃねえよ。アメンボ団に手ぇだすなって釘差してきただけだ」
本当にそれだけか? と問うと、「ああ」といつもの笑顔を返す。
「心配かけて悪かったな。帰って、シホコたちを早く安心させないと」
駅に向けて歩き出す。だが群青はリョウの異変に気づいている。様子がおかしい。暴力沙汰にはならなかったようだが、あのマムシと一体なにを話したんだ?
聞き出すことができないまま、二日が過ぎた。
リョウを気にかける群青は買い出しついでに上野にまで足を延ばした。いつもの地下道でシホコが留守番をしていたので声をかけたところ、
「リョウちゃん、この間からずっと怖い顔してるの」
マムシのもとから帰ってきてからだという。眉間にしわを寄せて、真剣な顔つきでずっと考え事をしている。やはり何か無理難題でもふっかけられたにちがいない、と群青は思った。
「困ってるなら相談してくれればいいのに。水くさいよ、リョウのやつ」
すると、そこへ――。
「タケオさん? そこにいるのアメンボ団のタケオさんよね」
後ろから聞き覚えのある娘の声が聞こえた。振り返ると、階段のほうからお下げ髪の少女がこちらに近づいてくる。群青は思わず周りを見回した。タケオはいないが?
「よかった、会えて。この間は美味しい飴をありがとうございました」
竹かご屋の娘だった。タケオが「りんごちゃん」と呼んでいる。
群青はとりあえず「どういたしまして」と頭を下げた。
「子供たちに分けてあげたら大喜びしてました。……これ、御礼です。召し上がって」
差し出された袋に入っていたのは、蒸したてのさつま芋だった。
「タケオさん、て呼んでいいかしら。私の名前は敦子といいます。しばらく父の代わりに店番してますので、またいつでも遊びにいらしてくださいね」
頬をほんのり染めて、恥ずかしそうに改札口に向かっていく。
シホコは首をかしげ、
「グン兄ちゃんのこと、タケオ兄ちゃんだって……。変なお姉さんだね」
これは困った。勘違いされている。
敦子は群青のことを「タケオ」だと思い込んでいる。
まずい。タケオの恋がかかわっているだけに、面倒くさいことになる前に早く誤解を解かないと、と思った群青は、芋をシホコに預けて後を追いかけた。が、敦子は人混みにまぎれてしまい、もう姿が見えない。改札に向かったから電車に乗ってしまったか。
そこに声をかけてきたのは当のタケオだった。
「え! りんごちゃんが来た? わざわざ俺に礼を言いに?」
「ああ、そうなんだけど、おまえにというか」
経緯を伝えようとしたが、タケオは舞い上がってしまって話を聞いていない。
「よし、りんごちゃんに名前を覚えてもらったぞ。次に会ったら今度こそ話しかけてみるんだ」
遠くから見るだけで……、なんて言っていたくせに、急に前のめりになっている。息巻くタケオに群青はますます困惑してしまったが、そのタケオの口元が青黒く腫れ上がっていることに気がついた。
「ああ、これか? さっき、高架んとこでマムシの子分と鉢合わせてよ、小競り合いになっちまって」
多少のケンカ傷は勲章とばかりに、タケオは鼻をこすって胸を張った。
「けどサンピンばっかりだったぜ。強い子分はみんな施設送りにされちまったせいだな。マムシの子分も恐るるに足りねえや」
と勝ち誇っている。群青の脳裏にリョウのことがよぎった。タケオに言うと、
「リョウが塞ぎ込んでる? はは、また食い物にでもあたったんだろ」
まるで気にかけていない。が、群青は悪い予感がしてならない。困っていることがあるならなんでも相談してくれるよう、リョウへの言伝を頼んだ。
群青が帰ってしばらくして、入れ違いにリョウが地下道に戻ってきた。タケオから群青の言伝を聞くと、一瞬、顔を曇らせた。が、すぐに、
「困ってることなんかねえよ。あいつは心配性だからなあ」
笑い飛ばしたが、内心は、群青の眼力に舌を巻いている。
実を言えば、先日からリョウはずっと迷っていた。決闘のこと、打ち明けるべきか、どうか。
マムシの腕っぷしがその辺の孤児たちとは別格であることは、あのとき、身をもって知った。それは動物的な本能といえた。自分よりも強い生き物を見抜く力がなければ、野生動物は生き残れない。リョウはまさにその境地で生きている。
マムシに勝てるのか? と言われれば、正直、勝算はない。
タケオとふたりがかりでも勝てる気がしない。三人でならもしかしたら……、とは思うが、やはり群青は巻き込むべきではないと自分に言い聞かせた。群青は自分たちとはちがう。赤城という保護者もいるし、家もある「カタギ」だとリョウは思っている。うかつに相談なんかして群青が助太刀など思い立とうものなら、群青まで叩きのめされてマムシの子分にさせられてしまう。
やはり、決闘はサシでやるしかない。
リョウは心を固めた。
群青だけじゃない。タケオも――アメンボ団全員、巻き込めない。
――おまえの正体、言いふらすぞ。
逃げるわけにもいかない。リョウは決意した。
サシなら、たとえ負けてもマムシの子分になるのは自分ひとりで済む。
いいや、あんな卑劣なやつには絶対に負けない。
絶対に屈しない。
【つづく】