『ラカンはこう読め!』の日本語版序文にある『羅生門』解説の一部が疑問な件 - ohnosakiko’s blog

『ラカンはこう読め!』の日本語版序文にある『羅生門』解説の一部が疑問な件

ジジェクさん、それ書き間違い‥‥?

スラヴォイ・ジジェク著の『ラカンはこう読め!』(鈴木晶訳、紀伊國屋書店、2008)は、ラカンの理論を駆使して映画や小説、時事的話題を分析していくもので、ラカン入門書というよりは「(あらゆる事象を)ラカン*で*こう読め!」的な内容である。小咄がたくさん盛り込まれていて読み物として面白い。
冒頭に、1951年のベネチア映画祭でグランプリを獲った黒澤明の『羅生門』についての分析がある。さすがジジェク、日本語版の序文には、ちゃんと日本映画をもってきている。
で、一回目に読んだ時はうっかり見落としていたのだが、こないだ再読して「んん?」となった。『羅生門』の内容説明が、微妙におかしい。というか、間違っています。


映画『羅生門』の原作は芥川龍之介の『藪の中』で、一つの事件を複数の人がそれぞれの視点から語るという形式を取っている。
舞台は平安時代。主な登場人物は、盗賊、武士の妻、武士、木こり。この順番で、ある出来事が語られる(武士は死んでいるので巫女の口を通して亡霊として語る)。四人の話に共通しているのは、盗賊が武士を襲って縛った後に武士の妻をレイプし、最終的に武士は死んだという点だけである。
ラカンはこう読め!』で、四人の話は以下のように紹介されている。

最初のヴァージョン(盗賊の話)では、盗賊は武士の妻をレイプし、然る後に正当な決闘で彼女の夫を殺す。第二のヴァージョン(生き残った妻の話)では、レイプの最中に、武士の妻は盗賊の強引なセックスの情熱の虜になり、結局、二人の男に自分の恥辱を知られてしまった以上、どちらかに死んでもらわねば恥ずかしくて生きていくことはできない、と盗賊に告げ、そのために決闘がおこなわれる。第三のヴァージョン(死んだ夫の亡霊が語る話)では、盗賊に縄をほどいてもらった武士は、恥辱から自害する。最後のヴァージョン、すなわち近くの茂みで出来事を目撃していた木こりの話では、レイプの後、盗賊が夫を縛っていた縄をほどくと、夫は怒り、妻を恥知らずの売女と罵る。妻は怒りと恍惚から、両方の男に対して怒りを爆発させ、二人とも弱虫だと言い、私のために決闘しろと言う。(p.4〜5)


間違っているのは、第二のヴァージョン(生き残った妻の話)として紹介されているエピソードである。これは、第一のヴァージョン、つまり盗賊の語った話であって、妻の話ではない。
盗賊の話の中で、京マチ子演じる武士の妻は三船敏郎演じる盗賊に必死に立ち向かうが、強引に口づけされて陶然となり、レイプされた(直接的なシーンはない)後、立ち去ろうとする盗賊にこう言う。「あなたが死ぬか夫が死ぬか、二人のうちのどちらか一人死んで。二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい。私は生き残った男に連れ添いたい」。この言葉を受けて盗賊は武士の縄を解き、二人は決闘するのである。


では、その次の妻の話はどういうものかというと、縛られた夫の前でレイプされた妻は、盗賊が去った後で夫の元に駆け寄りすがりつくが、氷のような軽蔑の眼差しを向けられ愕然とし、錯乱状態になって失神する。我に返った時、夫は自害しており、自分も後を追おうとしたが死にきれなかった‥‥というものである。ジジェクの紹介では、このエピソードがそっくり抜けている。
第三、第四ヴァージョンは書かれている通り。以上、DVDで確認したので間違いない。Wikipediaにも第三までのエピソードのあらすじが紹介されているので、確かめたい方はそちらを。


なぜジジェクは、第一の盗賊の話の大半を、第二の妻の話として書き、妻が語った話を抜かしたのだろう? 著書で映画を数多く取り上げているジジェクだが、単なる内容紹介の部分にややこしいトリックを仕掛けているとも、わざと間違いを書いて日本の翻訳者や読者を試したとも思えない(そうだったとしたら私の読みが浅いことになるが)。また翻訳者が、こんな長いセンテンスをそっくり間違えて訳しているとは考えられないし。
仮にジジェクがうっかり間違えて書いたとして、翻訳者も出版元もそれに気づかなかったということだろうか。でも超有名な映画ですよね、クロサワの『羅生門』。まあ私もウロ覚えで、今回確認のために20数年ぶりくらいに見たんだけども。
Amazonのレビュー初め、ネット上にあるレビューを幾つか見てみたが、『羅生門』紹介箇所についての疑問は見当たらなかった。全部を隈無く読んではいないのだが10件くらい見た限りは。既に指摘があるということでしたら、どなたか教えて下さい。

改めて『羅生門』を整理してみる

というわけで、映画『羅生門』では、最初の盗賊の話の再現として、「レイプの最中に、武士の妻は盗賊の強引なセックスの情熱の虜になり、結局、二人の男に自分の恥辱を知られてしまった以上、どちらかに死んでもらわねば恥ずかしくて生きていくことはできない、と盗賊に告げ、そのために決闘がおこなわれる」様が描かれている。
なぜこれが妻の話でなく盗賊の話でなければならなかったか?というのは、ちゃんと理由がある。
殺人の容疑者として突き出された盗賊は、「男を殺す気はなかった。殺さず女だけ手に入れたかった」と語っている。にも関わらず、女が自分に惚れてしまい、女に是非にとせがまれたのでそのためにも、相手の男と決闘し勝たねばならなかったというのである。つまり、いかにもマッチョで粗野な男が、保身しつつ自己満足できるような都合の良い話をしていたんだな‥‥と、後で思えるような内容が描かれているわけである。


第二のヴァージョンである妻の話も、同様だ。盗賊にレイプされてしまい、絶望して夫の手で殺されたいと願ったのにそれも果たせなかった。夫への操を守れなかった罰として死を望むほど貞操観念が強く、しかし夫には見放された哀れで不幸で弱い女として、泣きながらナルシスティックに自分を語っている。
貞淑な武士の妻という前提なので、第一ヴァージョンのような「闘って勝った方についていきます」といった博打的な振る舞いは避けられなければならない。


第三のヴァージョン、夫の亡霊の話は、ジジェクの解説では「盗賊に縄をほどいてもらった武士は、恥辱から自害する」とあっさり書かれているが、実際はその前に恐ろしい場面がある。盗賊に言い寄られてついていくことにした妻が、「あの人(夫)を殺して下さい!」と懇願するのである。呆れた盗賊が「この女をどうする?」と武士に問うている間に妻は逃げ、盗賊も一旦は後を追ったものの見失い、戻ってきて武士の縄を解く。
この間、武士がいかに激しい怒りと屈辱に耐えていたかということが、巫女の口を通じて綿々と語られる。本当は妻をレイプした盗賊を討ち取るべきところだが、決闘して負けて死んだのでは武士として立つ瀬がない。従って、妻に裏切られここまで自尊心を傷つけられた以上、彼の自害はやむを得ないだろうと聞き手が思えるような顛末になっている。


最後の木こりの話は三人のいずれとも違い、誰にも感情移入をさせないような内容である。


話の順に整理すると、以下のようになる。
1. 盗賊の話(闘いの物語)
 ・自分‥‥武士の妻をレイプし、彼女にせがまれて武士と決闘し勝つ。
 ・武士の妻‥‥レイプされて盗賊に情を移し、決闘を依頼するが、最終的には逃げる。
 ・武士‥‥決闘に負けて殺される。
2. 武士の妻の話(愛の物語)
 ・盗賊‥‥自分をレイプし、笑いながら立ち去る。
 ・自分‥‥盗賊にレイプされ、夫の冷たい眼差しに錯乱して意識を失う。後追い自殺は失敗。
 ・武士(夫)‥‥妻を軽蔑した目で眺め、妻の哀願(私を殺して。そんな目で見ないで)を拒否し、後に自害。
3. 武士の話(自尊心の物語)
 ・盗賊‥‥武士の妻をレイプし、自分の妻になれとそそのかす。逃げた後を追うが見失い、武士の縄を解いて去る。
 ・妻‥‥盗賊にレイプされた後、一緒になることを承諾し、夫を殺してくれと懇願し、どさくさ紛れに逃げる。
 ・自分‥‥縛られたまま怒りと屈辱に耐え、一人になってから自害する。
4. 木こりの話
 ・盗賊‥‥武士の妻をレイプの後、結婚してくれと懇願。一旦は諦めて立ち去ろうとするが、妻に煽られ、無様な闘いの末ようやくのことで武士を殺す。
 ・武士の妻‥‥レイプされた後泣き伏せていたが、突然両方の男に怒りを爆発させ、二人を罵り嗤い、自分のために闘えとけしかけ、最後は生き残った盗賊から逃げる。
 ・武士‥‥盗賊に縄を解かれると、こんな女より盗賊の宝の方がいいと言い、妻を罵り、罵られ、盗賊と決闘するはめになり、無様な闘いの末殺される。

象徴的契約の崩壊と外傷と嘘

映画では、物陰からすべてを見ていた木こりの、一番身も蓋もない話がおそらく「本当に起きたこと」であり、関係者三人は保身やナルシシズムのために嘘をついていたのだろうと想像させる作りになっている。
一方、ジジェクは、「客観的な真理などは存在せず、主観的に歪められ偏った物語が無数に存在するだけなのだという」「似非ニーチェ的な多視点主義」(p.4)から距離を取りつつ、以下のように書いている。

この四つの目撃談が語られる順番には意味がある。それらは同じレベルで進行するわけではない。順番に目撃談が語られるに従って、男の権威が少しずつ弱まっていき、それと併行して女の欲望が前面に出てくる。著者が日本に行ったときに聞いたのだが、バックシャンとは「後ろから見たときには、美しいのではという期待を抱かせるが、前から見るとそうではない女性」のことだそうだ。『羅生門』では、この言葉と同じようなことが起きているのではなかろうか。(p.5)


第一の盗賊の話は、女を巡る非常に古典的な男と男の闘いの物語であるが、第二の妻の話では、決闘で決着をつけるという契約は失われている。第三の武士の話では、女が夫の殺人を命じて男を混乱に陥れるが、辛くも夫には自死する余地が残されている。
しかし第四の木こりの話では、男たちは目の前の損得しか眼中になく、女は彼らに怒りを爆発させる。女はここで、自分に求婚する男(盗賊)にも「売女」呼ばわりする男(夫)にも、等しく罵倒と嘲笑を浴びせかけている。
ではそれに煽られてしまった男二人の決闘は、いったい何のためだったのだろうか。それは「女を巡る非常に古典的な男と男の闘い」からはかけ離れた、滑稽で無様で無意味な殺し合いでしかなかった。
ジジェクはこの四つの物語の並びを、社会組織を維持する象徴的契約や規範(ラカンが言うところの<大文字の他者>)が、徐々に崩壊していく様を描くものとして捉え、崩壊を促すのは「男性的な戦士の暴力の下に」潜んでいる「それよりもはるかに暴力的で不気味な女の欲望」(p.6)だとしている。

最後の(木こりの)目撃談が特権的な位置を占めるのは、それが「本当に起きたこと」を語っているからではなく、四つの目撃談すべてを繋いでいる内在的構造において、この木こりの目撃談が外傷的な点として機能しているからである。他の三つはそれに対する防衛、防衛形成として捉えるべきなのである。(p.5)


正当な闘いも愛も自尊心もなく、「暴力的で不気味な女の欲望」に呑まれたこと、それが関係者三人の外傷=トラウマである。トラウマとは後から遡及的に見出される出来事だから、木こりの物語は時系列的に一番後に置かれているのである。つまり、象徴的契約や社会規範の崩壊という時系列に沿って徐々に剥き出しになってくるように見える「暴力的で不気味な女の欲望」は、実は一番最初の時点にあったものだった。<大文字の他者>に対して、それがあくまでなかったふりをするために、三つの物語は語られたのである。
ジジェクはこの「ふりをする」ことを、「死者として生きることを受け入れるということだ」とした上で、「逆説的なことに、「真に生きる」ためには、自分自身の死を通り抜けねばならない」と書いている。



‥‥‥それにしても、なぜ妻の「そんな目で私を見ないで」話がそっくり抜け落ちて、盗賊のした「勝った方についていきます」話にすり替わっちゃったんだろうなぁ。
言い間違いというのは、無意識に抑圧した願望の現れだとフロイト先生は言っているが、これがまさかの書き間違いだとしたらそれはいったいどうゆう‥‥。


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