またセルフTogetterです。7日から一週間ほど、集中的にアート関連のtweetをしたので、抜粋の上まとめておきます。(※参照)はここで追記。
3月7日
本来は(いい意味での)アート未満のものやことが、アートとして位置付けられたとたんにつまらなく見えてくる現象に何か名前をつけたい。
絵画は自明なものではないと判った時には、既に何かがインストールされてしまっている。だから、絵画へのとっかかりをどう作るかで呻吟している人々がいる。しかし今や「絵画」だけでなく、「アート」(近・現代美術)も自明ではなくなったと言えるのではないだろうか。
とすれば、既にインストールされているものにどう対処するかが、問題となるのではないだろうか。それが、「前衛の再設定」となるのが私にはやはりよくわからない。「再設定」において、アートの自明性を問うということなら理解できる。でもそういう話はほとんどなかったように思う。
(※参照:美術をインストールされた受動体としての作家/梅津庸一「未遂の花粉」とシンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」感想 - Ohnoblog2)
そこで、ここではアートの自明性は問われてなかったのではないか?(アートの進化的未来が信じられている)ということを書くと、反発が来る。何言ってんだそんなのはとっくに織り込み済みの話で‥‥とはならないのね。
(※参照:未遂の花粉関連シンポジウム「前衛、近代、コミュニティの再設定」中村史子、土屋誠一、筒井宏樹、松浦寿夫、黒瀬陽平、梅津庸一 - Togetterまとめ)
「アート未満」(いい意味で)は重要な概念。私の行ってる地方の私大では学生見ててもアート未満が多い。それとメンタル病んでる人が増えた。休学に退学。そんな中でアートが最後の受け皿になっている感じはある。もうこの皿取ったらどうしようもないという。そういう「よすが」として機能している。
あと、近代より前に日本にあったものは皆「アート未満」なのだから、そこにゆっくり回帰するというのは一つのあり方かもしれないと思う。工芸もデザインも絵画も未分化の渾沌状態。そういう状態への積極的な「再設定」、その中で一番過激なことは何かを考えてみる。ってこれももう誰かが言ってそう。
「学生たちがアートという言葉で前提にしているものが食い違う。アートが呪いの言葉のようです」と先生が仰ったのを受けて、先日某大学院大学でレクチャーをしたのだが、「アート」とか「アーティスト」という言葉(「作品」も)を一旦忘れていいんじゃないかという話をした。
で、どういう言い方をするかというと、「ものを作る人」「物語を作る人」「場を作る人」「関係を作る人」。もちろん兼ねる場合もある。こうするとアートだけでなく幅広いジャンル、職業の人がそこに入ってくる。絵画を描いていて「場を作る人」を自称する場合もあるかもしれない。これって良くない?
学生のプレゼンと講評にも立ち会った。映像、音、パフォーマンスなど。美大出身でない学生が半分以上かな。その中で「作品」という言葉を無理して使ってるのが気になった。それは「作品」てより「研究発表」でいいんじゃないかと言った。多少なりとも”憑き物”が落とせたみたいです。
3月8日
あれから美術の「前衛」について考えている。連続tweetになります。
前衛は、「敵」と「友」を明確にする。少なくとも「敵」を設定しない前衛はない。これまでだと「敵」は制度と市場だった。それを支えている近代の機構、民主主義社会(政治)や資本主義経済(生活)も射程に入ってくる。
制度の外のオルタナティブな試みは現在、制度自体の弱体化でどうなるのかという話はあった。もちろん受け皿としての機能はあると思うが、美大を経由しないアーティストも既にいる。そして学校制度を回避しても、美術館展示で制度へと回収される道筋はまだ残っている。
前衛美術家による展示が「ゴミ裁判」へと展開した歴史的事実は、美術館によってスルーされた。ここで美術館は「前衛」をなかったことにした。http://artscape.jp/report/review/10095359_1735.html この批判は重要。
市場に対しては商業ギャラリーを介さないことを初め、売れる(簡単に所有できる)かたちの作品にしないなどいろいろな抵抗の仕方はある。しかし実際問題、じゃあどうやって食ってくのよ、絵の具代も交通費もいるし‥‥となって、自治体支援も望めないとなるとパトロンが必要になる。
理解ある金持ち。でなければ、クラウドファンディング。後者は理解ある大衆の存在を頼みとするので、前衛にとってはなかなか難しい。前者になると思う。
とすると、もっと階層差が開き、酔狂な金持ちがアートに金使うしかないようにもってくしかない。底辺の芸術家を金持ちが支援するという図。でもただの成金じゃ知性も教養もないから無理。
つまり階級社会の復活しかない。前近代。って勢いで書いた。良いか悪いかの価値判断は置いといて。そんでものすごい教養をもった富裕層が徐々に形成されるのを待つ。しかし階級社会をぶっ壊すぞという前衛が出てくる。絶対でてくるな。堂々巡り。
とても雑なことを書いているのかもしれない。でも私は真面目です。
前衛が機能しなくなったのは「敵」が捉えづらくなったからだ。「敵」と「友」、「敵」と自分の区別が難しくなった。だからつきつめると(アート内の)自己破壊になる。今の前衛は何を壊したいのだろうか。誰か教えて。
やっと読了しました。梅津庸一×蔵屋美香×黒瀬陽平×齋藤恵汰「今、日本現代美術に何が起こっているのか」[実況] - Togetterまとめ
「新しい公共圏」というのは、自前の学校とか画廊とかを含めたアートのオルタナティブな活動、つまり「アートのインフラをめぐる新しい公共圏」ということのよう。そこだけで回していくのはもちろん不可能で、一方に公共圏(学校制度と美術館制度)があった上でアンチとして成立する空間。
アーティストとして搾取されずに生きていくための自助努力ということでいいのかな。村上隆も個人的な規模でやっているやつですね。それが徹底されていったらこうなるのでは?ということは、『アート・ヒステリー』の中の村上隆論に書いたわそう言えば。
つまり藝大を初めとする学校はすべて解体され、視覚文化を中心としたあらゆるジャンルのカルチャースクールになり、近美を初めとする美術館も解体されて海外も含めた民間に売られ、芸術関係に割かれていた予算は復興や福祉に回されて、既得権益を貪っていた層は駆逐されるという未来予想図です。
資本主義社会のアートの存在様式をつきつめていったら、それが「正しい」姿になるのではないかと書いた。
3.11以後、「美術館に入りたがる(作品がコレクションされることを望む)」アーティストが増えたという話が興味深かった。自分のスタジオやコレクターの家やギャラリーなどよりは、災害で作品が失われる可能性が低いし何十年も残る。それは美術史に登録されたいという欲望でもあるのだろう。
「新しい公共圏」でも美術館を作るのは大変だから、やはり既成の美術館が変わってくれることを望むということらしい。そしていつかそこに登録されることも。
確かに新たな価値を創造し、それを後世に残していくべきだというのはある。それは何だろう。作品なのか方法論なのか何らかの技術なのか言説なのか。そのすべてなのか。アーカイヴはあった方がいいとは思うけど。
「美術館制度も学校制度も、最初から存在しないかのように振る舞う」ということは、ないのだろうか。もしあるとすれば、近代以降のアーティストの像は根本的に書き換えられるだろう。アーティストという名もなくなるような地点。その位相について考える。
「新しい公共圏」については何となく掴めたが、そこで目指される新しい価値って何なんだろう。それはアートと関係ない人々も幸せにするもの?‥‥とか、また素朴なことを書くけども。
美術館、予算も厳しいだろうが、いずれ収蔵スペースがないということにならないか。増え続ける作品と限られた空間問題。でも「空間を支配する者が一番強い」というのは20世紀で終わりになったはず。今は時間を支配する者、時間泥棒が一番強い。たとえばどんだけネットで時間喰われてんだという‥‥。
領土の拡大=空間支配だから、もうそれは古いのよ。とすると、増やすのではなく減らす方向、あるいはリサイクルする方向しかない。モノに関しては。
そして新しいモノもできるだけコンパクトな形にする。物量にびっくりするってのは20世紀的な感性。そこで残るのは物質性になるのかな。
昔インスタレーション作品作っていた時、なんかまどろっこしくて、もっとコンパクトな本みたいな形態にならないかと思ってた。ただどうしても気になるのは物質性だった。それは結構フェチな感覚と直結していた。物を所有したい感覚とも似ている。それを切断しようと映像に行ってそこでやめたのだった。
3月9日
「インサイド」に回収されない前衛を夢見ることが、アートに取り憑いた業のようにも思える。それは何かを先送りしている。
独立したオルタナティブを作り上げるだけでなく、制度の中にもウィルスのように浸食するように入り込んでいくという戦略なのだろうか。
乗っ取り作戦。ミイラ取りがミイラになることもある。
乗っ取りなんて無理ですよね。乗り物じゃないんだから。制度が弱体化していると言われるが、意外としぶといのかも。
3月11日
長さがあって古くなっていて詰まり気味だったトイレの配管を昨日取り替え工事したので、紙を心置きなく流せるようになってストレスが解消された。生活のインフラは問題が生じてからその必要性を実感する。
アートのオルタナティブとか新しい公共性とか言われているのも、そういうことなんだろうか。
既成の配管はもうボロボロで詰まりに詰まってどうしようもないが、地中深く埋まっていて取り替えるのも大変なので、横から新しい管を取り付けて、そっちで流そうという。そのほうがストレスなくてスムーズだと。
だとしたらその配管もいずれは古くなって取り替え時がやってくる。そして配管だらけになる。そのうちトイレ本体が壊れる。
トイレなんかあるからこういうことになるんだよ、野グソでいいじゃんという人もいるだろう。アートは野グソみたいなものだった。迷惑だと文句言われたら、土を掘ってそこらに埋める。そのうちいい堆肥になって、おいしい野菜がとれたりする。
アート有機農法。
おいしくて安全な野菜を作っている人は、それがアートだとは言わない。
◯◯関係者による◯◯界に向けた◯◯界の幸福と未来に関する言説。それが配管。
トイレの配管は、台所排水やお風呂排水の管と合流してやがて浄化される。野グソは浄化されない。
とは言え、部屋には浄化されたものも野グソも飾ってあるな。
野グソ野グソとすみませんでした。
3月13日
「先験的廃業」という言葉が、アーティストのKさんにヒットしていた。
(※参照:海上宏美×千坂恭二×岸井大輔「21世紀にアーティストと名乗る人は根本的に何かが腐っているのではないか」- Togetterまとめ)
「なぜアートが終わってるという話にならないのか」と海上さんは言っていたが、個人的にはそういう話を聞いたりする。個人レベルで呟いているが、あまり堂々と言わないだけみたいな感じがある。
3月14日
社会的に意義のある活動、貧困で教育的機会に恵まれない国の子どもに継続的に学資支援するとか、マイナーだが重要な文化活動を金銭的に支援するとか、災害地に寄付するとか、えん罪を訴える活動への署名とか募金とか、これまで微力ながらいくつか関わったけど、そこに芸術の名を冠するものはなかった。
最近、芸術の名のもとにそうした活動も行われるようになった。それはこれまでの社会的な活動が低下しているということなのだろうか。それとも芸術が「新たな活動領域」を見出したということなのだろうか。
その活動の結果は社会のためになると同時に、「芸術のためにもなる」ということなのだろうか。
すべてが「延命」の時代。すべてが「先験的廃業」に直面してる。