「ネット上の他者の言葉と自分の言葉を併置してみるシリーズ」第二弾です(第一弾はこちら)。
昨日見たやりとり。
@asakasaku そんなものですwでもヨーロッパでは壁にかける安い絵を探してる人は結構いて、アートもそこそこ売れるんだよね。市場があるのとないのとでは違うし、国のアートとかスポーツにかける予算が、全然違うんだよね。その分税金ももちろん高いけど。
— 山下英子さん (@Eikoyamashita) 11月 12, 2012
@missaws というか、日本にはしっかりしたアート市場が無い…というより、ぶっちゃけ日本の家には壁がないから、アートが売れないんだよねw @synfunk @kettansai
— 山下英子さん (@Eikoyamashita) 11月 12, 2012
@eikoyamashita 確かに壁とか、隙間程度しかないですよね。実家で無理やり絵を飾ってあるんですが、キュウキュウの余白なしの状態で飾られているので、全然落ち着かないですwww 頻繁に来る人からの頂き物だから外せず。
— わかむさん (@wakamura1) 11月 12, 2012
すごい……壁の面積の問題だったんですね。これは目から鱗だ。。笑RT @eikoyamashita@missaws というか、日本にはしっかりしたアート市場が無い…というより、ぶっちゃけ日本の家には壁がないから、アートが売れないんだよねw @synfunk @kettansai
— 発育女子さん (@MissaWS) 11月 12, 2012
アート、特に絵画にとって、それが飾られる壁の面積問題は大きい。それに加え、ギャラリーや美術館など靴を穿いたままで過ごす欧米的な空間と、靴を脱ぐのが基本のプライベートな日本的空間(家)における、身体感覚の差やそれが心理に及ぼす影響の違いもあるように思う。
こうしたことについて考察した箇所を、やや長いが自著『アート・ヒステリー』から引いてみる(ここでは読み易くするため、段落ごとに間を空けた)。
日本においてはクラシック音楽もアートも、芸術は等しくヨーロッパへの憧れから始まっています。今でこそ「和」が見直され、そっち方面の趣味もオシャレということになっているけれども、洋風であることがカッコ良く、憧れだった時代が長い。インテリアも同じです。洋風インテリアを楽しめるのは戦前は上層階級だけでしたが、戦後は少し豊かになってくると一般庶民も狭い家に応接セットを入れ、レースのカーテンを下げ、無理してピアノを買い、金ぴかの額に入ったバタ臭い油絵を飾りました。憧れの西欧を「物」として取り入れた。キリスト教徒でもないのにクリスマスにケーキを食べプレゼント交換をしたのと同じです。
しかし部屋に絵を飾ると言っても、飾れる壁面が少な過ぎたのが難点でした。柱と障子と襖で構成されている日本式の住居空間。床の間には掛け軸と決まっています。唯一の洋間である応接間に飾るしかなく、ルノアールの複製画の三十センチ隣に、ピアノの上に置かれた日本人形のケースがあるというミスマッチも起こりました。百号(約一六二×一三〇センチ)の絵は、美術館やギャラリーで見ると特別大きい方ではありません。しかしそれを掛けてゆったり眺められる空間を所有している人は少ないでしょう。美大や芸大の卒業制作では頑張って大作に挑戦する学生が多いですが、そのノリで大きな絵を描き続けても、売れなければ保管場所に困るばかりです。日本の住宅はとにかく狭い。
また、アートは基本的に靴を穿いて見る環境にあります。お座敷でもOKな作品もあるかもしれませんが、美術館でもギャラリーでも人は靴を穿いたまま作品と対面する。ソファに座って見ることはあっても、正座したり寝転んで見たり裸足で見たりは(普通は)しない。現代アートの絵画を見ている時、その絵が掛かっている壁の厚みや固さや抵抗感とともに、自分が靴を穿いて立っている床の厚みや固さや抵抗感を、身体は無意識のうちに感知しています。裸足で見ていたり、床が畳だったりしたら、絵の見え方は微妙に、でも決定的に変わってくるはずです。アートを受容する感覚は視覚に集中していますが、それ以外の身体感覚も鑑賞の気分にかなり影響を及ぼしているのではないでしょうか。
たとえば団体展系の比較的保守的で伝統的な絵画を扱っている東京・日本橋高島屋六階にある美術画廊では、床にフカフカのカーペットが敷かれています。顧客がどういう気分で絵を見たいか、ちゃんと計算されている。”気分としての身分”が想定されている。二〇〇七年、その隣に現代アートを専門に扱うギャラリーがオープンしました。錆びた鉄のようなセラミックタイルの床で、いかにもクールで硬質な空間です。現代アートの作品をフカフカ空間に飾っても、視覚と身体感覚、気分がズレるでしょう。
同じように、靴を穿いたまま見た作品をスリッパや裸足で暮らす空間に持ってくると、違和感が生じるでしょう。かと言って、アートに合わせていきなり靴穿き生活を採用するのは難しい。部屋の造りやインテリアはいくらでも洋風にできますが、玄関で靴を脱いで上がるという習慣はなかなか変えられません。逆のことも言えます。日本の骨董や書画・掛け軸を美術館で見ても、どこかよそよそしい。やはり畳の上に座って眺めたいものです(ハリウッド映画で成金臭い金持ちのリビングに派手な書が飾ってあったりしますが、あれはいわゆるオリエンタル趣味なのでまた別です)。
つまりアート、特に絵画(洋画)というのは、靴を穿いて暮らす洋式空間を前提にしているのです。だから多くの日本人にとって絵は買って家に飾るものではなく、美術館で見るものです。「アートを生活空間に」といった雑誌の特集などで、アート作品がオシャレなインテリアの一部となっている様子が紹介されたりしていますが、洋服を着て和室でうどんを食べるという具合にナチュラルに溶け込んでいるのはなかなかありません。そこにはまだ完全に「今/ここ」に根付いたとは言い難い、ちょっとした”背伸び”があります。(p.82〜84)
日本人の住まいに昔からあったのは、書画や伝統工芸でした。庶民の家には和室に大抵小さいながら床の間があり、そこには地元の書家の掛け軸とか、あまり高くない陶器の花瓶などが置かれていて、お客がある時は花などを生けたりする。茶箪笥の上にはこけしや熊の一刀彫といった民芸品が飾ってあったりしました。それもない場合は、縁側から隣家の松の枝振りとか、空の雲の流れるさまとか、庭の隅の名も知れない花に蝶々が飛んでくるのとかを見て、ぼんやり「ああいいなぁ」などと思っていた。そこには「物」としてのアートはありません。「物」と対面する自分もいません。強いて言えば、自分も周囲の物も環境の中に溶け込んでいる。
日本建築における庭園の重要性を持ち出すまでもなく、一般の家屋は開口部が大きく内外の境目が曖昧なので、「外」が自然に鑑賞の対象になっていました。座敷と廊下の間の襖や障子、廊下と縁側の間のガラス戸、それらを開け放すと座敷の中から大きく四角い開口部のかたちに「外」の景色が見える。その四角く切り取られた「外」がそのまま大きな風景画だったから、絵画は必要なかったのです。(後略)(p.85〜86)
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西欧で一般の人がアートを買うようになったのは、いつ頃からだろうか。『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』(若林直樹、1999、河出書房新社)で、17世紀のオランダで市民が絵画を買うスタイルが普及した事情について言及されている。
オランダ市民社会の絵画は、現代のブランド商品と同じように服飾や家具や室内装飾品のなかの画家ブランドの商品だった。そこで、作品は希少なものではなく、その価格帯もおのずと限定され、誰にでもある程度予想可能なものだった。
(中略)
それにしてもオランダ市民はよく絵を買った。当時の画家の組合は都市ごとに独立した組織で、組合員の利益を守るために通常は他都市の画家の作品を販売させなかった。そこでたとえばアムステルダム市ではレンブラントを含めた画家たちが、わずか二十数万のアムステルダム市民だけを相手に商売していたことになる。しかも、もっとも多く描かれた肖像画でさえ普通の市民は一生に一枚かそこら発注するだけなのだ。それでいて十七世紀にオランダで描かれた総絵画数は五百万枚を超えるという専門家の報告さえある。つまり、絵画市場は少数の愛好家市民の収集によってではなく、家庭備品として絵を買う多数の一般市民によって成り立っていたのだ。ここでもまた、近代以降の美術品市場とは異なる十七世紀オランダの絵画市場が見えてくる。
レンブラントをめぐる経済学は、十七世紀前半のオランダの目眩くような発展と共にあった。この発展の中で、人々は絵画所有に異常とも思える情熱を注いだのだ。それは、絵画の所有が市民の文化であり豊かさの証明だったからだ。まっとうな市民の住居の壁には絵画がなければならなかった。彼らが特に肖像画を好んだのは、肖像の主が文化的であり豊かであることを直接に証明できるものだったからにほかならない。(p.235〜236)
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開口部が狭く空間の区切りが多いので必然的に多くなる家の壁を何で埋めるか、となった時に、「豊かさの証明」として買われていった「ブランド商品」絵画。ヨーロッパでは市民社会の成熟と共に、市民が絵を買い自宅に飾ることも一般化していったのだろう。
戦後、ニューヨークにアートの中心が移り、絵画がどんどんバカでかいものになっていっても、それとは別にインテリア・アートの絵画市場があって、お手頃サイズの絵が売れていた。ラッセンやヒロ・ヤマガタなどもそこから出てきた。
日本で絵画に数万円から数十万円以上払う人は、「普通の人」ではなく特別アートファンかコレクターだ。壁以前に金の問題がある。何となく壁に絵が欲しいなと思う人は、ペインティングより値段の安い版画、写真などに手を伸ばすことが多い。書画・骨董の蒐集家の方が、層としては厚みがあるかもしれない。でもそこからアートの方にも行く人は、やはり限られているだろう。
文化は身体的なものだ。身体には歴史が蓄積されている。
日本の家屋がさらに欧米化して壁面積が多くなっても、絵画を買うことが車を買うのと同じ程度に一般化するのは、なかなか難しいのではないかと思う。
最後に自分ちのことを少し。
私の住まいは、典型的な昭和の木造住宅である。壁が少なく、木枠のガラス戸と襖とビニールっぽい白い壁紙で構成された、中途半端な日本的空間が家の中心を占めている。ギャラリーで購入して、マンション住まいの時は飾っていた若いアーティストの小品は、この空間にはどうしてもしっくりこなくて仕舞ったままだ。和室の床の間に自分の立体作品を(あえてミスマッチということで)置いていた時もあったが、鬱陶しくなったので撤去した。
最近流行らしい「和」(ジャポニズム?)っぽい感じの現代アートなら飾りたいかというと、そういう気持ちは全然起きない。それなら山頭火の通販の掛け軸(印刷)でもぶら下げておいた方がマシな感じがする。
今、玄関とリビングの少ない壁に所狭しと飾ってあるのは、ダ・ヴィンチの展覧会で買った解剖図のポスター、イギリスの古い魚類図鑑や植物図鑑の版画、夫がアフリカで撮影した動物や植物の写真、自分がタイで買った蝶の標本、棚の上に貝殻、化石、鹿の角(なぜか片方)、得体の知れない石、得体の知れない骨董の壷、ガラパゴスの亀の置物、猫の置物(自作)、竹細工の虫籠など。互いの趣味の折衷と和洋折衷を目指した結果、まるで昔のいい加減な博物学者の部屋みたいになっている。