「アルツハイマー病」征服へ、苦闘の歴史には知られざる「献身」がある【下山進さんインタビュー】|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社

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「アルツハイマー病」征服へ、苦闘の歴史には知られざる「献身」がある【下山進さんインタビュー】

本のホント #01 『アルツハイマー征服』
「アルツハイマー病」征服へ、苦闘の歴史には知られざる「献身」がある【下山進さんインタビュー】

「アルツハイマー征服」著者でノンフィクション作家の下山進さん

記憶や運動機能などが低下する神経疾患「アルツハイマー病」。その進行に直接介入する根本治療薬「アデュカヌマブ(※1)」が2020年までに日本・米国・欧州で承認申請され、米国食品医薬品局(FDA)は3月7日までにその判断を下す見込みだ。今月8日に発刊されたノンフィクション『アルツハイマー征服』は、その道筋にある研究者や医者、患者などの戦いの歴史を描き出した。

著者であるノンフィクション作家の下山進さんは、文藝春秋の編集者時代に『河北新報のいちばん長い日』(河北新報社著)や『カウントダウン・メルトダウン』(船橋洋一著)『捏造の科学者』(須田桃子著)などのノンフィクション作品を世に送り出した。下山さんに『アルツハイマー征服』に込めた思いや、ノンフィクション作品に対するこだわりを聞いた。(聞き手・葭本隆太)

※1アデュカヌマブ:アルツハイマー病は脳の神経細胞内に蓄積するたんぱく質「アミロイドベータ(Aβ)」が一因で発症するとされる。アデュカヌマブはAβに結合する構造を持った抗体で、神経細胞中のAβを除去する作用がある。エーザイと米国のバイオジェンが共同開発しており、承認されると病気の進行自体に直接介入する初の薬になる。

大きな構造の変化を人間ドラマで描く

-「アルツハイマー病」をテーマに据えたきっかけを教えてください。
 取材を始めたのは2002年です。そのころは、アルツハイマー病がすぐにでも治る病気になるという熱気が研究の現場に生まれていました。米国のデール・シェンクという科学者が、ワクチンで治療する独創的な方法を考えて(病気の症状を呈する)トランスジェニックマウスで試したところ、(アルツハイマー病患者の脳に特徴的に表れるしみである)「老人斑」がきれいに消えました。それが99年に英国科学誌「ネイチャー」に掲載され、科学界を超えた反響が起きました。病気の進行に初めて介入できた治療法で、しかも進行を逆にしたと。そこに至る研究の歴史を描きたいと思いました。

-その歴史を数々の人間ドラマで紡いでいます。
 (ノンフィクション作家として)大きな構造の変化を多様な登場人物のドラマで描くことに強い思いがあります。また、科学は科学として独立しているわけではありません。企業や経済、人間と関わって発展します。アルツハイマー病の研究をめぐる歴史には(研究者同士などの)激しい競争があり、論文の捏造も起きます。自らがその病に罹ってしまう研究者もいました。それらを含めて実名で歴史を書きました。

単行本の編集者を長年してきた経験として、長く大きく売れる本は、一定のスパンの歴史が人間ドラマで書かれており、経年変化に耐えうるものと考えています。例えば『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著)は、アンドリュー・ワイルズが1995年にそれを証明するまでの300年以上の数学者たちの苦闘を書いています。日本での刊行は00年ですが、今も版を重ねています。

-1冊にまとめる上で、カギになった取材はありますか。
 患者全体の約1%を占める遺伝性アルツハイマー病の存在を知ったことはその一つです。アルツハイマー病の遺伝子が発見された経緯を取材していく中で、知りました。科学者は1980-90年代当時、遺伝性アルツハイマー病の家系の血液を調べて突然変異のある場所が分かれば、病気の解明につながると考え、その発見を競いました。日本では青森(の弘前大学)や東京(の国立武蔵療養所神経センター)にいる研究者が追いかけており、取材で彼らに会いました。遺伝性アルツハイマー病はその家系に生まれると50%の確率で遺伝し、その100%が発症します。しかも発症は40-50代と若い。これはとても大変な病気だと感じ、だからこそ治療法の道筋が見えるならば書きたいと思っていました。

ただ、デール・シェンクらが作り出したワクチン「AN1792」は治験に入りますが、急性髄膜脳炎という重い副作用が報告されて中止になりました。解決の道が遠のき、これはまとめられないと思い、取材は一度頓挫しました。それが06年ころです。

-本をまとめる上で治療法など解決への道筋は必須だったと。
 それがなければ、遺伝性アルツハイマー病の人たちの話は書けないと思いました。当時は家族会もなく(血液の調査で)遺伝子の突然変異が見つかっても、治療法がないために本人には伝えられませんでした。そのことを弘前大の田﨑博一さんが苦悩の表情で語っていました。

-遺伝性アルツハイマー病の人たちの話は本の軸に据えたいと考えていたのですか。
 アルツハイマー病の解明には、遺伝性アルツハイマー病の家系の人たちによる長年の献身がありました。それは伝えたかったです。彼らが血液を提供したことで突然変異が分かり、その遺伝子を使ったトランスジェニックマウスの開発につながります。その貢献は世の中に全然知られていません。

2000年代の取材が線になってつながった

-18年に取材を再開されます。
 偶然ですが、ある日、文藝春秋の同僚だった作家の白石一文さんに「昔取材していたアルツハイマーの本をまとめれば」と促されて。「そんなの無理だよな」とは思ったのですが、取材ファイルを見直したら、当時の記憶がよみがえりました。そこで、インターネットで関連情報を検索すると12年間の進歩があり、解決への道が見えてきたのではないかと思いました。

自宅の本棚には取材ファイルが並んでいる

-それが「アデュカヌマブ」ということですか。
 一つはそうですね。抗体薬の治験で、初めて認知機能の面で効果が認められる薬が出たと。その開発の経緯を取材すると「AN1792」からの流れがつながると思いました。もう一つは、遺伝性アルツハイマー病の国際的なネットワーク「DIAN(優性遺伝アルツハイマー・ネットワーク)」の発足です。これまで治験は一般のアルツハイマー病を対象にしており、遺伝性アルツハイマー病の人たちは“ノイズ”としてはじかれていました。それが(「DIAN」の活動により)治験に入れるようになりました。これは大きな進歩でした。(実際に取材すると、)00年代に取材して得た点が線になってつながっていきました。

-本書終盤では「着床前診断」の規制緩和を議論する日本産科婦人科学会の動きについて、DIAN関係者に下山さんが情報共有し、この動きに参加するよう進言するシーンがあります。背景にはノーベル賞を受賞したジェニファー・ダウドナ博士の著書『クリスパー』を編集された際に、遺伝子編集技術「クリスパーキャス9」を遺伝性アルツハイマー病にも応用できるのではと考えたことがあったと。アルツハイマー病と戦う歴史を掘り起こした取材者がその歴史に参加していくようで印象的でした。
 もうこれは自分が(歴史に)入っていかなくてはと考えました。規制緩和の議論が22年ぶりにあり、そこに他の遺伝病の患者会は参加していることが分かりましたから。

-本をまとめるまでの約20年で最大の困難を教えてください。
 ノンフィクションを書くときは時間の経過が必要な場合があるということでしょうか。沢木耕太郎さんの『流星ひとつ』を読んだときに、そう思ったのですが、今回の本は同じでした。

-本書で描かれた数多くの人間ドラマの中で、下山さんが特に印象に残っている登場人物やエピソードはありますか。
 それはもう全部。読者それぞれに(印象的なエピソードを)選んで欲しいです。

大きな変化を予想して駒を置く

-「アデュカヌマブ」について、FDAは3月7日までに承認の可否を判断する見込みですが、どのような心境ですか。
 (承認を望むか望まないかは)あくまで中立です。現実的に薬がない今、患者やその家族が強く承認を望むのはよく分かります。一方、これまでに大きな治験が二つ行われ、その結果はまったく矛盾しています(※2)。その中でうまくいった治験だけを生かすのは無理という科学者の意見も正当でしょう。ただ、そこに大きな進歩があったのは間違いありません。今まで承認申請がなされた薬が一つもなかったわけですから。

※2:アデュカヌマブの治験:フェーズ3で被験者数1500人以上の治験が二つ並行して行われ、一方は認知機能を含むすべての評価項目を達成したが、もう一方はプラセボより悪くなったグループもあるという結果だった。

-本書の発売時期は「3月7日」を意識されたのでしょうか。
 「アデュカヌマブ」がFDAに承認されてもされなくとも、開発の過程が書かれたこの本は話題になるはずです。アルツハイマー病の患者は日本に約400万人いると言われます。話題になることで多くの人に届き、アルツハイマー病に苦しむ人たちも読んで欲しいです。書店では単行本は売れないとたった1ヶ月で引き上げられるため、大きな変化を予想して駒を置いておくことが大切です。これは編集者としての知見です。

-下山さんが考える優れたノンフィクション作品の条件を教えてください。
 難しいですね。一概には言えません。これから志す人が増えてほしいですが、一つ言えるのは(新人の)企画の善し悪しが分かる編集者は1割程度ということです。(優れたノンフィクション作品を増やしていくという意味では)本当に才能がある人を見いだし、それに張っていく編集者が1人でも多く生まれることが大事だと思います。どう才能をみつけるかは難しいですが。

一方で、よい編集者は最終形を考えながら仕事をしています。いつどのように作品が書店に並び、1年後2年後にどう扱われているのかということです。それが意識できれば、タイトルや発売時期なども逆算して考えられます。

-多くの情報がインターネットを通して無料で取得できる時代です。その中でノンフィクション作品の可能性をどのように考えていますか。
 (インターネットで無料で読める)情報はただの情報で、何が起きたかは書いてあっても、その意味は書いていません。(その出来事が)長期のスパンでどのような意味を持つのかを書いてある媒体こそが、有料購読につながります。人々がなぜそれを買うのか。大きな視点で物事を見られるようになり、よりよい暮らしができるからです。単行本も同じ。あとはテーマをどう設定し、それをいかに語るかが大切です。

-次に書きたいテーマはありますか。
 「日中逆転」です。90年代は日本の中小企業が相次いで中国に進出しました。それが、わずか20年ほどで逆転されました。例えば、ヤフーとLINEが統合する背景には、アリババなどの脅威があります。なぜそれが起きたのかを一冊にまとめたいです。

【略歴】ノンフィクション作家。1986年(昭61)早大政経卒、同年文藝春秋入社。長くノンフィクションの編集を務めた後、独立。93年コロンビア大学ジャーナリズム・スクール国際報道上級課程修了。著書に「アメリカ・ジャーナリズム」「勝負の分かれ目」「2050年のメディア」。18年から慶應SFCと上智大新聞学科で調査型の講座「2050年のメディア」を開く。東京都出身、58歳。
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葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
本書に登場する数多くの人間ドラマの中で、私は「AN1792」の開発に携わりながら、自らがアルツハイマー病を発症してしまう女性研究者のストーリーが特に印象に残りました。悲劇ですが、だからこそ科学技術は生身の人間が関わって発展するものと強く感じたからです。そうしたエピソードを積み重ねた先にあるFDAの承認審査はどうなるでしょうか。昨年11月に行われたFDAの外部委員による諮問委員会は厳しい意見が多かったようですが、果たして。

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