『街とその不確かな壁』と「老い」の問題ーー村上春樹はなぜ「コミット」しなくなったのか(4月22日追記)|宇野常寛
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『街とその不確かな壁』と「老い」の問題ーー村上春樹はなぜ「コミット」しなくなったのか(4月22日追記)

村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を、発売当日に電子書籍で購入してKindleで一気に読み通した。結論から述べるとこの作品は近年の、というか『1Q84』の〈BOOK3〉以降の自己模倣と内容の希薄化の延長にある作品で、彼の長編の中でももっとも記憶に残らない薄弱な作品の一つになってしまっていると言わざるを得ないだろう。

僕は半年前に出版した『砂漠と異人たち』で、この村上春樹について20世紀後半を代表するパーソナリティとして扱い総括的な批評を試みた。そしてこの『街とその不確かな壁』という小説は僕の『砂漠と異人たち』での村上についての総括から、半歩も踏み出していないように思う。それは、とても残念なことだ。

FacebookやTwitterで実績はないけれど自分を知的に見せたくて仕方がない人たちとは異なり、批評家とは天の邪鬼な生き物で常に作家に、正確には作品に「敗北」したがる生き物だ(そもそも、戦っているのではないのだけれど……)。批評家はこれまでの自分の築き上げた理論や世界観が根底から揺さぶられるような、マゾヒスティックな快感に取り憑かれている生き物なのだ。だから、自分の思想をそのまま書くのではなく、常に出会った事物(この場合は作品)に「ついて」考え、書くことをやめられないのだ。

しかし、近年の村上はそういう快楽を与えてくれる作家では、つまり読者をしっかり傷つけてくれる作家ではなくなってしまったように思う。だからこそ、時代の象徴として(申し訳ないけれど「一般論」的な紹介として)、僕は「仮面ライダー」や「アラビアのロレンス」といった本当に批評したい存在を語る上での補助線としてこの作家を便利に使ってきた。しかし今考えるとそれは少し、失礼なアプローチだったかもしれない。だからこの文章ではこれまでとは違う角度で、村上について寄り添いながら考えてみたいと思う。駄作にすぎないと切り捨てるのではなく、彼が暗礁に乗り上げた原因とその脱出方法を考えるのがこの文章の目的だ。


『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の再話?

この『街とその不確かな壁』は村上春樹が1980年に雑誌に発表したほぼ同名の中編小説『街と、その不確かな壁』を下敷きに、長編化したものだ。広く知られるようにこの中編は1985年に発表された長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の原型になっている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は『世界の終り』と『ハードボイルド・ワンダーランド』という2つの物語が並行して進行し、やがてこの2つの物語の関係が浮かび上がる、という仕掛けだ。1980年発表の『街と、その不確かな壁』はこのうち『世界の終り』の原型になっている。対して、今回出版された『街とその不確かな壁』は『ハードボイルド・ワンダーランド』というもう一つの物語を並走させることなく、かつての作品世界を拡張したものになっている。

では、簡単にその内容を紹介しよう。まず、17歳の少年(主人公)が登場する。彼には1歳下の恋人の少女がいる。彼女は「直子」という名前で度々村上春樹の作品に登場するタイプの少女だ。つまり、繊細であるがゆえに精神的なタフさをもたず、その弱さを主人公への依存で埋め合わせるタイプの少女だ。このタイプの登場人物は村上春樹の特徴である「自分より弱い女性に必要とされる」ことで主人公の男性的ナルシシズムを成立させるため、ほぼ毎回のように登場する。

主人公と彼女は文通と性関係を伴わない高校生らしいデートを重ねていくが、ある日少女は突然連絡を絶つ(精神的な不調が仄めかされる)。主人公の中で彼女は神格化され、その後彼(村上春樹と同じ団塊世代と思われる)は、東京の大学に進学した後も、そして会社に就職した後も彼女のことが忘れられず、独身を貫き通している。

そんな彼が40代も半ばになったときに、道路に空いていた「穴」に落ちたことがきっかけになり、異世界にワープする。もちろん、この異世界は剣と魔法の世界……ではなく、少年時代に主人公が彼女との文通の中で作り上げていた異世界(「壁」に囲まれた街)だ。この異世界は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と同じように、主人公の無意識の作り上げた世界だと考えればいいだろう。

「壁」に囲まれた街からの帰還

この異世界では人間は「影」と分離される。「影」はその人物の社会的な自意識のようなものだと考えればいい。そして「影」を失った人間は感情の多くを失い、淡々と暮らすことになる。主人公はそこで、「夢読み」という仕事を与えられる。本が一冊もない「図書館」で、過去の人間の記憶を読み覚まし、それを読むのが彼の仕事だ。そしてその仕事(集合無意識へのアクセス?)を補助するのが「影」を失い、感情の薄弱になったあの「彼女」だ。

主人公は彼女との再会を喜ぶ一方で、「影」と切り離され、感情を失うことに疑問を持つ。そして主人公は切り離された「影」と再会し、本体と切り離された「影」は遠からず衰弱して死ぬこと、そうすると自身の感情も消えることを知る。主人公は「影」と一緒にその街の「壁」を超えて、もとの世界に回帰することを決断する。しかし、土壇場で主人公は「影」だけを現世に戻して、自分はこの「壁」に囲まれた街の世界に留まることにしたと述べる。そして「影」だけが現世に帰還する。

現世に「影」が帰還すると、主人公は穴の中で目覚める。そして「彼女」に異世界で再会した経験から、(再び彼女と再会するために)これまでの人生を改める。異世界と同じように図書館で働くことを考え、会社を辞め、福島の山村の図書館の館長職に転職する。そこで、彼は図書館の前の館長の幽霊に導かれながら、現世の中に異世界との扉のような場所を発見する。
そこで主人公はサヴァン症候群の少年と親しくなる。現世に興味の抱けない少年は、主人公がかつてアクセスした異世界に関心をいだき、主人公との交流を蝶番にして異世界にワープする。少年は異世界に残った側の主人公の分身(本体)と一体化し、夢読みの仕事を続ける。しかし主人公の側が、やがて夢読みの仕事を辞め、後を少年に託して現世に帰還することを選ぶ。
この異世界での主人公の言動は、現世での主人公の行動とリンクしていると思われる。主人公は福島の山村で知り合った女性と、思春期の情熱とは異なった愛情で結ばれようとしている。つまり、現世の主人公が生活にようやく興味を抱き始めたために異世界の彼も帰還を望むようになったのだ。そして現世の彼の無意識に連動した異世界の側の主人公が、現世に帰還したことが示唆されて、物語は終わる。

デタッチメントからコミットメントへ

まず、この小説を語る上で重要なのが、村上春樹が90年代から掲げていた「デタッチメントからコミットメントへ」という主題がほぼ完全に消滅していることだろう。もちろん、同じ主題を反復して書かなければいけない理由などない。しかし、この小説の薄弱さを語る上では、この主題の消失は避けて通れない問題だと思う。

団塊世代の村上は、60年代の政治の季節と70年代の敗北の経験をその創作の出発点にしている。つまりマルクス主義のようなイデオロギーに依存した社会へのかかわりは人間を思考停止に追い込み、ナチズムやスターリニズムを生み出してしまう。そのため村上はありとあらゆる価値に対し「やれやれ」と距離を取る「デタッチメント」を初期はその小説の中核に置いていた。それはニヒリズムではなく、倫理的であるためのデタッチメントだった。しかし彼はやがて「コミットメント」の側に舵を切る。やはり、倫理的であるためのコミットメントは不可欠だという、一般論的な正しさに応答するためだ。

「壁抜け」と性搾取

そこで、彼が考えたのが「壁抜け」というモデルだ。歴史を物語(イデオロギー)として読むのではなく、まるでデータベースを検索するようにある場面の記憶を切り出して読み込む。そこにはたとえば残虐な戦争犯罪がある。担い手が旧日本軍だろうがコミンテルンだろうが満州の馬賊だろうが、その残虐な行為は「悪」だと断定することができる。物語(小説)の力はこのような歴史に対する新しいアプローチを可能にする。そしてこの善悪の(イデオロギーに依存しない)判断は新しいコミットメントの根拠になるのだ。

しかしこの「壁抜け」には一つ問題がある。それはイデオロギーを排して、前後の文脈を無視して歴史にアクセスしたとき、人間の心が弱いと事後的に自分が願望する文脈が侵入してきたときに、そこで触れた歴史が自由にその意味付けを改変されてしまうことだ。要するにGoogleでたどり着いたブログや、You Tubeにリコメンドされた動画を経由して陰謀論に染まるといった現象が発生してしまう(村上は当時オウム真理教の事件に強い関心を抱いていた)。

ここでオウム的(陰謀論的)な「弱さ」に抵抗するために村上が導入するのが、これまでの作品で培わわれていた男性的ナルシシズムに基づいた「強さ」だ。それは、「強い男が女子供を守る」といったマチズモではなく「弱い女性に必要とされることで自信を得る」といったタイプの男性的ナルシシズムだ(当然、フェミニズムから強い批判を受けている)。その結果として彼の作品の「コミットメント」のリスク、コスト、責任は彼に無条件に承認を与える女性登場人物が負う(手を汚す、責任を取る)という構造が定着していった。

コミットメントのゆくえ

しかし、村上春樹の性搾取的なモチーフは少しずつ後退する。無条件で自分に愛を捧げる妻がコミットメントのコストを代替する『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』に対して、近作……たとえば前回の長編作品である『騎士団長殺し』では、そもそも主人公の女性への欲望が明らかに後退している。相変わらず(自分より弱い存在として設定される)運命の恋人(妻)からの全人格的な承認を必要としている主人公だが、その承認の手段は随分と大人しいものになっている。せいぜい別れた妻との段階的な復縁と近所に暮らす美少女からの尊敬を得ること、くらいに縮退しているのだ(これでも十分、しょうもないな、とは正直思うのだけれど……)。そしてここが重要なのだがこの女性への所有欲の縮退に比例して、コミットメントもまた縮退しているのだ。

女性所有が縮退するとコミットメントも縮退する

そもそも『騎士団長殺し』では手段と目的が転倒している。「コミットメント」のために「性搾取(によるアイデンティティの確認)」があるのではなく性搾取による自信回復のために(歴史への)コミットメントがある。『騎士団長殺し』では、主人公は超自然的な力で異世界的な場所にワープして、そこで南京事件やアンシュルスなどを学ぶ。そうして得た力で彼は家出した近所の女の子を探して助け出す。これは言ってみれば家出した近所の女の子を探し出すために社会科見学して歴史への見識を強化しているようなものだ。多くの読者がそうだろうが、僕は最初にこの小説を読んだときに、心底どうでもいい問題を扱っているなと感じた記憶がある。(歴史に詳しくなって近所の美少女に尊敬されたいとか考えている人は単純に寂しすぎて、可愛そうだなと思う……)

そしてポイントはこのように女性差別が後退すると、コミットメントも後退するということだ、村上行の中で女性所有とコミットメントは深くつながってるらしく(どう考えてもここに彼の限界がある)、片方が縮退するともう片方も縮退しているのだ。

『街とその不確かな壁』の女性観

村上春樹は『蜂蜜パイ』や『1Q84』、そして『騎士団長殺し』でたびたび自分の遺伝子を引き継がないこどもを育てるということをロマンチックな決断と達成として描いている。ここから逆に分かるのは、村上がいかに戦後的な核家族のビジョンに縛られているかということだ。いまどきステップファミリーを当たり前の「なんでもないこと」として描けないのか……とため息が出た読者も多いだろう。

同じように、この『街とその不確かな壁』では、セックスに応じられない女性との恋愛が、成熟の達成として描かれる。この程度のことが、偉大な達成(老成)であるかのように。そもそもここまでアイデンティティの中核に性搾取を置かなければ、女性依存的な世界観のもとに生きることもなかったことは明白なのだが……。しかし彼にとって「自分より弱い女性を所有し彼女が自分の遺伝子を引き継ぐ子供を生むこと」は決定的に重要なことで、その断念を受け入れるのは偉大な達成であり、成熟なのだということだろう。そして、この女性観は村上春樹という作家の限界を大きく規定してしまっているように思う(もちろん、悪い意味で……)。

『世界の終り』との相違

そして、この『街とその不確かな壁』からはいよいよ「コミットメント」は消失している。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の『世界の終り』パートの結末で、主人公は現世への帰還を拒否し、街にとどまり続ける。ただしその街を支えている構造的な犠牲(一角獣たちの死)から目をそらさずに、平穏な街の中ではなく過酷な森のなかで暮らすことを選択し、その中に消えていく。それが「責任を取る」ことなのだと告げて。それは、言ってみれば消費社会の中にとどまりつつも倫理的であるために自らを律するという(具体的にどうするのかは不明だが)態度表明でもあった。しかし、この程度の「コミットメント」すらもこの『街とその不確かな壁』には存在しないのだ。

『終わらない疫病』を防ぐため

もちろん、村上としては彼なりに「コミット」しているつもりなのかもしれない。終盤に登場する「疫病」というキーワード(さすがに、安直すぎて僕は興ざめしたが……)ひとつとっても明らかだ。この「疫病」とは新型コロナウイルス……のことではなく、『1Q84』の「リトル・ピープル」のような現代人のアイデンティティ不安、心の弱さの生む「弱さ」といったものだろう(このパンデミックがインフォでミックに後押しされたものであることを考えれば、それほど的はずれな比喩ではない)。これまで村上はこの「弱さ」を女性性の所有で克服するモデルを提示してきた。そして今回の「所有」のモデルはこれまでになくマイルドに(性愛を伴わないものに)なっている。好意的にとらえれば「所有」から「関係性」に近づいていると考える人もいるかもしれない。しかし、僕は自分の弱さを誰かとの関係(自分への実質的な無条件の肯定)を特権化することで埋め合わせるという発想そのものは、とても傲慢なもの(所有)の中に収まるように思う。

もっと言ってしまえば一人ひとりが自己を「強化」することで「疫病」に対抗することが本当に解決策(新しいコミットメント)なのだろうかと思う。一人ひとりが強くなれば「疫病」にかからない、という発想そのものが、僕はこれからの社会に対する想像力としてプラスに作用するとは思えないし、あまり実質のある思想ではないと思う。やっぱり、誰かが疫病にかかっても、社会の仕組みがそれをケアして拡大を抑制する、という方向で考えていかないと意味がないのではないか。「強くなれば病気にならない」というのは「強くなった自分を誇って気持ちよくなり」たいときに出てくる発想だ。

いよいよ消失した「コミットメント」

この傾向は今に始まったことではなく、『1Q84』の〈BOOK3〉あたりから徐々に見られた傾向だ。まず「羊」「やみくろ」「みみずくん」「リトル・ピープル」といった、新しいタイプの「悪」(現代人のアイデンティティ不安のもたらす悪、高度資本主義の生む社会のひずみの象徴)の存在が作品から後退するようになる。それでも『騎士団長殺し』まではかろうじて残っていた「歴史へのあるべき態度の模索」といったテーマも、この作品では消え失せている。残ったのは、初恋をこじらせたまま40代なかばを迎えた中年男性の自分探しといった、申し訳ないけれど本当にどうでもいい主題だけなのだ。

もちろん、この一見どうしようもない、ありふれた問題を物語の力でそうではなくしてしまうのが文学の機能だ。しかし残念ながらこの『街とその不確かな壁』は「それ」ができていない。戦後日本人男性としてあまりに凡庸で、ありふれた男性ナルシシズム軟着陸先が、既にさんざん検討しつくされたものから選ばれて、ありきたりなかたちで記述されているだけだ。しかも本人はそのことにまったく無自覚だと思われ、まるで偉大な達成を直し遂げ方のように誇らしく、ロマンチックに提示されるのだ。

繰り返すが別に「コミットメント」なんて主題は捨ててしまっても構わない。世界には他に描くべきことなど無限にあるはずだからだ。しかしその代わりに描かれるのが、2周くらい遅れて団塊世代の男性がその男性中心主義を多少反省してソフトになりました、程度のことを全力で誇ることだとしたら、それは想像力の敗北だ。たとえば性的なものひとつとっても、そこにあるのはただ凡庸な所有欲で、何の倒錯も変態性もなく、したがってそれが主人公そのものを変質させて意外な場所に連れて行くこともないのだ……。

「社会的な発言」の増加

おそらく、村上春樹はかつてのように女性への所有欲を抱けなくなっている。それは自身の男性中心主義への反省の結果なのか、単に加齢によるものなのかは分からない。そして彼の中でコミットメントと性搾取は深く結びついてしまっているために、性搾取が後退するとコミットメントも後退する。近年、村上春樹はインタビューなどで「社会的発言」を以前よりは積極的に行うようになった。その発言の大半を僕は政治的に支持するが、そこにとりわけユニークな視点や深い問題理解は感じない。それは至って凡庸なものだ。つまり作品世界におけるコミットメントのかたちの模索の放棄を、現実世界での凡庸な「社会的発言」が埋め合わせているのだ。社会的発言はもっと、もっとあっていいはずだがそれには小説の内容が伴っていて欲しいと考えるのは、作家に対しての要望としては正当なものだろう。

無自覚な老人小説

本作はおそらく無自覚な老人小説である。要するに、かつてのように性愛を軸にアイデンティティを維持し、社会にコミットできなくなった老人が中年を装って自分探しをする……それがこの小説の正体だ。そしてこの構造におそらく村上は十分に自覚的ではない。

そもそも加齢は人間に総合性を要求する。アイデンティティの中核に性愛を置いていた人間は加齢とともに心身的にその追求が難しくなる(少なくとも欲望は減衰する)。職業を通じて経済的に世界に関与することを重視していた人間も、キャリアによっては組織からの引退(定年)や体力の低下による撤退の可能性に晒される。要するに加齢は人間にある回路だけを通じた、一点突破型の社会とのつながり、アイデンティティの形成を難しくするのだ。だから老齢化は人間に分散型の、さまざまな回路を通じた「総合的な」社会との接続とアイデンティティの形成を要求する。

いま、村上が直面しているのもおそらくこの問題だ。イデオロギー(共同幻想)から背を向け、性愛(対幻想)を中核にアイデンティティを形成してきた村上春樹的なアプローチは、加齢とともに維持が難しくなっていっているのだ。

しかし、僕は思う。これは村上にとっては作家として進化する契機なのではないか。最後に僕なりに村上が乗り上げた巨大な暗礁からの脱出口について考えてみたい。

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