『とはずがたり』TOWAZUGATARI(上) を読む
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『とはずがたり』TOWAZUGATARI(上) を読む

鎌倉時代、後深草院御所に仕えた上臈女房が書き残した作品です。前編は衝撃的内容が問わず語りされる中世王朝物語、後編は西行に倣った修行の旅の記となっています。異色の日記文学を読んでいきます。

『とはずがたり』 巻1 三四 大宮院と院、斎宮に対面  (全訳)

 三四 大宮院と院、斎宮に対面

 夜が明けますと、大宮院の方から斎宮の方へお迎えの人を差し上げようと、牛飼(うしか)い、召次(めしつぎ)、北面の下﨟(げろう)などが参ります。御所さまは、斎宮に対面なさるというので格別に心をお配りになってご装束の準備をなさいました。


吾亦紅(われもこう)を織った枯野(かれの)の甘(かん)のお召し物にりんどうを織った薄紫色のお召し物、紫苑(しおん)色の指貫袴(さしぬきばかま)をお召しになって、それに香をたいそう薫きしめておられます。


夕方になって斎宮が大宮院の離宮にお着きなるとの知らせがありました。離宮の正殿の南面を明けはなして広くし、薄墨色の几帳をとり出され、小几帳(こきちょう)などが立てられております。


大宮院と斎宮が御対面になる頃になりますと、大宮院から女房をお使いとして御所さまへ
「斎宮がおいでになりましたが、私だけではあまりに愛想もなく淋しいようですので、どうぞおいでになられてお話なさいませ」
 とのおことばがありましたので、御所さまはすぐにお出かけになりました。私も御太刀(たち)を持っていつものようにお供をしてお手伝いをいたします。


大宮院は顕紋紗(けんもしゃ)の薄墨色の御法衣、鈍色のお召し物を上にひきかけなさって、前に同じ色の小几帳を立てていらっしゃいます。斎宮は紅梅色の三枚重ねのお召し物の下に、青い単衣(ひとえ)をお召しになっているのが、かえってうるさい印象を受けました。


お世話役としてお仕えする女房は、紫をぼかした五枚重ねの衣(ころも)を着て、唐衣(からぎぬ)や裳(も)(盛装の時に腰から下にまとう衣服)はつけていませんでした。


 斎宮は二十を過ぎておられ、十分に御成熟し整った御容貌は伊勢の神が名残りを惜しんでお引き留めなさったのもごもっともと思われ、花ならば桜にたとえても、はた目には恐らく優劣はあるまいと思われるほどでした。


その花のようなお顔を霞ならぬお袖でかくしておられる間も、もどかしさを感じさせるほどの美しいご様子なので、ましてこの上なく色好みである御所さまのお心の内は、早くもどのような悩みの種になられることかと、はたで見ていて斎宮がお気の毒なようにさえ思われるご様子でした。

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『とはずがたり』 巻1 三三 前斎宮帰京、院大宮院に作者を語る  (全訳)

三三 前斎宮帰京、院大宮院に作者を語る

 ところで、前斎宮(さきのさいぐう) [伊勢神宮に奉仕した皇女で、前任者の意]とおっしゃいます方は、後嵯峨院の姫宮でいらっしゃいましたけれど、後嵯峨院の御服喪で斎宮を下りられましたものの、まだ正式に朝廷がお暇をお許しにならないため伊勢に三年まで御滞在でした。


その方がこの秋ごろでしたか、上京なさって仁和寺の衣笠(きぬがさ)というあたりにお住いでした。この宮は私の父大納言としかるべき縁故がございましたので、生前父がお世話申し上げたりいたしておりました。


伊勢への御下向のときには特にお世話申しあげたりしたことなどもおなつかしくて、人の出入りのまれなお住いもなんとなくお気の毒なように感じられまして、よく参上しては所在なさをお慰めなどしておりました。


そのうち十一月十日過ぎであったか、斎宮が大宮院とご対面のために嵯峨殿の御所へおいでになるというので、大宮院から御所さまの方へ
「私一人ではあまりに無愛想でしょうから、こちらへお出かけ下さいませんか」
 とのお誘いがございました。


後嵯峨院がお亡くなりになった後の御政務のことや、東宮(とうぐう)[皇太子で次期天皇]決定までの騒ぎのころには大宮院も御所さまに対して打ち解けなさることがございませんでしたけれど、近頃は大宮院からたびたび親しくお話などなさっておられますので、御所さまはこのたびまたとかく申し上げるのもよくないだろうというわけで、お出かけになることとなりました。
「おまえは斎宮の方へもお出入りが許されている者だから」
 とおっしゃいまして、私一人が御所さまのお車に同乗して嵯峨の方へ参ることになりました。
 

私は枯野色の三枚重ねの衣に、紅梅の薄衣(うすぎぬ)を重ねて着ました。御所さまの若宮が東宮にお立ちになられて後は、御所ではみな正式の唐衣(からぎぬ)を上に着ましたので、私も赤色の唐衣を重ねて着ました。他に台盤所(だいばんどころ)の女房はお連れにならないで、ただ私がひとりお伴申し上げたのでした。   


 大宮院の御所にお着きになって、母上である女院と打ち解けた世間話をなさるついでに、御所さまが、私のことを、
「この子は幼い頃から私が養い育てましたので、それ相応に宮仕えも物慣れております。それでこのように連れておりますのを、東二条院(後深草院の正妃で、女院の妹)の方ではそれを違うふうに取られまして、この二条の出入りを差し止められなどしましたけれど、私までがこれを見捨てる理由もありません。


この子の母 典侍大(すけだい)といい父の雅忠(まさだた)といい、私に対して忠勤を励んでくれた者たちの形見なのですから。また、この子の面倒を見ていただきたいとの遺言もありますれば」
 などと仰せになりましたので、大宮院も、
「本当に、どうして見放されてよいものでしょうか。それに宮仕えというものは、物慣れた人がよいもので、そういう人がしばらくでもおりませんと不便なことでしょうから」
 とおっしゃられまして、


私に対しては
「何事も遠慮しないで私に相談しなさい」
 とお情け深いおことばをいただきました。
けれども、このような有り難いことがいつまで続くことだろうとも、一方では不安に思われたことです。


 今宵はのどかにお話などなさって、御所さまはお食事も大宮院の方でご一緒にお召し上がりになりました。夜が更けたのでお休みなるというので、蹴鞠(けまり)のお庭に面したお部屋の方へとおいでになりました。その日はごく人少なではありましたが、西園寺の大納言 [恋人では雅名「雪の曙」]、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)、為方(ためかた)、兼行(かねゆき)、資行(すけゆき)などが宿直(とのい)(宿泊勤務)に御奉仕しておりました。

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『とはずがたり』 巻1 三二 東二条院の不興  (全訳)

 御所での生活は、兵部卿である祖父隆親(たかちか)の手配で装束などの世話を受けますのも、ただ例のようにおざなりな形式だけのことではありましたけれど、万事に後見役(こうけんやく)となってくれるというのはうれしいと言うべきでしょうか。


しかし、若宮がお亡くなりになってからはあの方雪の曙の罪と、我が身の過ちがつくづく気に掛かります。ただ無心にほほえまれた若宮のお顔が御所さまにそっくりでしたのを、御所さまがお忍びでいらしてご覧になり、
「ほんとうに鏡に映るわたしの顔にそっくりだなあ」
 などと仰せになられたことなどを思い出し始めますと次々と悲しいことばかり考え続けられてしまいまして、気の晴れようもなく暮らしておりました。


 そのうち、どういうわけか私の方にこれという過失もなく、別段思い当たる節もないのですが、東二条院様の方へのお出入りを差し止められまして、出仕者の名簿から名札まで削られたりで、いよいよ御所勤めも気が進まなくなってきました。


御所さまは
「だからといって、わたしまでがそちを見捨てはしないのだから」
 などとおっしゃってくださいます。とにかくいろいろと煩わしいことがあるのもつまらなくて万事引き籠もりがちになっておりましたが、それはそれとして私を不憫に思って下さいます御所さまの御志にひたすらおすがりして、かろうじて出仕を続けておりました。


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『とはずがたり』 巻1 三一 院出家の用意、東宮決定により中止  (全訳)

三一 院出家の用意、春宮決定により中止

 この秋頃でしたでしょうか、御所さまにおかれましても政治向きのことでひどく御不満がおありでした。亀山天皇が後院の別当を置かれて譲位なさったあと院政を執られるというのも、御所さまにとっては面子(めんつ)にかかわるというので、太上天皇(だいじょうてんのう)[天皇譲位後の尊号]の宣旨(せんじ)を朝廷へお返し申し上げて御自身は御出家なさろうと、御随身(みずいじん)たちを召し集めて皆に当座の手当をお与えになってお暇を出されました。


久則(ひさのり)一人だけ後始末のためにお残しになり、御出家のお供の人数もお定めになられた中で、「女房では東の御方と二条」とお決め下さったのは、私にとりましてはこうした色々不幸な出来事の中でも却って喜ばしい出家の機縁になろうかと思ったものです。


 ところが、鎌倉幕府から御所さま方の御不満をいろいろおなだめ申し、東の御方ご出生である若宮が東宮[皇太子]にお立ちになることに決まったことから御出家のことはとり止めとなりました。


御所の内もにわかに華やかになり、角(すみ)の御所に故後嵯峨法皇の御影(みえい)が安置されておりましたのを正親町殿(おおぎまちどの)へお移し申し上げて、角(すみ)の御所を東宮御所といたしました。


京極殿といって御所さまにお仕えしておりました私の叔母が改めて大納言典侍(だいなごんのすけ)として東宮にお仕えすることになりました。昔は新典侍殿(しんすけどの)と言っていた人です。亡き親の縁者ではありますが、私にはさして親密でもなかった方が今度の人事で出世するようなこともありました。


他にも何かと万事世の中がもの憂く思われまして、ただひたすら山の向こうの住まいばかりに心は通います。出家の生活ばかりにあこがれるのは、どれほど宿縁があるというのでしょうか。


 それでもやはりこの世を逃れ難いまま嘆きながらも過ごした年がまた暮れようとするころに、御所さまからしきりにお召しがありました。さすがにすっかり捨て切ってしまった御所さまとの御縁ではないので、ふたたび御所へ参上いたすことにしました。

 
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『とはずがたり』 巻1 三〇 皇子の死、出家行脚を思う  (全訳)

三〇 皇子の死、出家行脚を思う

 ところで去年生まれた若宮様は、その後叔父隆顕大納言が預かりお育てしてくれておりましたが、この頃ご病気のようだと聞きました。これは母である私の過ちの報いなのでよくないのではあるまいかと案じられてなりません。


そうこうするうち、とうとう十月八日でしたか、まるで時雨の後の雨の雫が露と消えてしまうようなはかなさで亡くなってしまわれたと聞いたのです。兼ねて覚悟はしていたとはいえ、そのはかなさに私はただただ呆然として、情けない思いと悲しさは一通りのものではありませんでした。愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に離別した苦しみと、この二つがただ我が身一つに集まってきたような思いでございました。


 幼い時にすでに母と死別し、成長して父を失っただけではなく、今またこのような悲しい思いをしなければならないとは、こうした悲しみの涙は誰をも恨みようのないこととしてただただ涙にくれるばかりでした。


 あの方との逢瀬(おおせ)を重ねるにつれ、お帰りになるその朝には名残りを慕って一人寝の床で涙を流し、彼を待ちわびる宵には夜更けを告げる鐘の音に、我身の悲しさのあまり忍び泣きの声を添え、待った末にやっと逢うことが出来た宵には更け行く時を知らせる鐘の音に、今度は世間に知られてしまうのではないかと不安になって悩むというぐあいでした。


 一方では御所を退出し里居(さとい)している折には御所さまの面影を恋しく思い、御所でお仕えしてお側にいるときは、他の女性をお召しになってお過ごしになる夜が多くなるのをお恨みしては疎遠になるのを嘆くといった有様です。


人間の定めとして、苦しみのみで明け暮れしている一日一夜に生ずる八億四千とかの妄念の悲しみも、ただ私一人に集まっているように思い続けられますと、いっそのこと恩愛に苦悩するこの世界に別れを告げて出家をし、仏弟子となってしまおうと思うのでした。


 九つの年だったでしょうか、西行の「修行の記」という絵巻を見たことがありました。片方に深い山を描き、前には川の流れを描いて、花が散りかかるところに西行が座ってながめながら、

 風吹けば 花の白浪 岩越えて 渡りわづらふ(ウ) 山川の水
 (風が吹くと、いっせいに散る桜の花びらで真っ白になった波が岩を越えて、谷川を渡ろうとしても渡りづらいことだよ)
と詠んだ歌が書いてありました。


それを見てから、うらやましくて、〈たとえ難行苦行はできないとしても、私も世を捨てて諸国を巡り歩く旅をして、春には花の風情や野辺に置く露の情けを慕い、また秋には美しい紅葉が散り、秋の暮れゆく恨めしさを歌に詠み、こうした「行脚(あんぎゃ)の記」とでもいうものを死後の形見に書き残したいものだ〉と思ったものでした。

現実にはこうして女として生まれたがゆえに、三従(さんじゅう)の境遇からくる憂苦を逃れることも出来ないで、親に従って日を重ね、君に仕えて今日まで憂き世を過ごしてきてしまったことは不本意な生き方であると思われて、つぎつぎ思い続けてただもう憂き世を厭(いと)う心ばかりが深くなり、出家したい気持ちがつのるばかりでした。

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『とはずがたり』 巻1 二九 女児を出産  (全訳)

二九 女児を出産

 世間の目も恐ろしいので、九月の二日でしたでしょうか、急に何かと口実をもうけて御所を退出いたしました。その夜、さっそくあの方も私の所へおいでになります。私が、
「どういたしましょう」
 と相談いたしますと、
「まず重病だと御所さまには申し上げなさい。次には人が近づいてはいけない病気だと陰陽師(おんみょうじ)が言っていると人々に言い広めるのです」
 など、側にいて言われますのに従いそのように院へ御報告し、周囲へ言い伝えも致しました。
 

昼は終日臥して過ごし、疎遠な人は近づけないようにして、気心の知れた侍女二人ほどだけを側に置いて、「湯水さえ飲まずに病み伏しています」と言わせておりましたので殊更見舞いに来る人もいませんでした。それにしてもこのような時にこそ父がいてくれたならとひどく悲しく思われたことです。


 御所さまへも
「お障りがあっては申し訳ございませんのでお見舞いなどのお使いもお寄越し下さいませんように」
 と申し上げていたので、時を見計らってはお見舞いの使いがあるだけになっておりました。このような配慮もいつかは露顕するのではないかと、行く末がたいそう恐ろしくもあるのですが、さしあたっては今のところ家の者も誰もが皆そうだと思い込んでいるようです。


叔父の善勝寺の大納言だけは、
「それにしても、このまま放っておいてよいものですか。医師はなんと言っているのですか」
 などと心配しては、度々見舞ってくれますけれども、
「この病気は伝染する病気ということですので、ことさらお目に掛かることはいたしません」
 と言わせて私は叔父に会いも致しませんでした。


それでも、気に掛かるのでどうしても面会したいとおっしゃっている時には、部屋を暗くして夜具をひきかぶり、あまり口もきかずにおりますので、それを大病らしいと信じて帰っていかれます。そうするのも本当に恐ろしいことではございます。

そのほかの人は誰といって訪ねてくる者もおりませんので、あの方はいつも私に付き添っておりました。また、御自身は春日大社にお籠もりをしていることにしまして、そのように世間には披露し、春日には代理の者をこもらせて「人からの手紙などへはおおよその返事をして、口外してはならぬ」
 などと従者(じゅうしゃ)にささやき伝えるのを聞きますのも、まことに心苦しいことでございました。


 こうしておりますうちに二十日過ぎの明け方から産気づいてきました。人にもそうだとは言えないので、ただ事情を知った侍女一人二人だけで、あれこれと気持ちだけはあわただしく準備をしています。もしこのお産で死ぬようなことがあれば後々までどのような浮き名を残すことになるだろうと思い、またあの方の並々ならぬ心情をみるにつけてもただただつらく悲しいばかりです。このようにして、その日はあまり取り立てて言うこともなく暮れてしまいました。


 灯火(ともしび)を灯すころからはいよいよ出産が近づいたと思われましたが、殊更魔除けの弦打(つるう)ちなどもいたしません。ただ夜具の下で一人苦しんでおりましたが、夜もふけて鐘の音が聞こえるころでしたでしょうか、あまりに苦しくて思わず起き上がろうとしますと、あの方が、
「このような時には産婦の腰を抱くとかいうことだが、そうしないためにお産が遅れているのだろうか。さあ、どう抱いたらよいのだろう」
 と言って、かき起こして下さる腕に夢中でとりすがった時、無事、赤児がお生まれになりました。


あの方はまずは良かったとほっとなさって、
「さあ、重湯を早く差し上げなさい」
 と侍女に指図なさいます。それを聞いて、そのような事を一体どこで覚えられたのかと世話する侍女たちも驚いております。
「ところで赤児は」
 と、火を灯してご覧になりますと、赤児はもう産髪(うぶかみ)が黒々としていて、今から目をぱっちりと開けていますのを一目見ただけで恩愛の情が通うものなので可愛くないはずはありません。


それをあの方は、側にあった白い小袖に押し包み、枕元に置いた小刀(こがたな)で臍(へそ)の緒(お)を切った後に赤子を抱いたまま、人には何も言わないで外へ走り出してしまわれたと見ただけで、それっきり私はふたたびその子の面影を見ることがなかったのです。


「こういうことならば、なぜもう一目でもあの子の顔を見せては下さらなかったのですか」 と、恨み言も言いたいのですけれども、ただだまってこらえておりますと、袖に押さえる涙はあふれるばかりです。戻ってきて私の様子にそれと気づかれたあの方は、
「まあいいではありませんか。よもやこれきりということはないでしょう。長く生きてさえいればいつかはきっとあの子に逢えることもあるでしょうから」
 などと言って慰めてくれます。


けれども一目眼を合わせた瞬間の赤児の面影は忘れがたく、あれは女の子であったものを、あの子を誰に渡し、その後はどちらの方へ連れていかれたのかさえ分からなくなってしまったと思うと、ただ悲しくてしかたありません。なんとかしてもう一度見たいと思うけれど、そういうわけにもいかないので、人知れずただ袖で顔を覆い声を押しころして泣くばかりでした。


 夜が明けるころ、御所へは
「たいへんに様態がよろしくなくて、とうとうこの明け方に流産いたしました。女の御子だということは見分けがつくほどでございましたものを」
 とご報告申し上げました。


「熱などが高いときにはだれでもそういうことがあると、医者も申しておる。気を付けて養生しなさい」
と、御所さまからたくさんの薬を下さるにつけても、ほんとうに恐ろしい気がいたしました。


格別あとの煩いなどもなくて日数が過ぎましたのでここにいた雪の曙も帰っていかれましたが、御所の方へは穢れ期間の百日が過ぎたら参るようにということでありましたので、それまではまずなすこともなくじっと引きこもっておりますと、夜々は一晩の隔てもないくらいにあの方が通ってこられますのも、いつとなく世間にうわさが広まっていはしないかとばかりが気にかかって心の休まるときもございませんでした。


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『とはずがたり』 巻1 二八 院写経精進、曙の子を懐妊   (全訳)

  二八 院写経精進、曙の子を懐妊

 年も改まりますと、御所さまはさっそく六条殿の御所で、写経する者十二人に『如法経』をお書かせになられました。


これは御所さまが昨年の、まるで夢の出来事のようであった後嵯峨法皇崩御にまつわる様々のことを思い起こされてなされたことで、人に迷惑をかけないようにと、塗籠(ぬりごめ) の部屋の中の品々で写経の費用もまかなわれました。


正月からは御自身のお指を切って血を出され、その血で故法皇が書きものされた紙の裏に『法華経』をお書きになるというので、この年は正月から二月十七日までご精進をなさっています。従ってこの間はお相手をする女性を召されるなどということも全くございませんでした。


 そうこうするうちに、二月末ごろから、私は気分がいつもと違うように思われて、物も食べられなくなりました。しばらくは風邪でもひいたのだろうと思っていました。ところがだんだんあの方と結んだ怪しい夢の結果、雪の曙の子を身籠ったのだと思い当たりました。


なんとも紛らわしようもないことなので、重大な罪の報いも思い知らされ心に秘めた悩みは言いようもないのですけれども、だからといって誰に懐妊したことを打ち明けることが出来ましょう。


 御所さまの御神事にかこつけて、ともすれば里にばかり退がっておりましたので、あの方も私の所へ始終やって来ていてそれと気づかれたのか、
「やはり、そうだったのですね」
 と言って、それからはいよいよ思いやりの深い様子で訪れてきては、
「御所さまに知られないですます方法があればなあ。どうしたものだろうか」
 と言いながら、そのための祈祷を次から次へと心を尽くして行ってくれるのです。


が、それも誰の罪だと言ったらよいのだろうと思いつづけられているうちに、二月の末からは御所の方へもたびたび参上しましたので、五月のころには懐妊四ヶ月ばかりであるかのように御所さまには御思わせ申し上げました。


けれども、本当はもう六ヶ月なのですから、その間の月の数の違いもこの先いつかは知られてしまうことだろうと思うと誠に心配なことでありました。六月七日でしたか、あの方は
「里にお退りなさい」
 としきりに言われます。


一体何事だろうと思って退出しましたところ、私のための腹帯を御自身で用意なさってお持ちになられたのでした。
「特別正式にと思いました。それも四月にすべきなのですが、つい世間をはばかって今日まで延びてしまいました。御所では十二日に着帯の儀式をなさると聞きましたので、これは私が格別に思い立って行うものですよ」
 と言われます。


その愛情の深さは並み一通りのものではないと、ありがたく思われましたけれど、一方では我が身の成りゆく果てはと考えますとただ悲しく思いました。


三日間は格別に、例のようにあの方が隠れて滞在しておりましたので、十日には御所に参るはずだったところ、その夜からにわかに病気になり気分も悪くなって、それも出来なくなりました。


 十二日の夕方になりますと、叔父の善勝寺大納言が前の御所さまの御子懐妊の時にならって、今回も御所さまからの腹帯を持ってやってきました。


以前には亡き父が、「お使いの方としてのおもてなしは」とあれこれ心配りなさっては喜び騒がれたと、その時のことが思い出されて涙の乾く間もありません。この悲しみは必ず秋に限ったものではなく物思う身には当然のこととは思うのですけれども、一月ぐらいでは済まされない日数の違いを、この先どのように辻褄を合わせたらよいものか思案のしようもないありさまです。


だからといって身を投げようなどと思い詰めねばならないわけでもないので、成り行きのままに日を過ごすにつけても、どうしたものかと思い悩むよりほかないままに九月にもなってしまいました。

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『とはずがたり』 巻1 二七 雪の曙と逢う、懐妊の兆の夢   (全訳)

二七 雪の曙と逢う、懐妊の兆(きざし)の夢

 十二月になりますといつも神事や何や彼やと、御所の方ではずっとお暇のない頃となります。私ごととしましても、年の暮れはなんとなく仏道の修行でもしようなどと思っておりました。


 そんな折、興ざめなものと言い習わしております師走の月を道案内として、あの方、雪の曙が思い立ったように私の所においでになりました。夜通し語り合っておりますうちに、『遊仙窟(ゆうせんくつ)』(唐代の小説)ではないけれども、「夜深いやもめ烏がうかれ声で人を驚かす」などと別れを惜しく思っているうちに、夜が明けきってしまいました。


「これでは今出ていくのは目立つことだろうね。帰るのも気恥ずかしくて」と言って私の部屋にそのままとどまっていらっしゃるのもそら恐ろしいことです。そう思いながらもそのまま向かい合って居りますと、丁度そこへ御所さまからのお手紙が届いたのでした。


いつもより親しみのこもったお言葉が多くしたためられてあって、
ぬば玉の 夢にぞみつる さ夜衣 あらぬ袂(たもと)を 重ねけりとは
(夢に見たよ。そなたがわたし以外の男と小夜衣の袂を重ねたとはね)
はっきりとそれだと分かる夢であったなあ」
 とあるのにはっとさせられて、いったい何をどのようにご覧になったというのかと気がかりに思われますけれども、どうして深く考え込んだようにご返事を申し上げられましょうか。


ひとりのみ かた敷きかぬる 袂(たもと)には 月の光ぞ 宿り重ぬる
(たった一人で寂しく片方の袖を敷き涙で濡らす私の袂には、誰でもない月の光だけが毎晩とまっていらっしゃるのです)
 我ながらしらじらしいとは思いましたけれども、このようにごまかしてご返事いたしました。


今日は一日中あの方(雪の曙)とゆっくり向かい合って居りますので、さすがに忍んでいるとはいうものの、側にいる者たちも、女たちだけは二人の仲を知ってしまったようです。そうではありますけれど「こういうことだ」などと誰も人に言うわけにはいかないので、これからもひそかに嘆き悩みつつ時は過ぎてゆくことでしょう。


 ところで、その夜本当に思いがけない夢を見ました。それは松を蒔絵(まきえ)にした漆塗(うるしぬり)の骨の扇に、銀の油壺を載せたものをそっとあの方が私にくださるのを、人に隠して私が自分の懐(ふところ)にしまうというもの。


それを懐に入れたところで目が覚めて、丁度その時暁(あかつき)の鐘(かね)が聞こえてきました。ほんとうに思いがけない夢を見たものだ、これは一体どういうことだろうと思っておりますと、そばにいるあの方も全く同じような夢を見たとおっしゃるのです。この夢は何の予兆(よちょう)なのだろうかと不思議に思われたことです。

『遊仙窟』→中国唐代の小説。張文成の作。文成が旅の途中、路に迷って神仙の窟に入り、崔十娘とその兄嫁王五嫂の歓待を受けた艶事を叙したもの。


        春1

『とはずがたり』 巻1 二六 作者、院の御子を出産   (全訳)

  二六 作者院の皇子を出産

 二月十日の夕方ごろから産気づいてきたようです。御所さまは何かとご心情よろしくない時期であり、私もこうした服喪中で万事晴々としない折でしたから、叔父隆顕(たかあき)の大納言が手配をして出産の準備などをいろいろ整えてくれました。


 御所さまからは御室仁和寺(おむろにんなじ)へ依頼されて、まず御室の御本坊で愛染明王の修法(しゅほう)を行われ、鳴滝の般若寺(はんにゃでら)では延命供(えんめいく)を、また毘沙門堂(びさもんどう)の僧正による七仏薬師の法を、いずれもその本坊でとり行われました。


一方、私の方では親源法印(しんげんほういん)に聖観音(しょうかんのん)の法を行わせたりなど、心ばかりの祈祷はいたしました。亡父の兄弟である七条の道朝(どうちょう)僧正がちょうど吉野の大峰から修行を終えて下りて来られたところで、
「故大納言が、あなたのことを気がかりだと私に頼んでおかれた言葉も忘れがたくて」
 と言われて私のお産祈祷のためにおいでになりました。


 そうこうするうちに夜中ごろから格別に苦しくなってきました。叔母の京極殿(きょうごくどの)が御所さまのお使いとしておいでになるなど、一応雰囲気だけは騒がしくなります。祖父の兵部卿(四条隆親)も来たりしまして、いよいよという状況になるにつきましても、このような時に、もし父大納言が生きておいでになったらと思うと涙がこぼれました。


 人によりかかって少しうとうとした間でしょうか、夢に父が生前と変わらない姿で現れて心配そうに私の後ろの方へ回り、私を抱きかかえてくれるようにしたと思ったとたんのことでした。「皇子(みこ)の御誕生」と申すべきでしょうか、滞(とどこお)りなく男御子(おとこみこ)が生まれましたことはたいそうめでたいことです。


 それにつけても、私の過ちはこの先どうなるのだろうと、この時改めて気にかかり始めて不安にもなり、溜息さえでます。御所さまからは内々にお守りの御佩刀(みはかせ)<皇子誕生の際、父帝から賜る剣>などの非公式ながら御下賜があり、験者(げんじゃ)たちへのお布施などもあまり仰々しくない程度に隆顕の大納言が取り計らってくれました。


 昔のままであったとしたら河崎の邸で父が面倒をみてくれたであろうになどとあれやこれや思い続けられ、何につけても父のことが思い出されてなりません。乳母(めのと)の方(かた)の装束なども早くも隆顕の大納言が用意して、弦打(つるうち)を初め次々と儀式などのことを執り行ってくれますのも晴れがましく思われました。


また一方でわびしくも思われましたのは 、御所さまとの夢のような出来事の結果として、自分の身を多くの人の前にさらけだしてしまうことになったことで、これについては神の御利益(ごりやく)による皇子誕生とは申せどうにもならぬことと困惑いたした次第です。

            
           ふくろう

<「とはずがたり」を読む> 令和6年度秋期講座  第8回

二五 雪の曙来訪、尼たちに贈物

今年も残りあと三日ばかりと思う日の夕方、庵主の真願房さまと向かい合って座り、他の年老いた尼たちを呼び集めて昔のお話などしておりました。


山里は懸樋(かけい)の水までが凍りつくほどの寒さ、向かいの山で薪を伐る斧の音だけが聞こえてくるのはまるで昔物語の中にいるような心地で、しみじみとした思いがいたしました。日が暮れ果てると、お燈明の光があちこちに見られます。


 夜の読経を終えて「もう寝ましょうか」と言っている頃になって妻戸を叩く人がいました。雪の曙がおいでになったのでした。私は「困ります。どうぞお帰りください。精進中に不謹慎な振る舞いは恥ずかしく、仏道の修行に功徳を望むこともできません。御幸ならばそれとして致し方ないことですけれど、浮気心の戯れ事ではいかがなものでしょう」と失礼なくらいに強く申して拒んだのでした。


 外は雪です。丁度その頃からひどく降り始め風さえ激しくなるなか、彼を入れまいとして言い争っておりますと真願房さまが間に入って戸の掛け金を外して彼を中に入れておしまいになりました。火まで起こして歓待なさるかのような御様子です。「この悪天候の中をわざわざお訪ね下さる方はそれぞれの志があってのことなのに追い返そうとなさるとは何事か」というのが庵主様のお考えでした。


 庵主様とてこのような夜に訪ねて来られる男性がどのようなつもりであるかはご承知の上のことと思われます。また二人の関係も当然予想がつくことでしょう。しかも二条は院の想い人で先日お忍びの御幸もあったことは御存じのはずです。にもかかわらず、掛け金を外してこの方を中にいれてしまわれる行為は一体どのような御考えなのでしょうか。


吹雪のなかに立ち往生させるような困難な状況からまずはお助けするのが先決で、この世の不道徳(不倫)な行いはここで人が妨げるか否かの問題ではないとの判断であったのでしょうか。お陰で二条のもとに忍び込むことが出来た雪の曙はそのまま夜が明けても馴れ顔で寝ておられる大胆さです。後深草院が夜明けとともにお帰りになって、すぐに後朝の文をお届け下さったのとは対照的で大胆不敵なご様子ではありませんか。


 やがて日が高くなるころになると彼の従者が寺の皆さんに付け届けする品々を沢山用意してやってきました。年越しの品は質素な暮らしの山寺を潤すものであり、庵主さまを初め尼僧たちに大層感謝されました。誰も誰も手放しで喜び、世間では非難されるはずの雪の曙の来訪を歓迎さえする様子です。


これ以上にすばらしいことはあろうかと思われる先日の帝王(後深草院)の御幸の際にはほんのわずかにお見送り申しただけで、「すばらしい」とも、「恐れ多いことです」とも言う人はいませんでした。
 これでよいのだろうかと二条は思います。お二方の来訪者に対する山寺側の歓迎の違いがどこからくるものであるか一目瞭然だからです。出家者の社会でさえ物質がものを言う現実を目の当たりにして、これが世の習いとはいえ全くいやになってしまったと書き記しています。


 大晦日には乳母たちが醍醐寺の方まで迎えにやってきて、二条は再び四条大宮の乳母の家に戻り、年が改まりました。御子の出産を控えた年の始まりです。

*秋期講習が終了しました。新年度の春期講習は「二六作者院の皇子を出産」から読んでいきます。


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プロフィール

雅忠女

Author:雅忠女
正嘉2年(1258)生まれ。父、村上源氏・久我雅忠〔中院大納言・正二位〕 母、四条大納言隆親の娘。
二歳で母と死別、四歳より後深草天皇の宮廷で育つ。十四歳から、後深草院に上臈女房として出仕、併せて院の寵愛を受けることとなる。三十二歳の時、出家のうえ諸国行脚の旅に出る(先人西行に倣った旅と跋文に記す)。

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