無思想はなぜヤバいのか|小野ほりでい
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無思想はなぜヤバいのか

ヤバい思想、と言われると皆さんが思い浮かべるのはなんでしょうか。ファシズムや全体主義?差別主義?優性思想?それとも宗教的原理主義?

この世に数多ある危険思想のなかで、ユダヤ人哲学者・思想家のハンナ・アーレントが最も重大視したのは「無思想」でした。

無思想、ノンポリ、無宗教…という「無属性」なステータスを自認していることは私たちの国では取り立てて珍しいものではありません。実際、多くの人は自分は「偏った考え方」に染まっておらず、「普通の感覚を持った/普通の日本人」であるというふうに考えています。よく異文化から揶揄されるように私たちは、「他の人と違う」ことに漠然とした恐怖を持っており、「普通であること」、そして「特定の立場や意見を主張しないこと」によって他の人たちとの温かい連帯関係の中に存在できます。

しかし実のところ、この「自分は普通の感覚を持っている」という自認こそが危険な状態だ、というのが今回のテーマです。



さて、無思想とはいったいどういう状態なのでしょうか。自分のことを「無思想」だと思っている方は胸に手を当てて考えてみてほしいのですが、人間が何らかの活動によって生きている以上、本当に「無思想」などという状態はあり得ません。自分がどのような思想を持っているかは、そもそも様々な他の思想を知って、それらと相対化しなければ分かりません。私たちは生きている以上は、何らかの考え方に同調するか、無自覚に実行することで何かの思想を体現しているのであり、その中には「自分は哲学や考え方なんて全てどうでもいいと思っている、ただ糧を得て生きているだけだ」というような考え方も含まれます。

「無思想」という状態は、わかりやすく説明すると次のようなものかもしれません。



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△白米原理主義の世界


たとえば私たちは白米という、お米の粒を脱穀してふっくらと炊き上げたものを「主食」として食べています(そうでない人もいると思いますが、たとえばの話です)。「ごはん」というつぶつぶを、他の国や文化からすると信じられない量や頻度で食べていて、時にはそこに生卵をかけたり、生の魚と一緒に食べたりします。冷静に考えるとすごいですね。しかしそれは「当たり前」のことになっているので、ふだんは意識しません。

一方で、世界にはパンやとうもろこしや芋や、パスタやバナナやら色々なものを「主食」としている文化が存在します。私たちにとって「お米を食べること」は「普通のこと、すなわち無」であり、「バナナをごはんとして食べること」や「おいもを毎日食べること」ははじめて「何かを主食にする」というアクションとして映ります。「毎日狂ったようにお米を食べている自分」のヤバさには無自覚であるのに、「毎日おいもをふかして食べてる」とか「バナナを主食にしている」ことは奇異に、特殊なものに思えます。自分が既にしていること、すでに考えていることは当たり前だから「何もしてないこと」になり、そうでない人は「意図的に・不自然に」何かをしていたり、考えているという潜在的な偏見が生まれるわけです。



あるいは、セクシャリティ論に例えたほうが分かりやすかったかもしれません。たとえばヘテロセクシュアル(異性愛者)の人ははじめ、男が女を、女が男を好きになるのは「当たり前で」「普通だ」と思っています。そして、同性愛や、無性愛、人間よりキャラクターが好き、無機物が好き…といった自分と異なる人を「特殊な性癖を持っている」と考えます。このとき、異性愛者以外は「○○を好きになるヤバい奴」という性属性として捉えるわけですが、自分のことを「異性を好きになるヤバい奴」とは考えません。

ここで重要なのは、異性愛以外のカテゴリに属する人は、自分が何らかの性属性を体現していると否応なく自覚させられる一方で、異性愛という多数派に属する人は「わたしは異性愛者である」と意識する機会がほとんどない、というギャップです。

異性愛者は、年中米を食べている民族が米を食べている自分を自覚していないように、自分が異性愛者であることを意識していないために、異性愛者に与えられている権利に無自覚です。このために、性的マイノリティが「私たちにも権利を認めてほしい」というとき、その権利―――つまり自分の思う対象を好きになること、公にカップルになったり結婚すること、それらに対して妨害を受けないこと―――が自分に対しては当たり前に与えられていることに無自覚なまま反対することが起こり得ます。

これらの例えが適切だったかは分かりませんが、要するに無思想とは本当に思想がないのではなく、「自分の持っている考え方が普通だという前提から、自分がすでに内在化している思考が”空気のように”見えなくなってしまい、自分がなにも考えていないと錯覚している状態」だといえます。



無思想は全体主義的である


ある人がほんとうに無思想やノンポリであるというのなら誰かに働きかけたり異論を唱えるということもないはずですが、実際には無思想やノンポリを標榜する人ほど言論においては「誰かを黙らせよう」とするという、究極に全体主義的な振る舞いを見せることがあります。

これは、無思想を標榜している人が、自分は「何も考えていない」と自認していながら、実際には「透明化した考え方」を内在化していて、それを他人に押し付けようとするために起こる現象です。

皆さんは、「太宰メソッド」という言葉をご存知でしょうか。これは「人間失格」のなかで、「それは世間が許さない」という言い方で自分を諌めようとする友人に対して、主人公が「(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)」と勘ぐる描写から取られたスラングです。この造語は主に、自分が許せないことに対して「誰かが不満に思うだろう」と表現することで、自分の立場を明かさずに批判するという手法に対して当て嵌められます。

無思想者が誰かに対して何らかの価値観を押しつけていながら、自分は「特定の価値観」に染まっていないと考えられるのは、実のところ自分ではなく「内在化された他者」、すなわち世間とか常識といったものに自分の感情を代弁させているからだと言えます。

無思想者は、何らかの偏った、あるいはステレオタイプな考え方を「常識」とか「世間」の声から借りてきて誰かにそのまま押し付けようと試みますが、そこでその考え方をコピー&ペーストしている自分はもともと存在している考え方を伝聞しただけだから「自分の考え方」ではないと欺瞞します。この欺瞞に勘付いたのが「人間失格」の主人公だったのでしょう。

何らかの考え方を持ち、意見するということは、自分が他者との「相対性」の中に置かれるということを意味します。しかし、無思想者は誰とも対立しない「温かい連帯」の中にいることを望むため、自分の意見を「自分のもの」として言う責任を負いたがりません。そのために、「世間の常識」とか「変えようのない現実」のような不動の真理の力を借りて「自分の言いたいこと」を言うわけです。(リアリストはこれに近い性質を持っています。)

無思想者は、誰かと意見を異にしたり、対立することを根底では恐れているために、「私はあなたと対立しているわけではないが、世間ではこうなっているだろう」と伝えることで、相手と対立せずに対話を試みます。そうすれば、反論を受けたとしてもその矛先は世間や常識になるので、自分が傷つかなくても済むと考えるのです。



「普通」から外れる恐怖


しかし、一般に無思想者を突き動かしているのは「普通」から外れることへの恐怖や、自分はもしかすると「普通」ではないのではないかという疑念・苦痛です。無思想者は、意見を言うと「普通」ではなくなる可能性があるため、本当は意見を言いたくありません。しかし、自分と全く異なる意見を目にしたり、それが支持を得ていると、自分が「普通」ではなくなるという恐怖に駆られるために、攻撃してその意見を消滅させようと考えます。

無思想を標榜する人や、自分のことを「普通」だと思っている人が客観的には挑発的であったり、攻撃的である場合が多いのはこのためです。つまり、これが普通の考え方であり、この考え方に従っている限りは自分は「普通」でいられるという安心感を頼りにしている人は、色々な考え方が生まれて、自分が頼りにしている考え方が古くなったり、相対的な位置に置かれることを恐ろしく思います。そこで、自分の考え方を「普通」ではなくしようと試みる異分子に攻撃を仕掛けることで、自分が「普通の感覚」として吸収している考え方が今でも通用するという前提を守ろうとします。

ノンポリや無思想、「フラットな感覚」を持った「普通の自分」という像を精神的安定の支柱にしている人にとって、意見や新しい正しさで氾濫する今のインターネットは恐らく地獄でしょう。

マイノリティはまず、自分が「何らかの特殊な立場」にあることを自覚させられ、「普通」という集団から蹴落とされることからスタートします。その結果、自分と異なる立場にある人たちや集団の存在を容認すること―――つまり、イモを食べる人たちやバナナを食べる人たちが互いに相対的な正しさにあり、それを尊重し合うことが重要だと気付かされます。これはマイノリティであることの最大のメリットだといえます。

マイノリティは、「自分とは異なる立場にある人が尊重されている状態が、自分が尊重されることと同様に重要である」ことを学んでいます。なぜなら、「お米ではない」という理由でイモを食べる人が弾圧されているのを見過ごしたら、その弾圧の矛先はいつバナナを食べている自分に向いてもおかしくないからです。

一方、自分は「普通」であるという感覚を拠り所にしているマジョリティは、立場の異なる人々、異なる意見の存在に脅かされ続けます。はじめに自分を相対化されてしまったマイノリティは、自分ではない誰かが尊重されることが「自分が尊重されること」と同じ意義を持っていると考えられます。一方で、マイノリティと自分を「相対的な」関係に置いていないマジョリティは、自分ではない存在(や意見)が尊重されることが、「自分の立場が軽んじられる」ことと同義になってしまうのです。全く反対ですね。



当たり前ですが、意見を言えば批判や反論が飛んできます。意見を言わない人の多くは、批判や反論を受けることの苦痛を想定して、「何も言わない」ということによって受けられる温かな連帯のほうを選んでいるのでしょう。温かな連帯の中にいられるということが、無思想であることの唯一で最大のメリットです。

私たちの文化には、「意見や思想を表明しない」ことによって「普通」でいられるという同調圧力が存在しており、思想や立場を表明した瞬間にこの連帯関係から蹴り出されるリスクが存在します。実際、自分の意見を言えるようになった人は、「あの人は変わってしまった」と当てこすりを受けるのを見たことがあると思います。

無思想の連帯では、自分では何も考えていない、すなわち常識や世間の声をそのまま他人に押し付ける態度が「普通」だということになります。この前提では、無思想者の間で定番になっている考え方だけが「思想ではない常識」になり、反対に特殊な考え方だと理解できる全てのものが「危険思想」になります。このために、無思想者は「普通ではない」という理由で全ての考え方を攻撃可能なのです。

意見を言うということは、この同調圧力によって成り立っている「普通」という集団から脱落し、ひとつの相対的な関係に置かれることを意味します。他者と相対的な関係にあるというのは、立場や意見の違う他者の存在に耐え得るということです。この関係が成立するためは、互いが「普通ではない」ということ、つまり「私もヤバいがあなたもヤバい」という前提が理解できている必要があります。

主体性とはこの「ヤバさ」のことであり、一般的な善―――たとえば人は殴るより親切にしたほうがいいとか、自分の利益ばかりでなく他人や全体のことも考えたほうがいいとか―――も「ヤバさ」の一種に他なりません。「普通」という幻想から墜落し、「自分の考えを持っている」ということのヤバさに着地することが、主体性を持つということなのです。

自分がヤバい人間であることを自覚すれば、他人のヤバさにも寛容になることができます。なのでみんな、安心してヤバくなりましょう。

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