「虎に翼」のモデル・三淵嘉子が築いた、法曹界の「女性初」のキャリアとは
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朝ドラ「虎に翼」のモデル、三淵嘉子とは
2024年度前期のNHK連続テレビ小説『虎に翼』が好評だ。伊藤沙莉さん演じるヒロイン、佐田寅子(ともこ)のモデルは、日本初の女性裁判所長、三淵嘉子である。
ドラマでは、まだまだ圧倒的男性優位の社会のなかで奮闘し、法曹界に女性の活躍する道を切り拓いていく寅子の姿が描かれる。彼女は、「女らしい」女でもなければ、「母親らしい」母親でもない。同調圧力に屈しない強さがある寅子の喜怒哀楽に、若い世代からも共感が集まっているようだ。
では、実際の三淵嘉子はどんな人物だったのか。朝ドラ関連本のなかでも『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』は手軽に読める文庫(書下ろし)である。1914年にイギリス領シンガポールで生まれてから、1984年に亡くなるまでの嘉子の生涯を、ゆかりの人物や場所、当時の様子などの写真をはさみながらたどっている。
ちなみに嘉子は、最強の運勢を持つといわれる「五黄の寅年」生まれであり、「トラママ」というあだ名もあったらしい。まさにトラの威勢で道なき道を走り、苦労を重ねながらも輝かしいキャリアを築いた。著者の青山誠さんは歴史、紀行、人物伝記などを得意とするライターだ。
弟にとっての「ゴッド・シスター」だった嘉子
嘉子は、勝気でポジティブ、道理に合わないと思ったら「おかしい」といわなければ気が済まないキャラクター。これは、ドラマで描かれる寅子の姿と共通するようだが、なぜ大正の時代に、そのような性格の女性に育つことができたのか。ドラマでは描かれなかった幼少期に、そのヒントがありそうだ。
嘉子の父・貞雄は香川県丸亀市出身で、地元の名家・武藤家に婿入りし、武藤家の養女で一人娘のノブと結婚した。東京帝国大学法学部卒業のエリートだった貞雄は、勤務していた台湾銀行のシンガポール出張所へ、ノブを伴って赴任する。嘉子は、そこで生まれている。嘉子が2歳の時、ノブと嘉子は帰国するが、貞雄はさらに4年間の米・ニュヨーク勤務を経て帰国し、一家は東京に住み始めた。
嘉子には4人の弟がいた。家族のなかで、彼女はどんな存在だったのか。「一種のワガママ? を貫く「ゴッド・シスター」でした」と、弟の一人は嘉子の追悼集『追想のひと三淵嘉子』に記している。
もっとも、嘉子を「ゴッド・シスター」にしたのは両親だろう。とくに米国での生活も経験した貞雄は、子どもたちを抑圧することなく、女性だから、男性だからといった考え方をせずに自由にのびのび育てたようだ。お転婆で「暴君」だった娘の言動を面白がり、応援していたという。とても大正時代とは思えない、現代的な家族像だ。
嘉子は、東京女子高等師範学校の附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)、明治大学専門部女子部、明治大学法学部へと進学する。良縁に恵まれることが女性の何よりの幸せとされ、法律を学ぶ女性は相当の変わり者扱いをされた時代。「嫁のもらい手がなくなる」と母親が泣きつこうとも、嘉子は意思を変えなかった。周囲の価値観に左右されず、自分の選んだ道をよしとする態度にもまた、多様性が尊重される現代に通じるものを感じる。
キャリアを重ねて変化する面も
嘉子は難関の司法科試験(現在の司法試験)を突破して弁護士資格を得た。とはいえ、もともとお嬢様育ちで、働かずともお金で苦労をすることはなかった。ところが、その生活は、第二次世界大戦を経て大きく変わる。夫を戦病死で失い、さらに両親も逝ったことで、家族を支えるため、嘉子は働かざるを得なくなった。
それが、彼女の才能が羽ばたき始めるきっかけだったかもしれない。経済的自立のために、改めて本格的に法の道に進もう、それも、弁護士より「裁判官」になりたいと考えた。そして、戦後に施行された日本国憲法のもと、日本で2人目の女性裁判官となり、キャリアを重ねていく。
終戦後に日本社会が大きく変わる中で、「女性のキャリア」についての嘉子の考え方にはハッとさせられる。NHKが最高裁判所長官を囲む法律関係者の座談会を開いた際のエピソードだ。長官が「女性本来の特性から見て家庭裁判所裁判官が向いている」と語ったところ、嘉子は、「家庭裁判所裁判官として適性があるかどうかは、個人の特性によるので男女の別で決められるべきではありません」と反対したというのだ。
そうした考えのもと、自身のキャリアについて嘉子は「人間的に成熟するという50歳前後になるまでは家庭裁判所裁判官は受けないつもりです」と裁判所に伝えていた。彼女は、当時数少ない女性裁判官として注目度が高かった。だからこそ、自分が家庭裁判所に赴任したことが先例となり、後に続く女性裁判官が「女性だから」という理由で家庭裁判所に配属されるようになることを危惧した――。嘉子の発言を、本書で著者の青山さんはそのように解釈している。
もっとも嘉子が家庭裁判所の判事になったのは、1956年で、その時はまだ40代前半だ。このころには、少し柔軟な考え方をするようになっていたのだろう。家庭裁判所を「女性向き」と決めつけるのはおかしいが、男女の別ではなく「個人の特性」で向いている人を選んだところ、結果として女性が多くなることはあり得る。新潟家庭裁判所長に任命され、日本で初めての女性の裁判所長となるのは、1972年のことだ。
世界の先進国のなかで、日本はまだまだ男女格差の大きい国だ。しかし、今以上に格差の大きかった時代に奮闘した嘉子の姿は、女性を励ますだけでなく、男性にもこの問題を考えるきっかけを与えてくれそうだ。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部 前田真織)
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『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』
青山 誠 著
KADOKAWA(角川文庫)
228p 858円(税込)