【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode11 プレッシャーとポテンシャル|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社

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【ペロブスカイト太陽電池誕生】episode11 プレッシャーとポテンシャル

電気化学会・第73回大会での発表を無事に終え、修士課程を終えたら企業の研究者として生きていこうと考えていた小島陽広に対して、大学で研究を続けて欲しいと考えていた宮坂力らは必死の説得を試みる。就職するか、博士課程に進むか。小島が選んだ答えは-。
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小島陽広はペロブスカイトの「プレッシャー」と「ポテンシャル」の狭間で揺れていた。

〝博士課程に進むとした場合、卒業のための論文がしっかり書けるだろうか。ペロブスカイトを使った太陽電池という世界で初めての成果かもしれない技術をテーマに執筆し、もし他の研究者が追試できない事例が重なったら先生たちに迷惑をかけてしまう。自分がペロブスカイト太陽電池を公知の技術にするのだろうか。誰かがすでに保証している技術だったら、どれほど気が楽だったろう。〟

〝ペロブスカイトを使った太陽電池の性能はもっと伸ばせるに違いない。吸収する光の波長がとても広いことは測定すればわかる。あとはどれだけの効率でその光を吸収させられるか。いろいろな研究者が扱えば、もっと性能は上がるはずだ。自分の能力の限界で止めてしまっていいのか。論文を残して多くの研究者に知ってもらうべきではないか。〟

宮坂力や手島健次郎は大学で研究を継続するよう小島を説得していた。仮に、小島が就職してしまったら研究を引き継ぐ学生はおらず、その研究が途絶えてしまうからだ。宮坂は「ユニークな研究だから絶やしたくない思いがありました。研究に発展の可能性も感じており、小島君に頑張って欲しいと思っていました」と振り返る。

そうした声を受けて、小島にとってのプレッシャーはやがて「責任感」に変わり、博士課程への進学を決めた。自分が関わった面白い研究を論文の形で残すことを決意した。

ところで、宮坂が小島に博士課程に進むよう説得する材料に用いたものが1つある。東京大学大学院という研究環境だ。宮坂は05年に、東大院総合文化研究科に客員教授の職を得ていた。そこでは研究室を持ち、学生を所属させることができた。ただ、東大での研究室紹介の場に出向き、学生を集めようと試みたものの普段から授業をしているわけでもない宮坂の研究室を東大生は希望しない。そうした経緯もあり、小島に声をかけたのだった。

「東大の学生にならないかい。東大だよ。学費安いよ」。

小島は博士課程に進学した最大の決め手については「研究の面白さ」と語った上で、東大院への進学を勧められたときの受け止めをこう振り返る。

「東大のブランドは正直プレッシャーでした。ただ、学費の面は助かりますし、東大で研究ができれば、装置は充実しており、人脈も広がって研究を底上げできるかもしれない期待があり、魅力を感じていました」

ペロブスカイト太陽電池の誕生に至る道筋においては「ここでこれがなかったら」といった「たられば」の瞬間に多く出くわす。そして、宮坂が東大客員教授の職を得ていたこともまた、その1つとして語ることができる。「もし宮坂が東大の客員教授でなければ、ペロブスカイト太陽電池は生まれなかったかもしれない」と。ペロブスカイト太陽電池の誕生を密かにアシストした、宮坂が東大客員教授の職を得た背景には宮坂が東京大学の本多健一研究室に所属した博士課程時代の78年に書いた「クロロフィルを使った色素増感セル」の論文(#2)がつないだ縁があった。

「東大の客員教授になりますか」-。東京大学の助教授だった瀬川浩司は、JR渋谷駅に向かうバスで同乗していた宮坂にそう声をかけた。04年1月のことだ。光触媒や色素増感太陽電池などを研究のテーマにした文科省科研費の特定領域研究「光機能界面の学理と技術」の全体会議が大学のキャンパスで開かれ、メンバーだった二人はその帰路についていた。「桐蔭横浜大の研究室ではなかなかよい学生が取れないんですよ」。そうぼやく宮坂に、瀬川が思わず声をかけたのだった。

瀬川にとって宮坂は本多健一研究室の先輩だった。本多は東大を定年退官した後、京都大学教授に着任した。瀬川は企業で大型風車の研究開発に携わっていた父親の影響などで、エネルギー分野に関心を持ち、光化学を研究しようと京大で本多に師事した。光触媒で水素をつくる研究や光合成のメカニズムを探る研究などに注力した。そこで宮坂が78年に執筆した「クロロフィルを使った色素増感セル」の論文を読み、学んだという。

瀬川はその後、京大助手を経て95年に東大助教授に就く。それから宮坂にとって本多研の兄弟子にあたる藤嶋昭をリーダーとした前出の特定領域研究が01年に始まり、瀬川はその事務局を任された。つまり、特定領域研究「光機能界面の学理と技術」は、宮坂にとって兄弟子がリーダーを、弟弟子が事務局を務めるプロジェクトだった。このメンバーに桐蔭横浜大学で研究室を立ち上げたばかりだった宮坂が入った背景には、そうした縁があった。瀬川が説明する。

「宮坂先生を高く評価していた藤嶋先生の意向もあり、特定領域研究のメンバーに入ってもらいました。宮坂先生は色素増感太陽電池の研究で成果を出していましたから、この分野を盛り上げるうえで、しかるべき予算を付けた方がいいという判断がありました」

東大客員教授の誘いに、宮坂は二つ返事で乗る。しかし、その選抜は宮坂とある研究者を巡って競争が激しかった。瀬川は感慨深げに当時を振り返る。

「もし選抜投票で宮坂先生が負けていたらペロブスカイト太陽電池はなかったかもしれませんね」

いずれにしても宮坂は東大客員教授の席を得て、結果的に小島がペロブスカイトを使った太陽電池を研究するよりよい環境は整った。ペロブスカイトを使った太陽電池の性能をもう一段上げる小島の挑戦が始まった。

証言者:小島陽広、宮坂力、手島健次郎、瀬川浩司、藤嶋昭
主な参考・引用文献:『光機能界面の学理と技術 : 光エネルギーを有効利用するサステイナブルケミストリー』(藤嶋昭・神奈川科学技術アカデミー)『光合成研究から次世代太陽電池の開発へ。光エネルギー変換にかけた35年』(東京大学HP)『大発見の舞台裏で!―ペロブスカイト太陽電池誕生秘話』(宮坂力)
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