数日前にTwitterで見た一枚の写真が、頭から離れない。
RT@lostdope: 孤児院にて、イラク人芸術家によって撮影された写真。戦争で母を失い、寂しさのあまり母の姿を地面に描き、その中で眠りに落ちた女の子。。
— KO_SLANG (@KO_SLANG) 2016年10月13日
胸が切り裂かれる思いです。 pic.twitter.com/wPg2BBbGhR
https://twitter.com/KO_SLANG/status/786360298617700353
地面に簡素な線で描かれた形は、この女の子にとっては“母そのもの”なのだろう。脱いだ靴がそのことを物語る。膝を抱えて眠る女の子は、再び母の体内に還ろうとする胎児のようだ。
「もう一度お母さんの懐に抱かれたい」という子どもの思いが、こんなに痛々しく伝わってくる光景を私は知らない。
このtweetを見てRTした二日前に、あいちトリエンナーレで展示されている大巻伸嗣のインスタレーション作品《Echoes Infinity―永遠と一瞬》の上を歩いたことを、ブログに書いていた。
花を踏む
自分の写り込んだ写真しかなくてすみません。
一方は、戦争で母を失った女の子が自分のために描いた絵。もう一方は、不特定多数に向けて発表されたアーティストの作品。どちらも地面(床)に象られた絵であり、人がその中に入って完結する。そういう意味では同じだ。
だがここに感じる落差は何だろう。いやそれは落差ではなく、本当は共通するような何かがあるのか。
地面の絵とその中に眠る女の子は、この光景を発見し胸を打たれ、それをもっとも効果的なアングルで撮影したイラクの芸術家によって、一つの作品となった。比較するのであれば、この写真と大巻作品を比べねばならないのかもしれない。
だがそうすると、現実をそのまま切り取ったドキュメントと、抽象化を施したアート作品の比較となり、「戦争を撮った写真と戦争を描いた絵とどっちがインパクトがあるのか。写真ではないか。いや絵の方に訴えるものがある」的な話になるので避けたい。写真であれ絵であれ、訴求力は個々の作品によるとしか言えない。
地面(床)に描かれた二つの絵。単純に比較できるものではないことは承知の上で、考えてみる。
・素材と手法
イラクの女の子の絵の材料は、そこらへんに転がっている白いチョーク。大巻作品はアーティストが世界中を旅して集めてきた、総重量1トンにもなる色とりどりの鉱物の粉末。
女の子の絵は一本の簡素な線で描かれ、大巻作品はさまざまな文様がステンシルの方法で手間ひまかけて作られている。
・形式(状態)
女の子の絵は、他人が踏み込んではならない“聖域”だ。勝手にその絵を踏んだり消したりすることは、再び女の子から母親を奪うのに等しいだろう。この絵が女の子にとって過去のものになるのは、母の死を乗り越えられた時だけだと思われる。それにどれだけの時間がかかるのか、私には想像がつかない。
大巻作品は文様の緻密な美しさとスケール感によって、冒してはならない“聖域感”を醸しており、作品である以上、作家の許可があるまでは踏み込めない。ただ観客が絵を踏む行為は、あらかじめ想定されている。つまり時間の経過を観客に意識させるための計画がある。そして作品は会期が終われば撤去される。
・動機
女の子の絵は、「母親の死」という幼い子どもにとっての最大の惨事が動機となっている。
大巻作品については、アーティスト本人の言葉を引こう。
「[‥‥]自分を見つめ直すために始めた作品で、文様や花が描かれた空間を意識的に踏みしめた軌跡によって、“今”という時間を再認識して未来に向かえるんじゃないかと。個から始まる木霊だったので《Echo》というタイトルにしたんです。その後、2005年に《Echoes-Infinity》と複数形にして世界各国で展開してきました。その過程でまたいろいろな思いを抱えていたんですが、東日本大震災が起こって、考えてきたことが一瞬にして流されて、消えて。その中で、それをもう一回再生したいという気持ちに、なかなかならなかった。それで、“見えなくなった存在”や“死”を問う作品ばかりを制作してきたんですが、もう一度未来のために《Echoes-infinity》をやらなければならないと思っていたところでした。」(「あいちトリエンナーレ2016公式ガイドブック」より)
間接的には「死」が関わっている、少なくともその記憶を経過した後の作品ということのようだ。「未来のために」ということは、どういうことなのだろうか。未曾有の大災害による死を乗り越え、この先に「希望」を見たいということなのだろうか。曼荼羅のように描かれた花や鳥の文様は死者への鎮魂であり、それを「踏みしめた軌跡」を示すことによって、すべては変化していくということを表しているのだろうか。
あの震災以降、アーティストもそれを無視して作品を作ることはできず、言葉も発することができなくなった(そういう人が多かったと思う)というのは、わかる気はする。けれども、すべての作品は多様な解釈に向かって開かれているので、見る側にとってそこらへんは、実はどのようにも言えそうなことなのである。
前の記事で少し触れたように《Echoes-Infinity》は、「繊細で美しいものが人にもたらす不可侵的感情と相反する破壊欲」がテーマだろうなという印象をまず受ける。
美しいお花畑を目の前にして、踏み荒らそうとする人はなかなかいない。しかしその一方で、美しいものをめちゃくちゃにしてみたいという黒い欲求も人間の中にある。それらの相反する感情は、「美しいお花畑を描いた絵」に対しても抱きうるものだ。単なる絵なのに、人は実物と同じような感情、感覚を抱く。
つまり、「絵という虚構の中に実在を重ね合わせざる得ない人間の感覚」が、そもそも根底にあるテーマではないか。
もちろんそれは、絵というものを人間が描くようになってからこれまで、ずっとつきまとっている極めて根源的なテーマだ。「踏み絵」は、その人間の感情や感覚を利用したものだ。
そして、「絵という虚構の中に実在を重ね合わせざるを得ない人間の感覚」を私たちは共有できるからこそ、地面に亡き母の像を描いてその中で眠る女の子の姿に「胸が切り裂かれる」のだ。