
夏華族に追われた隼人たち#02
もう少し後代、晋代を語るとき、僕らは「衣冠南渡」という言葉に出会う。日本列島へやってきた渡来人について話すときに、よく使う言葉だ。今回は大陸内だけの話だが、この「衣冠南渡」から始めてみたい。
衣冠とは漢民の貴族・知識人を指す。4世紀初頭。所謂五胡と呼ばれる北方の人々が目覚ましく伸びたとき、西晋/夏華族は彼らに押されて南へ逃げた。それが「衣冠南渡」だ。
その、きっかけとなったのは八王の乱(291–306)だった。皇位継承をめぐり、西晋の王族は血で血を争う戦いに陥った。国力は大いに削がれた。その間隙を縫って五胡が中原へ爪を伸ばしたのである。西晋の民はむしろ彼らを歓迎した。王族らの近親憎悪が民を疲弊させていたからだ。結果、西晋は匈奴によって滅亡(316)まで追い込まれてしまった。これを「五胡十六国時代(304-439)」と呼ぶ。
夏華人たちは南へ逃げ、江南に東晋を興した。その初代皇帝は司馬睿だった。彼は西晋王の係累である。そして首都を建康(いまの南京)に置いた。中国は、長江を間に南北へ分断され、南北朝時代(420–589年)になった。分裂と混乱の時代である。

さて・・その長江以南へ逃げた夏華族だが、現地の住民はどんな形でぶつかっていったのか?
たしかに三苗の時代は終わっていた。当時、同地で唯一強かったのは楚の人々だった。しかしその勢力は長江中域に偏っている。長江下流はそれほど強くなかった。西晋/夏華族は、その下流へ進出した。
それでも同地に生きている人々は山岳地帯や周辺島々へ拠点を置き、東晋軍と立ち向かった。しかし長くは続かなかった。恭順か逃避か・・その判断へ追い込まれていったのである。
逃避行を選んだ人々は、さらに南へ、そして東の海上に広がる島々へ逃げた。こうして太平洋沿岸東にいたオーストロネシア人は消え去り、その末裔だけが海南島に住む黎族や台湾南のアミ族、ブヌン族、タロコ族という少数民族だけになった。西暦300年半ばのことである。
「五帝本紀」の時代に起きた夏華族拡大拡散の時と同じことが、ここでも繰り替えされたわけだ。太平洋沿岸に生きていた隼人(オーストロネシア語族)たちは、活きるべき土地と、我が"地祇"を失ったのだ。
・・この動きをミクロネシア側から見つめると・・こうした隼人たちの逃避行は、新チョモロの台頭の時代と見事に重ななっている。逃避して島々に広がった彼らがミクロネシア/ポリネシアの支配者になっていったのだろう。
いいなと思ったら応援しよう!
