絵画
2016年09月17日
春信とか写楽とか広重とか
山種美術館は今、
開館50周年記念特別展 山種コレクション名品選Ⅱ
という展覧会をやっている。
なにしろ入場切符が2枚あるので、先週に引き続いて今週も観に行った。
よほど楽しみだったのか、せっかくの休みの土曜日なのに、早くに目覚めてもったいない。
もっとも、先週見落とした、と言うのはしっかり見なかったという意味だけれど、それをあらためてじっくり観る楽しみももちろんあるけれど、その後のビールに期待が高まったのかもしれないが、それはまた別の話だ。
最近の展覧会は、何枚か撮影可の絵がある。
春の、渋谷の bunkamura ザ・ミュージアムの国芳国貞展でも最後の一室は全部撮影可だった。知らなかったのでカメラを持って入らなかったけど。
SNSなどで掲載して宣伝になればいいという心なのだろう。
近代美術館は、特別展は撮影不可だけれど、常設展と言うのだろうか、いつでも観られるものは撮影可だ。
国立博物館は、撮影してはダメなものが指定されているだけで、基本的には撮影可だ。
でも、こないだのギリシャ展はダメだったし、国立博物館で不可解なのは改装を終えた表慶館が館内撮影不可なことがたいへん残念だけれど、
独立行政法人にオレサマごときが何を言ってもごまめの歯ぎしりなので、言わない。
山種美術館のこの展覧会は、写楽の、
三代目坂田半五郎の藤川水右衛門
二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉
が撮影可だ。
先週は無荷物で見物したけれど、今回はカメラを持って入った。
刷り物だから、同じ意匠でも差が現れてそれがまた各作品の特徴になっているという。
それが判る絵が広重の東海道五十三驛の江戸出立・日本橋だ、と展示物に説明書きが添えてあった。
日本橋の左上の空に、雲が刷られているのが初期のもの、雲が削られて暈しだけになっているのがそれ以後のものだという。
山種美術館の日本橋はその初期のもので、国立博物館の日本橋は以後のものだということになる。
隣の空き地に囲いができたってねえ…
それを知ったおかげで、さあ気になって仕方がない。
品川から京師まで残りの54枚、全て空をチェックした。
たいへん専門的な見方をしたわけで、もはや見物ではなくて研究であろう。
どうりで疲れたわけだ。
ヒールが旨いに違いない。
が、それはまだまだ別の話である。
ちなみに、知ったふりをして五十三驛と書いたのは、絵の無い、文字だけの表紙も展示してあり、それに五十三驛と書いてあったからだ。
そうして、勝川春章の四代目岩井半四郎のおかるをじっくり鑑賞し、
んー、鑑賞なんてもんじゃないね、やっぱり、見物だねー、
それで鈴木春信の梅の枝折りも好いけれど、それよりも春信の色子と伴がとても好かった。
伴が、というこの場合の伴ってのは、おそらく箱屋のことで、箱屋と言えば、
浮いた浮いたと浜町河岸に 浮かれ柳の恥ずかしさ
花井お梅の明治一代女、そのお梅の箱屋の峯吉の、その箱屋のことである。
そんなん知るか、って話だろう。
その箱屋らしき伴の表情と足取りがとてもモダンで、芝居町の横丁を歩いている二人が鶯茶の幕を背景にした彩もよろしく、展示の中いちばんの好みであった。
が、絵葉書は無く、図録の中での扱いも小さい。
残念でならない。
写楽より、こっちを写させてほしかった。
と言うわけで、先週観そこねた感じがあった絵もたっぷり観て、結構な時間だった。
もちろんビールがたいへん美味しかった。
noonuki at 23:45|Permalink│Comments(0)
2016年04月18日
オレたちの、と言うから
オレたちの、
と言うと、
オレたちの松尾雄治とか、
オレたちのキャプテン・スティーブンジェラードとか、
あるいはオレたちのスキッパー・サムウォーバートンとか、
オレたちのセンター・ジェイミーロバーツとか、
まずそういうところが世界的常識と言うやつだろう。
しかるに。
俺たちの国芳 わたしの国貞 ボストン美術館所蔵 ときた。
オレと俺の違いはあるが、心惹かれるキャッチフレーズには違いない。
神宮前の用事が終わって次の用事までにぽっかりと空きができた時、たまたまその朝 Bunkamura ザ・ミュージアムの看板を観ていたとしたら、誰だって、それじゃあちょっと行ってみっかなー、という気持ちになるはずだ。
それで行った。
たまたま大雨の日でたいへん空いていたのでシメシメしめこの卯さ兎さと思って油断してのんびり観ていたら、同じような心持になった人が多かったと見えてワタシのあとに大デレゲーションが入ってきて、おかげでたいへん観づらい思いをすることになってしまった。
なにしろ刷り物だから画が小さいうえに、文字が入っていたり判じ物だったりするので、ついじっくりと観なければならないわけで、そうすると枚あたりの滞留時間が長くなって、しかも枚当たりの可鑑賞人数は数人に制限されるので、たいへん詰まる。
たとえて言えばワタシの腸活動なみであろうか。
ワタシのように芝居が好きな人間にとって半四郎とか幸四郎とか菊之丞とか彦三郎とか三十郎とか團十郎とか仁左衛門とか海老蔵とか璃珏とか三津五郎とか、そんな文字が書いてあろうものなら喜びの極みで、なるほどー、確かに幸四郎の鼻は高えやだの團十郎はみんな眼がでけえやだの、もう気持ち悪いほどにやにやしていたのに違いない。
間の悪いことにさすがはシブガヤで、そういう芝居好きらしいおばさまたちがいっぱい来ていたらしく、あちこちが連れにそういうことをお喋りしてるからますます詰まる。
米を食べなかった頃のワタシの腸活動なみである。
いろいろ気に入った画はあるのだけれど、とくに気に入ったのは国芳のこの画で、これは役者が壁に落書きをしましたという体の「荷宝蔵壁のむだ書き」という表題。
これを観ると、浮世絵の作法というのは様式であったということがよく解る。
当時の画家はたいへんモダンで、かつは大物と言えどもワタシどもと同じような感性であったということに、安心というとちょっと変だけれど、妙な連帯感を抱いた。
そして、やはり浮世絵はイラストレーションなのだなとつくづく感じたのであった。
そう言えば道頓堀芝居の楽屋風景と言うのが抜群に面白かった。
あれの絵葉書があったらぜひ欲しかったのだけど、展覧会では、だいたいワタシが気に入った画の絵葉書は売っていない。
「むだ書き」の絵葉書があったのは奇跡であろう。
黄金週間には図録がやってくる。
それが来たらも一度ゆっくりと眺めることにする。
空いていたらも一度観に行きたいんだけど、空くわけはないから無理か。
noonuki at 23:06|Permalink│Comments(0)
2016年04月13日
懐かしい画と20世紀の風神雷神
川口駅ホーム、ベンチの黒田清輝展のポスターの隣には安田靫彦展のポスターが貼ってある。
というより、安田靫彦展のポスターに気付いて、あっと、これはなんだな、行ってみたいな、と眺めながら思っていたら、あれ、なんだ、黒田清輝展もやってるのか、じゃあこっちも行ってみっかなー、という意識の展開だったのである。
安田靫彦という名前は知っていたけれど、作品をほとんど知らない。
それなのに行く気になったのは、
「飛鳥の春の額田王」
という画だけは昔から知っていたからだ。
このポスターの右の画がそれだ。
井上靖の現代ものは面白くないわね、と、近所の小母さんがワタシに言ったのは、ワタシが「しろばんば」とか「夏草冬濤」とか「北の海」が好きなことを知ったからで、と言っても北の海はもっと後に単行本になったので、夏草冬濤までの頃だから中学生の頃だったと思う。
もちろん「面白い」方の西域ものはワタシも好きなので、そっちの方が話の切っ掛けになったのだけれど、その後のワタシが幾度も読み返したものと言えば夏草冬濤と北の海で、だからどうしたって井上靖の代表作と言うとそちらを挙げたくなる。
その「面白くない」現代ものではなく、かつ西域ものではない「面白い」ものが「額田女王」だと言って言えないことも無い。
額田女王はサンデー毎日の連載小説で、ワタシは文庫本になってからの読者だったけれど、その本の表紙が安田靫彦の飛鳥の春の額田王であった。
それで気になって調べたのだけれど、飛鳥の春の額田王が表紙になったのは単行本のようでもある。
とすれば、ワタシはもしかしたら単行本を読んだのかもしれない。
知れないが、少なくとも今のワタシの書棚には無い。
人と言うものはいつだって記憶違いがあるもので、
ジンカンイタルトコロニセイザンアリという話でもあるね。
有青山で思い出したけれど、港区の青山は墓地があるから青山なのだと思っていたら、青山氏という徳川の家臣の屋敷にちなんだ命名らしい。
隣の空き地に囲いができたってねえ。
さてその青山氏は三河国額田郡の出身なのだそうだ。
隣の空き地にでででーっかい囲いができたったねえ。
もちろん額田王の額田は奈良の平群の額田に由来するのだろうが、愛知の額田は額田部氏の領地だったことに由来すると言う説もあるし、額田部氏と言うと関わり合いがあるかどうか全く知らないけれどヌカタベノヒメミコというのは推古天皇のことだし、と言うことになってくるともう話があっちこっち行って判らなくなるわけで、そういう面倒なことが多いので古代史は苦手だし嫌いなのだ。
ワタシどもの宇宙のことは、重力と電磁力と大きな力と小さな力という四つの力で全て説明が付く、と言われた方がよっぽどマシである。
うん、解り易いね。
そういう、むかし取った杵柄に近い話を持ち出したのはポスターを観た時の心の動きを説明づけるためなのだが、なんにしても懐かしい画が観られると思ったので千鳥ヶ淵の花見のついでに、東京国立近代美術館に行ったのであった。
まあ、曇ってどんよりした空だったけれど、花はほぼ満開でたいへん結構だった。
そのおかげか、美術館の中はさほど混んでいなかったので、ゆっくりとはいかないけれど、まずまず自分の観たいものには観たいだけの時間をかけて観ることができた。
そうして、前期後期の展示替えの予定を観ると、飛鳥の春の額田王は後期の展示となっているのでその日は観ることができなかった。
そう言うことを、残念だったとかタイミングの悪いやっちゃなどと言ってはいけない。
一昨日だか、ワタシの前を歩いているサラリーマンの立派なショルダーバッグが突然スルスルと落ちてしまった。
驚いてつい立ち止まったら、どうやらショルダーストラップの取付けパーツが本体から外れてしまったらしい。
パッと観たところそんな悪い品物じゃなさそうだし、身なりもしっかりした中年だし、つまりそういう世間で幅を利かせるとまではいかなくとも、少なくとも後ろ指を指されることが無いような人でも、カバン取付け部品の縫い付けが取れることがある、というそのことである。
ワタシはこれまで、そう言うことは全てワタシの不徳の致すところまたは運の無いが故のワタシにのみ起こることだと思ったけれど、決してそうではないようだ。
今朝も、電車の中でワタシの前に座っていた高等教育の先生かなと思しき初老の紳士が椅子から立ち上がった時に、肩掛けカバンからペットボトルと文庫本が落ちた。
すぐに気付いたから拾って失くし物にはならなかったけれど、あれはつまりカバンをきちんと閉めていなかったことによる落下である。
あのような立派な人でもカバンから物を落とす。
つまりそのことなのである。
人はみなワタシが物を失くすと、やれまたか、それ noonuki はいつもカバンのふたを開けているからだ、いつだって自分の置いたものが解らなくなるなんてのはお前だけだ、と散々にワタシを責めたてるが、ああして世間をはばかることなく生きている方でも、カバンのフタを閉めないし、物は落とす。
あのまま出て行って失ったか失わなかったかという、ワタシとの違いはそれだけであろう。
だから、たかだか一いちばん観たい画を観られなかったからと言って残念だと言ってはいけない。
ジンカンイタルトコロニセイザンアリ、なのである。
いつだってどこにだって、落とし場所はあるってことだ。
ほぼ年代順に展示してあるのだけれど、画家二十歳のころに一大転機があったようだ。このころ、色の載せ方が大胆に変わった。
とてもきれいな色で、しかもぼんやりしていない。
この後もしばらくはそういう画風のように思えるので、そのころに開眼したのかもしれない。
そういう時期の画がたいへん気に入った。
気に入っても残念だけれど買えない。
もっとも、買ったって曰くつきだから日の目を見ることができず倉庫に保管されていたところを発見された「杖を突いて座る男」なんてのもある。
買えなくても時々観られればそれで結構。
画家と言う人たちは風神雷神を描きたくなるものらしい。
さすがに20世紀になると、風神雷神もソフィスティケイトされ、虚飾を配している。
今は誰だって雷が太鼓の音だとは思わないものな。
そういえば、わざわざそういう格好をして42.195kmを走る人をワタシは何度も観たことがあるのだけれど、やっぱり風神雷神というとこちらも気を入れて観たくなるというものだ。
だからと言って、エンブレムにまで使うことは無かろうと思うけれど、さてどうなることか。
noonuki at 22:02|Permalink│Comments(0)
2016年04月12日
生誕150年という黒田清輝の展覧会を観に行った話
東京国立博物館で特別展「生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠」をやっているというので、見物した。
モノを知らないワタシにとっては、黒田清輝と言えば切手である。
「湖畔」という画が券面デザインになっている切手趣味週間というシリーズの1967年発行の、額面と言うのかどうだか知らないが15円の、大きなサイズの立派な記念切手だ。
当時小学生の間では切手収集ブームで、みんなストックブックとシートブックと先っぽの平ったいピンセットを持っていた。
朧気な記憶では、父の友人が、ワタシが切手に興味があると知って高価な切手をあれこれくださったことが収集意欲が高まったようである。
また、父の弟という人が本格の収集家だったのでずいぶんいろいろと持っていたのだけれど、これに関してはちょっとつらい思い出があって、今これを書いていてふと思い出したような程度のことなのだけれど、思い出したら出したでなかなか胸をえぐるようなことで、思い出さない方が良かった。
それはそれとして、当時からワタシは収集家としては筋が悪くて、手に入れたらそれで醒める、と言うようなところがある。
いまワタシは始終写真を写すけれど、そのほとんど全部が無駄になる。
このブログに載せるだけが活用方法で、載せるものを選んでしまったらもうほとんど観ない。一眼レフカメラなんか持っているだけで無意味なようなものである。
それと同じようなことが切手でもあって、自分のストックブックに納めたら、あとはどうでも良いような気配があった。
級友には切手を集めているのが随分いたから、流行っている時はもうほとんど毎日学校では切手の話ばかりで、放課後は何人かで隣の学区にある切手屋さんに買い出しに行ったり、あるいは誰かの家に集まって交換会なんてことをやっていたようである。
たいへんに熱心な収集家の級友が、noonuki の持っている写楽の海老蔵がほしいと言うので、それはやらない、と答えたのは、まあ当時切手屋さんに行けばどれくらい値打ちがあるか判っていたからだけれど、いま一つには父の友人からいただいた切手の内の一枚でもあったからで、そういう恩義のあるものを交換会などで交換してはいけないと言うていどの判断力はいくらワタシが間抜けでも、あった。
だが、ついに大阪万博の記念シートが売られた頃、どう言う塩梅か知らないけれど、記念シートのカバー台紙には青と緑とがあったようだけれど、そのうちの青のカバー台紙のエンブレムが、ワタシの持っているのは銀色だった。
あの当時のことをすっかり忘れているのだけれど、カバー台紙が金色なら中のシートのエンブレムも金色、カバーが銀色ならシートも銀色と、だからたぶん青と緑それぞれ金銀の4種類あったらしいのだが、ワタシはそこのところをよく知らないで青と緑をそれぞれ一つずつ持っていたようである。
その熱心な収集家はワタシに、おまえのは銀色セットだから価値が低い。
幸いオレは金色セットを10組持っているので、そのうちの一ト組をオマエにやるから、だから海老蔵をくれ、と持ちかけてきた。
そう言われるとたしかに銀色は安そうで、なんだかガッカリである。
そうか、それなら金色セットを持っていた方が良いだろうと、ついに心が動いて交換したのだけれど、そもそもその交換に価値の公平性があったかどうか、それは判らない。
もしかしたら、金色セットプラス何か、と言うような取引だったのかも知れない。
それはそれで納得づくだから構わないのだけれど、家に帰って見たら、カバー台紙は金色だったけれど、中のシートは銀色だった。
なんと言うのか、あー、たしかにそういうことをしそうな奴だな、と思ったのだけれど、そのあたりからワタシは切手収集の興味を失い始めたようだ。
すると今度は母親が集め出して、記念切手が出るごとに郵便局の人が売りに来て、母親が毎度シートで買っていた。
笑ってしまうのは、その母親もそのうち飽きて、と言うのも、ワタシが興味があるから買ったのだろうがその張本人が切手に見向きもしなくなったのだから張り合いも無かろう、そんな買い物はしなくなったのだけれど、やがてあちこちに送る封書に記念切手をぺたぺた貼って投函しだしたのはほとんどがシート買いで集めたものだったわけで、やがて郵便料金も右肩上がりの時代だから一通に数枚貼って出すのだから無くなるのも早いらしく、今ではそのシートが全く無いので驚いている。
これを書くので抽斗から古いストックブックを取り出してみたけれど、絵柄が大好きだった東海道線電化完成記念 EF58 牽引の特急つばめ号青大将とか、ビードロを吹く娘とか、ワタシが適当に交換したのだか母親が使ったのだかちっとも判然としないけれど、無かった。
そんな中に、とようやく本題に戻すけれど、黒田清輝の「湖畔」があった。
もちろんストックブックには無い。
博物館の平成館のラウンジには、「湖畔」の画からモデルの照子さんを除いた背景がぶる下がっていて、手前の石に腰を掛けて写真を撮れば即ちあなたがモデルの「湖畔」となりますと言うわけだが、まあ、照子さんになろうと言う人は少ないようである。
黒田清輝の切手は「湖畔」の他にもあるけれど、「湖畔」が一番古いし「湖畔」ほど印象に残ってはいないし、そもそもワタシの黒田清輝に関する知識はその程度で、展覧会を見学しても、画よりも、
SEYKI KOVRODA
という署名や、
源清輝
という署名に激しく目を奪われた。
ワタシのような世間の隅を這いずりまわって口に糊している人間にはよく解らん心理である。
良い見学者では無かったけれど、一枚の絵を描くのに、区分ごとのデッサン、そのうちのある部位の、たとえばそのほとんどは手だけれど、そのデッサン、色を塗った下画きと、実に多くのリハーサル絵画があることにおおいに感心した。
偉い人に対してワタシごときが言える言葉ではないけれど、まあ、さすがに一流の人はやることが違うものである。
それにしても、やはり手を描くのは難しい。
黒田清輝ほどの人でもやはり手は難しかったのだろう。
もちろんその下描きだか習作だか、それらを観ても、手を描くのが苦労などと思うようなレベルのものではもちろんないのだけれど、枚数の多さにそんなことを思った。
noonuki at 23:47|Permalink│Comments(0)
2016年03月02日
南アルプス市にて
ほんの今、気づいたことがある。
今年は正月に国立博物館の新春展示で北斎の凱風快晴を観た。
つい先日、八王子市夢美術館でますむらひろしの北斎展を観た。
とうぜん凱風快晴もある。
そうして今日は、本物の富士を観た。
今年は富士に縁があるらしい。
なーるほどー。
たしかにほんものの富士は、
東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山
では無いかも知れない。
そのかわり、豪壮である。
goso
中学校の時に、夏休みに英語劇を練習した級友がいて、しきりに
How about GOSO.
と言うセリフを練習していた。
強訴してはどうだんべえ、とでもいうところだろうか。
訪問先の帰り、門を出て道に出たら正面がこれだ。
なんてこった、おーまいがー。
その前まで、富士は東京のものだと思っていたが、
富士は山梨のものかも知れない、と思った。
市の名前はもうどうでもいいっす。
noonuki at 21:09|Permalink│Comments(0)