清春30周年記念インタビュー|“ミュージシャンとしての死”と“永遠”

1994年に黒夢のボーカルとしてデビューし、その後SADSやソロを含め30年にわたり活躍し続けてきた清春。今年3月からは約60公演にもおよぶツアーを1年にわたって行うなど、デビューから長い年月が経った今でも精力的な活動を続けている。そんな彼が30周年の節目にリリースしたアルバムのタイトルは「ETERNAL」。“永遠”を意味するこの言葉をタイトルに冠したのはなぜなのか。そこには、50歳を過ぎて感じる“ミュージシャンとしての死”の身近さや、彼の持つ死生観が影響しているという。本特集では、そんな「ETERNAL」制作の裏側や、これまでの30年間の貴重なエピソードなど、清春の過去と現在について本人に語ってもらった。

取材・文 / 真貝聡

右も左もわからなかった黒夢時代

──2月9日にデビュー30周年を迎えられたということで、まずはこれまでの活動を振り返りたいと思います。個人的には、デビュー前に初めて東京でライブをされた際の話が好きなんですが、改めて聞かせていただけますか?

GARNETというバンドを一緒にやっていたメンバーと、1991年に黒夢を結成しまして。地元の名古屋で人気が出てきたときに、初めてのCD「中絶」を出しました。1992年にそのシーンで人気のあったBELLZLLEBというバンドの解散ライブが目黒鹿鳴館で行われるということで、オープニングアクトとして3曲だけやらせてあげる、とレーベルの人に言ってもらって。ただ、東京の初ライブは1曲目からマイクがトラブって、ボーカルがよく聴こえなかったんですよね。それで、ほとんど歌わずにマイクを何度も何度も床に叩き付けた。マイクをボコボコにして帰って、そのまま終了しました。

──ハハハ、最高ですよね。そしたら……っていう。

そしたら当時、東芝EMIにいた近藤さんという方が楽屋に来て「君ら最高! 契約しよう!」と言ってくれて。ほとんど歌ってないのに(笑)。そういうことがありましたね。

──黒夢は結成してすぐに、YOSHIKIさんが立ち上げたエクスタシーレコードをはじめ、いろんなところからデビューの話が来ていましたよね。

そうですね。東京にちょっと行って1、2回ライブをしたら、ロック雑誌に載っているような人たちが観に来てくれてました。「おお、すごいな」と思いつつ、その後もいろんな人が観に来ていろんなレーベルにも誘われて。で、最終的に1994年にEMIからデビューしました。L'Arc-en-CielとGLAYが同じぐらいのデビューで、LUNA SEAはちょっと先にデビューしていて、という時代ですね。

──EMIからデビューされたのは、何かきっかけがあったんですか?

当時EMIのトップだった石坂敬一さんの存在が大きかったですね。石坂さんがまだお元気だった頃、僕らのライブを観に名古屋までいらしてくれて。そのとき、石坂さんという存在のデカさを知らなかったのと、僕らは礼儀もなってなかったので、石坂さんに「メシ食いに行こう」と誘われたのに断ったんですよ。先におねえさんたちと約束していたから「ちょっと先約があるんで、また東京に行ったときに連れて行ってください」って。そしたら、マネージャーに「お前、誰の誘いを断ってるんだ!」とめちゃくちゃ怒られましたね。

──そりゃあ、そうですよ!

24、5歳で若かったのもあったし、とにかく礼儀を知らなかったです。それに相手が業界のトップであればあるほど、あんまりお話ししなかった。EMIは近藤さんもそうですし、いきなり上のクラスの方が来てくれて。それでも食事の誘いをかわして遊びに行ってめちゃくちゃ怒られて。「もうデビューしないからいいよ」とか反抗して(笑)。

──ハハハハ。

亡くなった大谷というマネージャーに「俺もよく知らないけど、石坂さんはすごい人なんだよ」と言われました。

──俺もよく知らないけど(笑)。

というのも、黒夢が東京に出るタイミングでマネージャーとして付いたのが、ライブハウスのブッキング担当だった人なんです。彼もメジャーの世界は初めてだし、僕らも初めて。そんな4人で東京に来て、EMIの近くにあったワンルームマンションを事務所として借りたから、本当に右も左もわからなかった。それでメジャー1発目に「for dear」を出して、いきなりサッカーの番組のタイアップが決まって。

──テレビ朝日「Jリーグ A GOGO!!」のオープニングテーマですよね。

Jリーグが流行り始めたときにそれが決まって、「Mステ」(「ミュージックステーション」)にも出られることになって。今ではあり得ないような待遇だったけど、僕が「サッカーの番組は黒夢と合わなくない?」と言ったんですね。「タイアップおめでとう!」みたいなお祝いの会が開かれて、そんとき僕が「ちょっと嫌ですね」って言っちゃって宣伝担当の人が泣き始めちゃったり。「……え、何を言ってるの?」って(笑)。「せっかく、この子がずっと交渉して決めてきた仕事なんだから」と説得されて。その熱意は伝わったので「じゃあ、やりますよ」と言って、受けることになりました。あの頃のEMIは「第2のBOØWYを作ろう」と燃えていたらしいんですよ。それでマイケル・ツィマリングや佐久間正英さんをはじめとした、BOØWYのエンジニアチームの協力のもと、目黒にある佐久間さんのドッグハウススタジオでレコーディングをしていました。

メジャーに行ってお客さんが離れるとか、そういうしょうもない世界にいたくなかった

──ここが1つの転換点だと思うのですが、1994年発表のメジャー2ndシングル「ICE MY LIFE」でスタイリングも含めて雰囲気がガラッと変わりましたよね?

あ、うん、そうですね。当時ヘアメイクの人たちとかに、「清春くん、ヴィジュアル系ぽいのダサいよ」と言われたの。

──ええ!?

周りのファッション界隈の人たちと年齢も近かったし、遊びに行くくらい仲がよかったのもあって「黒夢がダサいというよりは、ヴィジュアル系がダサいんだよね」と言われて。「清春くんはボーカルだし、もっと時代をリードするような人になってほしいんだ。服装も変えて髪も切っちゃおう」と提案された。

──その提案はすんなり受け入れたんですか?

うん。それまでの自分たちに限界を感じていたので。当時は「メジャーデビューする」と言ったら人気が落ちる時代だった。今は推しがデビューしたら「おめでとう、よかったね!」ってみんなで喜ぶじゃないですか。でも1990年代前半はメジャーデビューの発表が1つの踏み絵というかね。知名度は上がるけど、インディーズ時代からのファンは離れていく。ラストインディーズツアーを回ったんですけど、メジャーデビュー曲「for dear」のイントロが鳴った瞬間にお客さんが4分の1くらい帰っていったの。今よりもファンのこだわりが強かったんですよね。当時僕は「今のファンが全員いなくなってもいい」と思っていた。で、髪を切ってメイクも薄めにした。そしたら、それが功を奏したんですよね。今でも「『ICE MY LIFE』で好きになりました」って、いろんな世代のバンドマンに言われるね。あの曲が3人の黒夢のラストシングルでしたね。

──それも大きなターニングポイントですよね。

3人から2人体制になって、ここでけっこう悩みましたね。解散はしたくなかったので、ライブハウスに行っていいギタリストがいないかリサーチして。いっそのこと4人体制にしようか、という話もあった。

──でも2人でやっていくことになったんですよね。

そのほうがよりバンドらしくないからいいんじゃない?って。バンドシーンのファンをターゲットにするよりも、マーケットを広げられると思ったんです。あの頃は有名になることにすごく鈍欲で。集客や売上枚数とかチャート的にも、インディーズのナンバーワンにはなれたけど、そこで終わりたくなかった。メジャーに行ってお客さんが離れるとか、そういうしょうもない世界にいたくなかった。それ以前はギターの曲が8割で、ベースの人時くんの曲が2割だったけど、黒夢が2人になったのを機に、ほとんどのシングル曲を僕が作るようになりました。それで最初に作ったのが3枚目のシングル「優しい悲劇」。

清春

「人って死ぬんだな」と初めて意識した

──黒夢はCDを出すたびにヒットを連発して、時代の寵児になりました。それと同時に、清春さんは若者たちのファッションアイコンになっていきましたね。

「asayan」「smart」「Boom」とか、ファッション誌の表紙に出てましたね。それ以前は僕みたいなジャンルって、ファッション誌に出れなかったんですよ。こちらから「出たい」と言っても「え? ヴィジュアル系でしょ?」みたいな反応だった。で、あるときから「ぜひ出ていただきたいです」という反応に変わった。「Like @ Angel」とか「少年」ぐらいから男の子のお客さんが会場に増えだして、それでファッション誌に載ったら、たくさんオファーが来るようになって。1997年とか98年ぐらいから、CDを出せばチャート上位に入るようになったし、人がどんどんついてくるようになった。ガソリンスタンドに行ったら、ガラの悪そうな店員が「ファンです」って言ってくれるとか、あのあたりで「ほかのミュージシャンと違う抜け方をしたのかな」と実感するようになりました。そして1999年に解散。その年にSADSが始まって、2003年には解散しました。

──黒夢もSADSも活動期間は長くないのに、いまだに語り継がれているのがすごいですよね。

黒夢はメジャーに行って4年しかやっていないんですよ。わりと展開が早かったのかな? いきなり髪を切るとかも含めて、一切守りに入らなかった。途中くらいから「人気がなくなってもいいや」と思っていたので、その姿勢がよかったのかもしれないです。同世代のバンドの中で一番先に解散しちゃった。長く続けていればドームとかもあり得たと思うけど、ずるずるやりたくなかったんですよね。

──2003年に35歳でソロ活動を始められてから、僕が清春さんに変化を感じたのは2007年発表の5thアルバム「FOREVER LOVE」なんですよね。そこから“生きる”ことを意識された曲が増えた気がします。

そうかもしれないです。39歳のときに親父が死んだんですよ。親父の余命が半年だと知ったときに、初めて「人は死ぬんだな」と意識した。すでに僕には娘がいたんですけど、僕らは男3人兄弟で、親父からすると孫が初めての女の子だからめちゃくちゃかわいがっていて。昔はたまにしか笑わなかった親父が、人が変わったかのように笑顔が多くなった。そのときは上の子が幼稚園ぐらいで、しょっちゅう「多治見に行きたい」って言うもんですから、よく実家で預かってもらっていたんです。親父も溺愛していて、子供も「おじいちゃん、おじいちゃん」と懐いていた。僕も「よかったね、幸せだね」と言っていた矢先に、親父の病気が判明して。それで僕なりに親父からいろいろと話を聞いたんですよ。インタビューではないけど、もうすぐ死んでしまうことに対して、どういう気持ちかをちゃんと聞いておきたかった。「この子が大きくなったり結婚したりする姿を見れないと思うけど、それはどんな気持ちなの?」と聞いたら「それでも会いたい」って言ったんですね。その言葉でけっこう変わったかな。もっと頻繁に子供を連れていくようになりました。

──変わったというのは?

自分のことが心配じゃないんだ、と。最期は弟が看取ったんですけど、体が弱る前までは意識がハッキリしていたので、ウチの子に会いたいと言っていました。上の子も「おじいちゃん、おじいちゃん」と普段通り接しながらも、会えなくなるのはわかっていたみたいですね。

──お互いに残された時間を大事に噛み締めていたんですね。

それぐらいから「死んだら気持ちはどこに行っちゃうんだろう?」って考えるようになった。肉体が朽ち果てたら、精神も魂もなくなると僕は今思ってるんですけど、じゃあ下の世代とどうつながっていくのかな?って。生きている間は次の若い子たちに意思を伝えられるけど、死んだら風化していく。存在を思い出したとしても、この世にはいない。僕は親父がいたからいる。その事実はつないでいけるけど、それも僕が死んだら途切れてしまう。いろんな角度で考えてましたね。まさに「FOREVER LOVE」から変わったのかもしれない。