お飾り王妃の愛と献身
冷酷王妃と呼ばれるエスターは、政略結婚をした国王から捨て置かれている。その上結婚式も初夜も行われなかったお飾りの王妃という評判は、下々の民にまで広がってしまった。噂と少しだけ違うのは、お飾りの王妃になることをエスター自身も承知の上で嫁いだということだろう。彼女の父親は宰相であり、先細りの王国をどうにか生きながらえさせるために、娘を政略結婚させることに決めたのである。
「エスター。夫は育てるものだと言われている。陛下は難しい方かもしれないが、お前ならばきっとうまくやれるだろう」
「お父さま、私は産んでもいない大きな子どもを育てるつもりはないのです」
「娘よ、賢王もまた育てるものだ」
「残念ながら、陛下はひととなりを矯正できる時期をとうに過ぎてしまわれました。今さら私が育て直しすることはできないでしょう。あの方が暴君になることだけは阻止できるかもしれませんが、暗君であることはもはや変えようがございません」
無表情のまま淡々と答えるエスターは、人形のように美しい。けれど彼女の瞳には、理不尽な結婚に対する悲しみも怒りも浮かんではいなかった。ただ粛々と、貴族令嬢の義務としてすべてを飲み込むのみ。
「お前の意志を無視して嫁がせるわしを恨んでいるのか」
「まさか。私以外の人間が王家に嫁げば、火種にしかならないでしょう。他国の王女を放置し、妾に入れあげれば外交問題。国内のどの派閥の令嬢と婚姻しても、政治の均衡を崩す結果しか招きません」
「そこまで言うか」
「事実ではありませんか。王家は素寒貧にもかかわらず、持参金をどれだけ持っていったところで、大事にされないことが初めからわかっているのです。幸せなど望むべくもなく、愛人を持つことさえ難しい。生贄として娘が召し上げられれば、派閥を鞍替えする人間が続出するやもしれません。中立派である我が家が名乗りを上げるより他にないでしょう」
「それをわかっていてなお、お前は陛下を夫としても王としても育てる気はないのだな」
ゆっくりとうなずき、エスターは大事なものを抱えるように胸に手を押しあてる。柔らかな双丘の奥に眠る、彼女の心は父親にさえ見通すことはできない。
「私は、王妃としてこの国を育てましょう。愚かな王家に振り回されることのない、地に足のついた国を作るのです」
「それはまた、夢のような話だ」
「いっそ夢ならばと思うような結婚生活に飛び込むのです。これくらいの理想がなければ、首をくくりたくなってしまいます」
まったく冗談に聞こえない物騒な言葉とともに、エスターは政略結婚を了承した。
***
結婚前の顔合わせの時点で、エスターはこの結婚が政略であることを明確に国王に説明することにした。万が一にでも、国王を恋い慕っているなどと勘違いされていてはかなわない。彼女は、国を育てるための乳母として雇われているにすぎないのだ。職場に、愛だの恋などという感情を持ち込まれてはたまらなかった。
「君を愛することはない。わたしは、バーバラを愛しているのだ」
「なるほど、承知いたしました。それでは、私どもの関係は白い結婚であることを書面に残しておきましょう」
「白い結婚を盾に、離婚を申し出る気か? だが、王妃の再婚は」
「『国王と死別した場合を除き、認められない』、ですよね。わかっております。私はただ、世継ぎの件で争いたくないのです。私が陛下の子を孕むことがないとわかれば、バーバラさまの御心の安寧にも繋がるでしょう」
「……なるほど」
「どうぞ公務に全力を注ぐためにも、ご理解くださいませ。今後、この件で陛下を煩わせることはないと誓います」
「あいわかった」
「それでは、このまま教会に提出する婚姻書類の作成まで行ってしまいましょう」
他国から花嫁が来るときのように、壮麗な馬車が何台も連なることはなく、大勢の貴族を立会人とするような壮麗な結婚式が開かれることもない。国王との結婚とは思えないほど簡素な手続きで彼女がすべてを片付けるつもりだと知り、若き王は少しばかりたじろぐ。
「結婚式は不要だと。本気なのか?」
「むしろ陛下が、愛することのない私と神の前で偽りの誓いを立てようとお考えであったことに驚きました」
「それは」
「失礼ながら、これ以上さらし者やら笑いものやらになる必要はないかと。ですから、恒例の王都でのお披露目パレードもなしでお願いいたします。これらの行事がない分、いくばくかのお金も節約できるでしょう」
「……君の気遣いには感謝するばかりだ。実はバーバラから、自分たちは結婚式を挙げることができないのにと恨み言を言われていたのだ。少しばかり肩の荷が下りた気がするよ」
「それはようございました」
にこりともしないまま、エスターは頭を下げる。腹芸のできない人間ならば、国王の言葉を鼻で笑ったに違いない。何せさらし者や笑いものになるのは、国王であってエスターではないのだ。そもそもエスターの結婚が貧乏くじを引かされたものであったことは誰もが承知のこと。
だが、彼には自分が周囲からどう思われているかを客観的に見ることができないのだろう。わかっているのならば、王妃を差し置いて平民のバーバラを隣に置くという選択などありえないのだから。せめて数年、待つだけでよかった。それから妾として召し上げたなら、何の問題もなかったのに。白い結婚の継続の結果だろうが、正妃との間に子どもが生まれなければ、バーバラとの関係を公に認めさせることもできたに違いなかった。
それももはや、今さらの話である。エスターは、この男の母ではないのだ。男の尻拭いまでしてやるつもりはさらさらなかった。もちろん夜の世話も。初夜を迎えることのない国王夫婦の寝室は閉じられたままだ。
「わたしがこの部屋を使うことはないが、隣にある君の部屋は整えたほうがよいのではないか」
「陛下、私どもの夫婦関係があくまで建前上のものだということは、国民の誰もが理解しております。一体何を取り繕うというのでしょう。わざわざ部屋を整える意味がございません。いっそ陛下とバーバラさまに使っていただいた方が有意義ではないかとも思いますが、それに関しては慣例上、良い顔をしない者が大勢おりましょう」
「それでは君はどこで寝るのだ?」
「陛下は離宮に滞在されるのでしょう? それならば私は客室で十分です。執務室に寝台を持ち込んでも良いとも思っておりましてよ」
「まったく、君は働き者だな」
「仕事に割く時間は、どれだけ準備しても多すぎるということはありませんから」
国王は執務室にうずたかく積まれた書類を思い出したのか、わずかに顔を歪める。そしてエスターは書類にひとつサインを記すと、あっさり王妃になったのだった。
***
離宮に籠りきりの夫をよそに、王妃はひとり執務室で書類仕事をしていた。部屋の中には、羊皮紙に羽ペンで文字をつづる音だけが響いている。そこへ足音高く押しかけてきたのは、エスターの父である宰相だった。
「まあ、宰相閣下。ご機嫌麗しゅう」
書類から目を離すこともなく、エスターは父に声をかけた。彼女自身は、身分の上下にかかわらず、どちらの立場が先に挨拶しても構わないと思っている。しかし、以前に父が訪問したことに気づかずに仕事を続けた結果、父は頭を上げることなく臣下の礼を取り続ける羽目になったのだ。
なぜ自分に知らせなかったのかと側仕えを叱ったが、側仕えはのらりくらりとかわし続けるばかりで話にならない。必然的にどんな状態であっても、エスターは自分から周囲に声をかける癖がついてしまった。
「王妃殿下、わしの機嫌が良いようにお見えですかな」
「ここ最近めっきり冷え込んでいたけれど、頬が色づいているようね。血行が良いことは素晴らしいことだわ」
「血の巡りが良すぎて、むしろ倒れそうですぞ。何ですかな、この人事は。好き勝手に解任など、国母たる王妃がすることではありますまい」
ぶるぶると手を震わせつつ、怒りの表情を露わにする父を前にしてもやはりエスターは無表情を貫いていた。彼が手に握り込んでいるのは、ここ最近の城内で雇っている名簿のようだ。なるほど、王妃による偏った貴族の取り立てと解雇状況はようやく宰相の耳にも届いてしまったようだ。
「あら、これは国を育てるために人員整理は必要なことですもの」
「人員整理ですか。それでは国王陛下のあの放蕩ぶりは、どう説明するおつもりで?」
「何度も言っているでしょう? 私は陛下の母ではないのよ。陛下のなさりようについては、陛下の責任です。どうしてもというのであれば、王太后陛下にお願いするべきでしょう? 王太后陛下はありがたいことにまだご存命なのですから」
「まったくありがたいことでございますな」
先代国王の唯一の妃である王太后は、愛情深い女性だった。何せ貴族間の常識を打ち破り、乳母を雇うことなく、平民のように自ら我が子を育て上げたのだ。その結果、愛情至上主義で現実を理解できぬ愚王が誕生することになったのだけれど。正直なところ、何かあれば製造元に苦情を言ってくれというのがエスターの偽らざる本音であった。
「子どもにとって良き父となれないようであれば、いっそ距離を置いていただいた方がこちらとしても都合が良いのです」
「子どもが父親を求めていたとしても?」
「父親の代わりなどいくらでもおりましてよ。母親が私でなくてもよかったように」
「さすがに言葉が過ぎますぞ」
「母になったのですもの。投げ出すつもりなど、毛頭ありませんわ。ただし私の愛し方と育て方は、王太后陛下とは異なるのです。子を想う母の気持ちはみな同じでしょうけれど、やり方はひとつとして同じものはありません。ひとりとして、同じ子どもがいないのと同じように」
「王妃殿下、後悔しても遅い。考えを改めるならば今のうちです」
「そもそもお飾りの王妃には感情は必要ありません。後悔などするはずがないことは明白です」
「殿下!」
「おやおや、宰相閣下は少々お疲れのご様子。王妃殿下、宰相閣下に休暇を差し上げてはいかがでしょう」
「それは良い考えね。それでは閣下、あなたにはしばらくの間、領地での静養を命じます。そうね、この冬の寒さは身体に堪えるでしょう。春になったら、また城にいらっしゃい」
「エスター!」
臣下としての礼も忘れて、宰相が叫んだ。それを聞こえない振りをして、エスターは書類仕事を再開する。エスターの意をくみ、側仕えが柔らかい物腰ながら有無を言わせぬ勢いで退室を促していた。
***
日の落ちた時刻の城は、ひどく冷える。手足が凍えるように冷たくて思わずこすり合わせていれば、側仕えに紅茶を差し出された。
「ありがとう、ギルバート」
「猫舌の王妃殿下のお好みよりも、少し熱めに入れております。どうぞ暖をとってくださいませ」
不作法なのを承知の上で、エスターは紅茶の入ったカップを両手で握りしめた。感覚がなくなっていたてのひらに、じんわりを温もりが広がっていく。
「とても温かいわ。冷酷王妃には温かい血が通っていないと言われることも多いけれど、実際はこんなに寒がりなのよね。それとも、温かい血が通っていないから身体がこんなに冷たいのかしら?」
「冷酷王妃とは、初耳でございます」
「まあ、嘘ばっかり。『お飾り王妃は、その心の冷たさゆえにお飾りとなった。あの女はお飾りどころではない。国の害悪にしかならない冷酷王妃だ』、というのが最近城下で流行りの噂だそうよ」
「やれやれ。そのような愚かな噂に惑わされるのであれば、いっそ彼らの耳など削ぎ落してしまえばよいのではありませんか」
「ギルバートの冗談は難しいわね」
表情は変わらないはずなのに、王妃の声は少しだけ柔らかい。厳しい冬の寒さに耐え、春を心待ちにする花の蕾のような美しさ。エスターは、静かに紅茶に口をつけた。優しい甘さは、気を遣ったギルバートが蜂蜜を加えているからだ。
王妃殿下は忠臣を疎んでいるらしい。そんな噂が、ここ最近あちこちでまことしやかに囁かれている。まれに見る勢いで役付きの人間を入れ替えていれば、そう言われるのも当然だろう。実際は役付きどころか、王城で雇い入れている人間すべてを整理しているのだけれど、それは仕方のないことだった。
「ねえ、ギルバート。私は王妃として恥じない行いをしているわ」
「王妃殿下の選択は、国を育てるために必要なことだと信じております」
ギルバートは、エスターの内なる迷いを払いのけるように言い切った。その言葉を噛みしめるように、王妃は目を閉じる。
「私が選んだ道は、大切な我が子であるこの国が正しく成長するためには避けては通れないもの。親の愛情は、何よりも深く温かいけれど、時にひどく厳しく残忍なこともある。お父さまにはわかってもらえるかしら?」
「宰相閣下も、王妃殿下のことをそのようにお育てになったのではございませんか? そもそも、子どもは親が育てたようにしか育たないもの。王妃殿下をご覧になれば、宰相閣下自身の子育ての答えが見えようというものです」
「そんな言い方をしたらお父さまには、『わしの育て方が悪かったと言いたいのか』と叱られそうな気がしてならないわ」
「まさか。王妃殿下の優秀さは、宰相閣下が一番ご存じのはず。それならば、ご自身を信じるのと同じように、王妃殿下を信じてくださればと思います。わたしも信じておりますよ。我が君ならば、きっとこの国を育て上げることができますとも」
「難しいことをさらりと言ってくれるものね」
冷酷王妃と同様に悪徳文官として名高い側仕えは、無表情の王妃とは対照的ににこやかな笑みをたたえて仰々しく首を垂れた。
***
政治から離れて気ままに過ごしていたはずの国王が、辺境伯に隣国への襲撃を命じたのはそれからしばらく後のことだった。王都の離宮に引きこもっているのが常の国王と愛妾が、わざわざ隣国近くにある王家の直轄領に足を運んだかと思っていたらこのざまである。国王からの再三の金の無心を、王妃が却下した結果であることは明らかだった。
「ここまで、愚かになってしまわれるとは。誰か悪い大人に焚きつけられたのかしら」
「王妃殿下の予想通りとはいえ、同じ国の人間としていたたまれないものがございます」
「辺境伯領の周辺で略奪が行われたという事実はないのね?」
「はい。近衛の一部が辺境伯に秘密裏に情報を伝え、既に捕縛済みとのことです」
優秀な人間をあえて王家から手放しておいた甲斐があったというものだ。みすみす故国が焼け野原になるのは、誰だって避けたいはず。戦争は、勝っても負けても傷跡を大きく残す。避けられるものなら避けたかった。自分たちの愚かさで始まるものであるのなら、なおさらだ。
小さくため息を吐いたエスターだが、用意されていた肩掛けを握りしめる。指先が、血の気を失って青白くなっていた。
「あなたが私の側仕えになって、何年になるかしら」
「三年でございましょうか」
「もう三年になるの」
「まだたった三年でございます」
「長いようであっという間だったわ」
腐りきって崩れ落ちる直前の王国。熟れた果実どころか、死臭のする老い先短い国。エスターの父である宰相が必死で支えていたが、もはやこれ以上生きながらえることは難しかった。それはエスターを生贄に差し出しても無理なこと。だからこそ、彼女は王妃としてこの国を生まれ変わらせる道を選んだのだ。
もちろんそのままでは生まれ変わるどころの話ではない。だから内部に溜まった膿を出し切るために、行動に出た。どうしようもなくて切り落とした部分もあれば、焼くことで傷を塞いだところもある。命がけの外科手術は成功し、死にかけの王国は新しい形で再び産声を上げることになるだろう。最後の仕上げに、原因たる王族が処刑されることによって。
「お飾りの王妃の茶番に最後まで付き合う必要はないのよ。春になったらあなたも城に戻っていらっしゃい。その頃には、ここも美しく掃除されているでしょうから」
「王妃殿下は、わたしを仲間外れにするおつもりなのですか」
「だって私は断頭台に行くしかないもの。優秀なあなたにこれ以上、汚れ仕事をさせたくないのよ。革命軍の参謀さん」
いつも通り表情も変えないまま答えた王妃に、側仕えは呆然と立ち尽くしていた。
***
「何を言って」
「あら、どうしたの。大丈夫よ、ここから逃走を図ったりしないわ。辺境伯閣下が、国王陛下を連れて、王城に向かっているということは把握しています。このまま無血開城できるといいのだけれど。まあ、大丈夫でしょうね。そのために人員整理をしたのだから」
「……王妃殿下は、最初から死ぬおつもりだったのですか?」
「ええ、そうよ。あら、あなたもそれはわかっていたとおもったのだけれど。違ったのかしら」
この政略結婚は、文字通りの貧乏くじの引き合いだった。いずれ王家は倒される。革命が成立すれば確実に処刑されるとわかっていて、誰が王妃になるというのか。どれだけ頑張ったところで、それは救済ではなく延命にすぎないのだ。
「あなたは、わたしが何のために文官として城にしがみついたかご存じですか」
「この腐った国を打倒するためでしょう? 国王陛下を諫めることなく堕落させつつ、あなたから辺境伯閣下を始めとする打倒王家の皆さまに情報を流すことができて、本当によかった。これで、他国に食い物にされることもないでしょう。考えられうる限り、最上の着地点です」
国王が子どもならエスターのしたことは優しい虐待かもしれないが、いい大人なのだからまあ許してほしい。
「それで、あなたが冬の間に処刑されてめでたしめでたしだと?」
「だって、美しい春に血なまぐさい行事は似つかわしくないでしょう? でも、よかった。辺境伯閣下がいらっしゃるまでの間、あなたと本音で話すことができたのだもの。神さまも、頑張ってきたご褒美をくださったのね」
肩の荷がおりたような王妃とは裏腹に、側仕えの顔色は冴えない。
「無意味であることをわかっていて、眠る時間さえないほど必死に国政の改革に取り組んだのですか?」
「無意味ではないでしょう。国が無駄に疲弊することを止めることができたのだから」
「……まさかとは思いますが、実はあの男のことが好ましかった?」
「冗談も大概になさい。私は、この国のために死ぬのです」
「そこまでこの国を愛していると?」
「ええ。この国のためなら、喜んで死ぬわ」
「わかりました。それならば、もっと直接的にお願いいたしましょう。王妃殿下、才あるあなたが死ぬことは許しません。今度は『お飾りの女王』となってください」
エスターが息を呑んだ。ギルバートの目は真剣そのものだ。冗談を言っている気配はない。
「この国はまだ生まれたての赤子です。絶対王政の時代しか知らぬ無辜の民が、共和制などどうやって取り仕切ることができましょう。内乱で国が荒れるか、隣国に食い荒らされるのがオチです」
「どうしてそう極端に走ろうとするのです。突然、王政から共和制に変えることなどできません。まずは立憲君主制を目指して」
「ええ、わかっていましたよ。ですから、あなたのような偉大な母が必要なのです」
「でもここには、立派な父がいるでしょう? それとも君主の座につくのは辺境伯閣下なのかしら」
ギルバートを指し示した後、エスターは小首を傾げた。そんな彼女にギルバートは必死の形相で訴えかけてくる。
「閣下からはわたしが王配につくことで了承を得ております。ただ、子どもには、両親がそろっていた方が良いに決まっています」
「あら、あなたまでお父さまのようなことを言うのね。私でなくても、大丈夫でしょう? 母となるべき優秀な女性は、この国にたくさんいるのだから」
「違うのです。わたしは、あなたと一緒がいい。あなたと共に、この国を育てていきたいのです」
「それは、私が国のために尽くしていたから?」
「その通りです」
「それならば、なおのこと駄目ね」
エスターは自嘲気味に肩をすくめた。
「だって私は、国のためを思って行動していたのではないの。理想に燃えるあなたが見たくて、国を育てていただけ。こんな浅ましい感情は、国母には必要ないでしょう?」
エスターの目の前にいる側仕えは、元々宰相の愛弟子だ。いつの間にやら父によく似た腹黒い文官に育ってしまったが、かつて幼いエスターが出会ったときには、理想に燃える熱い男だった。
それが、少しずつ皮肉げな乾いた笑みを浮かべるようになっていく。その理由を知った時は、胸が痛んだ。どれだけ才を持っていようが、身分がなければ何も変えられない状況が口惜しかった。この男の目は、死んでしまうのだろうか。ゆっくりと光を失っていく男の姿は見るに堪えない。かつてエスターにさまざまな政策を語ってくれたような、燃えるようなギルバートが見たかった。
彼のためになるのなら、政略結婚も悪くはないと思えてしまったのだ。好いた男がいるというのに、他の男にその身を暴かれるほど辛いものはない。それならばどれほど他人に蔑まれたとしても、白い結婚は好都合。自分の想いは自分だけは理解していればそれでいい。操を男に捧げるほうがずっと幸せだった。
***
「父親は、男になってはいけないのでしょうか?」
「え?」
「母親は、女になってはいけないのでしょうか?」
「ギルバート、何を言っているの?」
唐突に、男がエスターを抱き寄せて叫んだ。
「わたしは、あなたが笑って過ごせる国を作りたかった。幼いあなたが、青臭いわたしの理想を楽しそうに聞いてくださったときから、あなたのために国をどうにかしたかった。けれど、わたしの力では国を変えることはおろか、あなたを王家の贄にするしかなかった」
「……そんな」
「今でこそ、『冷酷王妃』と呼ばれるあなたが、かつては表情をころころと変えるあどけない少女だったことを、誰が信じるでしょう。そして、あなたの表情が変わらないようにしてしまったのは、我々の不甲斐なさゆえ」
それは壮絶な教育の賜物だった。王妃教育とは言われなかったが、他の貴族令嬢と比べても徹底的に感情を表すことを禁じられたのは、エスターだけ。愚かな王族たちを支えるためには、顔色を読まれることは避けねばならなかったのだ。
「あなたは自分の感情を浅ましいと言ったが、本当に浅ましいのはわたしです。あなたが苦しい立場に置かれていることを知りながら、白い結婚であることに安堵していた。あなたの側で、手足となって働くことができる喜びに浮かれていた。そして、臣下としてはあるまじきことながら、あなたを温めたい。そう思ってしまったのです」
「ギルバート」
「共和制がどうとか、立憲君主制がどうかなんて、建前でしかない。権力が誰にどれくらい与えられるかなんて、心底どうだってよかった。わたしが欲しかったのは、あなただったのだから」
そっと手の甲に口づけが落とされる。指先に触れた唇は、信じられないほど熱い。おずおずとその背に腕を回せば、もう離さないと言わんばかりにさらにきつく抱きしめられた。もう寒さに凍える必要はないのだと安心し、エスターはギルバートの温度に身を任せる。春の温もりを知った彼女の瞳からは、雪解けのように涙があふれていた。
***
その後エスターは王国を支えた気高き王妃として、新体制では女王となった。「お飾りの王妃」が「お飾りの女王」となったというのは、いたずらな彼女がたびたび口にする心臓によろしくない鉄板の冗談である。
元国王と愛妾は、断頭台の露と消えることになった。安定した時代であれば、彼のような愚かな王がいても許されたのかもしれない。何せもともとの彼の気性は、愚かではあっても、悪人ではなかったのだから。
けれど彼は悪い方向に変わってしまった。まるで、せっせと腹黒な側仕えに毒水を与えられたかのように。国王と愛妾は処刑直前まで、お互いを口汚く罵りあっていたのだという。どちらかひとりなら助けてやると言われたわけでもないだろうにと周囲が呆れるほど、あしざまにそれぞれの悪事を暴露し続けていたそうだ。
確かにエスターは、国王のことを愚かだと思っていた。王の器ではないとさえ考えていた。けれど彼が身分や利益を意に介すことなく、ただひとりの女性に愛を捧げたこと自体は嫌いではなかったのだ。彼女自身、叶うはずのない恋に人生をかけたのだから、共感が湧いたのかもしれない。
だからこそ、土壇場で愛しいひとを裏切る彼らの行いには心底軽蔑した。彼らの嘆願も聞き流し、粛々と議会の決定に従ったのである。絶対王政の被害者である「お飾りの王妃」ではなく、立憲君主制における「象徴的な女王」として。王妃としての経験から、求められればさまざまな助言を行った彼女が一貫して口をつぐんだのは、後にも先にもこの時だけだった。
かつて「お飾りの王妃」と蔑まれたエスターは、愛する夫の横で幸せそうな微笑みを浮かべている。
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