七十年代のテレビドラマではホームドラマと学園青春ものが全盛となり、いわゆる純愛ものは映画でもドラマでも次第に廃れていく。
二人だけの世界から、おうちや学校に復帰しよう。純愛ってちょっと重過ぎるし、雪山で心中なんて暗過ぎるし‥‥。まだテレビが一家に一台の時代、お茶の間では悲惨な物語より、笑える明るいドラマが好まれた。
また、悲劇の純愛自体、成り立ちにくくなってきたという現実がある。
親に引き裂かれて泣く泣く別れるなど、生活能力のまったくない少年少女ならまだしも、ちょっと大人だったら駆け落ちでも何でもやろうと思えばできないことはない。
純潔破りもそう高いハードルではなくなった。上村一夫のマンガ『同棲時代』が読まれ、「同棲映画」の秋吉久美子が人気で、同棲生活を歌った『神田川』がヒットした同棲流行りの時代に、いつまでも純潔にこだわっている方が時代錯誤とされる。
となると恋の成就の障害は、不治の病、身分が違いすぎる、主人公が若過ぎる、相手が刑務所にいるなどの特殊な設定に限られてしまう。
障害の大きさをドラマの要としてきた純愛ものが下火になるのは、当然であった。
そんな中で、一つ純愛ドラマを挙げるとすれば、七十年代後半の山口百恵主演の「赤いシリーズ」の中の『赤い疑惑』くらいであろう。
白血病の少女が医大生と恋に落ちるが実は異母兄妹だったという、「セカチュー」と「冬ソナ」の要素を足して二で割ったようなストーリーである。越えられない運命の壁という「障害に立ち向かう一途な愛」は、六十年代までの流れを引き継ぐものだ。しかしそれも、半分くらいは現実味のないトンデモなドラマとして楽しまれていた。
純愛は、むしろマンガの中に生きていた。
もともとマンガの純愛ものの数は映画やドラマ以上に多いが、誰もが夢中になって読んでいた七十年代の超弩級純愛マンガと言えば、『ベルサイユのばら』(池田理代子作・画/七十二年〜七十三年「週刊マーガレット」連載)と、『愛と誠』(梶原一騎・原作、ながやす巧・画/七十三年〜七十四年「週刊少年マガジン」連載)にトドメを刺す。
ロココのフランス宮廷を舞台にした大河歴史ロマンの「ベルばら」は、男装の麗人オスカルと幼馴染みアンドレの因縁のドラマである。七十四年に宝塚歌劇団によって舞台化されてから更に広範なファンを獲得し、また「ベルばら」を追いかけていってヅカファンになった人も少なくないらしい。
- 作者: 池田理代子
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1994/12/01
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マンガではフランス革命に至る歴史が描かれているので、当時の女子中高生はみんな十七、八世紀のヨーロッパには大変詳しくなった。オスカルの凛々しさとアンドレの体を張った献身ぶりを楽しみながら、近世ヨーロッパ史も学べるという一石二鳥のマンガだった。
中心テーマは、アンドレのオスカルへの一途な思いと献身だが、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族フェルゼンの恋、フェルゼンへのオスカルの十年越しの片思いと、三角四角関係になっている。
オスカルに思いを寄せる少女ロザリーや、宮殿貴族達の陰謀術数など、脇のストーリーも複雑だ。
信じられないほど豪華な宮殿や次々出て来るステキなドレス、ここぞという場面には花吹雪の舞う華麗な絵柄も吸引力大。
主役のオスカルは王室付きの近衛連隊長であり、平民出身のアンドレとの階級差は歴然としているが、"男"と男の固い友情=仁義で結ばれた仲である。
オスカルはアンドレを一貫して同性のダチ扱いで、アンドレの片思いはなかなか報われない。
だがようやく最後に友情が異性愛へと変化し、バスチーユ陥落前日に二人は男女として結ばれる。少女マンガで全裸のセックスシーンが描かれた最初のケースではないだろうか。といっても、花びらとか光線みたいなものが肝心の部分を邪魔しているのだが。
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一方『愛と誠』は、幼い頃雪山(また?!)で命を助けられた財閥令嬢の早乙女愛が、再会した一匹狼の不良少年、大賀誠に献身的な愛を捧げるハードな悲恋もの。
「愛は平和ではない 愛は戦いである」
マンガ冒頭の文句がコレである。のっけから大上段だが、こういう大袈裟なところが『愛と誠』の醍醐味だ。それまで男子が読むものだった少年週刊誌を、十代の女子が競って読むという新現象を生んだ。
- 作者: ながやす巧,梶原一騎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/05/11
- メディア: 文庫
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愛がずっと心の中で「白馬の王子様」だと信じていた誠は、乱暴者の不良少年に育っており、なんとか誠を更正させたいと尽力するも、彼は学園中を引っ掻き回してどこ吹く風。
とうとう学園を追放され東京一の不良高校に転校した誠の後を、愛は追う。なんでそこまでと思うほど、後先考えない捨て身な行動である。
女子の琴線に触れたのは、もちろん愛の純愛がどうなるかということであるが、怖いもの見たさもあったかもしれない。高校を舞台に次々とリンチやセクハラが登場する、異常にテンションの高いハードな内容だった。
物語の背景になっているのは言わば、高校生ヤクザの仁義なき戦いである。校舎の窓からスケバン逆さ吊り、傷口に塩塗りリンチといった過激なシーンの連続と、暴力高校生の凶暴な血と体液がムワッと臭ってきそうな絵ヅラに、友達からマガジン借りて読んだ中二の私はビビり、「ベルばら」でショックを中和していた。
愛にひたすら想いを寄せてリンチにも耐える秀才メガネの岩清水君、ナイフ投げ名人の女裏番長など、登場人物もすべて濃い。執念深い劇画タッチだから濃さ倍増。
「愛、きみのためなら死ねる!」
が、岩清水君の決め台詞。
健気なストレートロング姫カットの早乙女愛や、報われない秀才黒ぶちメガネ、政界と癒着している財閥の早乙女父、とんでもなく豪華な邸宅など、『高校生心中 純愛』と共通点が多いのも興味深い。
七十四年には西条秀樹、早乙女愛(オーディションで選ばれ、後に清純派からエロ路線に転向するとは誰も思わず、役名をそのまま芸名としてつけられた)主演で映画化。
次いで同年『純愛山河 愛と誠』として、池上季実子、夏夕介でテレビドラマ化。原作は第六回講談社出版文化賞を受賞した。
二作とも「階層差という障害のある恋」であり、「愛のための犠牲的精神」がポイントである。
犠牲的精神を発揮しているのは「ベルばら」では男、『愛と誠』では女の方。
オスカルと誠は闘いに生きる"男の子"であり、それにひたすら純愛を捧げるのがアンドレと愛だ。
オスカルも誠も相手の思いは知っていながら、その胸に飛び込んでいくのは最終回で、図ったかのように(まあ図ってるのだが)その後すぐ死が訪れる。こんなのありえません。でもありえないから没入できたのも確か。
ベルサイユ宮殿の貴族の暮らしとかスケバンが教師を脅かす高校とか、一般庶民の女子にはあまり現実味のない設定も、その世界に思い切りハマれる魅力の一つであった。
六十年代の『愛と死をみつめて』が、「実話」ゆえにまだリアリティをもって受け止められていたのに比べると、この頃の純愛ドラマはあまりにも悲劇の濃度の高い過剰に劇的な展開である。それはヨーロッパ伝統の「情熱恋愛」を、文字通りマンガチックに踏襲していたのであった。
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さて、七十年代半ばから後半は、山口百恵(現・三浦百恵)+三浦友和コンビの純愛映画が連発される。
特に目立っていたのが古典文芸ものである。しかも一度映画化されているやつが多い。
なんで今頃また?という疑問が湧くが、昔の小説が見直されていたわけではないし、純愛ブームが再燃したわけでもない。アイドルの彼女に関根恵子ばりの胸まではだける純愛ドラマをやらせるわけにはいかないので、古典回帰となったのである。
あまり立て続けに文芸作品に出るので、山口+三浦は「リメイクコンビ」などとも呼ばれたが、注目の的だったのはもちろん山口百恵。三浦友和は百恵人気によって浮上したようなものだ。
『伊豆の踊り子』も『絶唱』も『野菊の墓』も『春琴抄』も、「百恵の映画」として観られていた。
映画の内容はまあどうだっていいのである。誰でも知っている話である。そんなことより、あの百恵ちゃんがどうキレイに撮られているか、アイドル主演の映画としてどこまでよくできているか、そして百恵と友和はどう見ても本物の恋人同士みたいじゃないか?ということの方に関心が集まっていた。
何回目かのリメイクである八十一年の『野菊の墓』(松田聖子主演)でも話題になったのは、民子を演じる松田聖子が野菊の中を駆けてくるという冒頭の長いスローモーション・シーンと、松田聖子が初めて見せた立派なおでこ。
純愛映画も現実世界のリアリティから離れ、ジャンルの新陳代謝がなくなってくると、ベタな受容からネタの消費へと移行するのである。
つまり、ストーリーやテーマといった内容の考察よりも、テクニカルな面や細部の分析や萌え要素探し、さらには楽屋裏がどうのこうのという話ばかりになる。これはすべてのジャンルの辿る道である。
出演者のファン以外、ツッコミ入れるか枝葉を楽しむしかなくなった純愛ものが、衰退するのは当然であった。
公開されればそれなりに何かと話題になった百恵の純愛映画は、友和との結婚という予定調和なかたちに落ち着いた。つまり彼女は、映画でもドラマでも実生活でも、典型的な純愛のヒロインを演じ切ったわけだった。日本中が注目していた八十年の百恵の結婚を境に、戦後の純愛ものは一旦収束していく。
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最後に、六十年代の吉永小百合、七十年代前半の関根恵子、後半の山口百恵と、純愛ドラマを演じた昭和のヒロインの特徴を比べてみよう。
まず吉永は、何と言っても目。三人の中で目ヂカラが一番強い。丸い眼をさらに丸く大きく見開いて必死に何かを訴える顔は、純愛の精神性を強調している。首から下はわりともっさりしていて、行動が目ヂカラにひっぱられている印象。
関根はボディで訴えている。いや女優としての関根恵子の目もしっかり訴求力はあるのだが、それを上回るカラダの存在感が圧倒的で、カラダでぶつかっていく場面も多い。精神性だけで純愛ができるの?と言わんばかりの勢いだ。
ふたりとも、わがままなまでに意地を通して後ろ指指されるのも怖れない正統派の純愛者である。
では吉永の精神力(目)と関根の行動力(体)を兼ね備えたら、鬼に金棒ではないか?
しかし、最後に現れた山口百恵に現代の純愛は演じられなかった。なぜなら、目の細い地味顔でボディのアピール力もなかったからである。でも群を抜いたスターだったので、ヒロインはやらねばならない宿命である。
彼女が活躍した七十年代中後期は、何かを必死に訴えたり、主義主張を捨て身の行動で示すことは、もうダサいとかカッコ悪いと言われ始めた時代であった。そういう温度の高いものにシラケるというメンタリティが、若者を中心に行き渡りつつあった。そして、世の中全体が保守化に向かっていた。
純愛は、たった一人に一途なところは古典的だが、社会規範からはみだしがちなところは、コンサバとソリが合わないものである。
さらに、関根恵子が行くところまで行ってしまった以上、その後の純愛ものに残されていたのは、古典の焼き直ししかない。
だから七十年代後半のインパクトに欠ける古典リメイク純愛映画は、現実の純愛精神の終わりを意味している。それは八十年代のレーガン・サッチャー時代、いや「純愛暗黒時代」を先取りしていた。
そう思うと、どう見ても古いタイプの三浦友和が当時なんであんなに持て囃されたのかも、なんとなく腑に落ちる。(やっと80年代に続く)