いとうせいこう

おんがく と おわらい 第6回 [バックナンバー]

いとうせいこうが語る「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」が結びつけた音楽と笑い

それはコントが終わり、暗転の中で大音量の音楽が流れた瞬間から始まった

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2022年9月12日、作家・演出家の宮沢章夫が亡くなった。

彼が日本のサブカルチャーに与えた影響は計り知れない。その一部として劇団「遊園地再生事業団」での演劇活動、当時誰もが真似をしたエッセイの文体、「ニッポン戦後サブカルチャー史」(NHK)をはじめとするサブカルチャー研究などが挙げられるが、ここでは宮沢が1985年に立ち上げた演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」に焦点を当てる。

シティボーイズ大竹まこときたろう斉木しげる)、竹中直人中村ゆうじいとうせいこうをコアメンバーとし、1989年まで活動したラジカル・ガジベリビンバ・システム。86年の公演タイトル「スチャダラ」がスチャダラパーの名前の由来となったのは有名だが、後年には星野源や放送作家・オークラをも虜にし、何より現在まで続く音楽とコントのフォーマットを作ってしまったのだ。一度でもお笑いライブを観に行った人ならば当たり前のものとして気にもとめない“常識”の出発点がここである。

最年少メンバーとして濃密な青春をラジカルで過ごしたいとうせいこうに、新常識が生まれた瞬間の興奮と、音楽と笑いの分ち難い関係性を語ってもらった。

改めて、宮沢章夫さんのご冥福をお祈りいたします。

取材・/ 張江浩司 撮影 / 斎藤大嗣

扉を開けたら宮沢章夫がいた

今まで誰にも聞かれなかったからしゃべったこともないんだけど、宮沢さんに初めて会ったのは僕がニッポン放送でバイトをしていたときで。タモリさんの番組のADみたいなことをやっていて、そこの黒木さんという作家が僕のことを「面白いやつがいるから会ってみなよ」と宮沢さんに紹介してくれたんです。

──その頃の宮沢さんはラジオの放送作家をやられてたんですか?

ラジカル・ガジベリビンバ・システム 第9回公演「スチャダラ」フライヤー(画像提供:遊園地再生事業団)

ラジカル・ガジベリビンバ・システム 第9回公演「スチャダラ」フライヤー(画像提供:遊園地再生事業団)

そうそう。だから宮沢さんの第一印象は「ラジオの人」だった。そこでどんな話をしたかは覚えていないんだけど、しばらく経って桑原茂一さんがスネークマンショーの映像を作るということで、そのオーディションに呼ばれたんだよ。「JUN」というファッションブランドの関係者が当時、僕のピン芸をすごく面白がっていたんだよね。その人が撮った僕のネタの映像が茂一さんに渡って、「こいつ変だし、ちょっと呼んでみよう」ということになったと思うんだけど、オーディションなんて初めてだしさ。そもそも「他人に選ばれるなんて腹が立つ」と思っていたし(笑)。九段下の皇居が見える古いホテルだったと思うんだけど、扉を開けたら宮沢さんがいたんだよね。「あれ? なんでいるんですか?」っていう(笑)。宮沢さんも作家としてこの企画に入っていて、そのホテルに詰めて台本を書いてた。それが「楽しいテレビ」という超ナンセンスな作品になって。これに参加していたシティボーイズ、竹中直人、中村ゆうじ、僕、そして松本小雪という女子を加えて「ドラマンス」になった。

──1984年にスタートした、ラジカルの前身になるコントユニットですね。

そう。「ピテカントロプス・エレクトス」という伝説的なクラブで定期的にお笑いというか、コントのイベントが始まるんです。ピテカンは茂一さんの店でもあったから、もちろん音楽が中心の場所なんだけど、茂一さんが好きな笑いの要素も入れたいと。スネークマンショーみたいなことを生の舞台でもやりたいということで、宮沢さんに声がかかったんだよね。茂一さんがやりたかったのは当時の「お笑い」ではなく、そういうものとは違う空間を作りたかったんだと思うんだ。それを宮沢さんのアイデアで形にしていった。僕のことはまだ誰も知らない頃なんだけど、ステージからフロアを見たら近田(春夫)さんも(立花)ハジメさんも伊武雅刀さんもいるし、2階席には景山民夫さんもいるわけ。

いとうせいこう

いとうせいこう

──サブカルチャー名鑑というか。

「すごいところに来ちゃったな」と思った(笑)。初回はそれぞれのネタを披露し合うような構成だったんだけど、僕のネタが終わったあとに大竹(まこと)さんが寄ってきて「お前の芸はロックだ」って言うんだよ。あの人、音楽をわかりもしないのに(笑)。あの頃は客に毒を撒き散らすようなタイプだったし、「REMIX落語」とか、ピテカンに来てる音楽好きを喜ばせるようなネタをやっていたからそう思ったんだろうけど。だから僕にとって笑いは最初から音楽と関係してるんですよ。

──ドラマンスは最初のライブからわずか数カ月で日本青年館公演をやっています。

僕は講談社に入社した頃で、人事部長に「あのー、すいません。当日、日本青年館でコントやるんで早退していいですか?」ってお伺い立ててさ。そしたら「いとうの晴れ舞台だからみんなで観に行こう!」と、僕の同期を連れて観に来てくれたんだよ。

──信じられないくらいいい職場ですね(笑)。

ゆるい時代だよね。いまだに当時の人事部長と同期とは年に何回か会うよ。その直後にドラマンスがなくなって茂一さんの手から離れたときに、宮沢さんがラジカル・ガジベリビンバ・システムというのを立ち上げたと。でも最初は宮沢さんも演劇の作り方なんて知らないから。普通は本番が近付いたら稽古場に照明さんや音響さんが来て、通し稽古をしたりいろいろ確認したりするんだけど、僕らは全員コント作ることしか頭になくて。当日に一応リハやって、そのまま本番だったんだよ。たぶん最初に全員で軽いコントを短くやったと思う。それで暗転して急いで舞台袖にハケて、シュルシュルってスクリーンが降りてきたと思ったら、Art of Noiseの「Legs」が大音量で流れて、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」ってバーンと映し出された。

俺たちは知らされてないから「何これ? うわっ、カッコいい......!」ってなっちゃってさ。大竹さんなんて袖で踊ってたかもしれない。あの大竹さんがだよ?(笑) それくらい俺たちはその演出に度肝抜かれたし、こんな演劇もコントライブも観たことがなかった。僕にとってラジカルは、この「Legs」がかかった瞬間のインパクトが大きいんだよね。当然、お客さんも盛り上がっていて、お祭り騒ぎみたいな気持ちでコントを観るからウケるんだよ。

──客席がホカホカに温まった状態になっていると。

いとうせいこう

いとうせいこう

日テレの大塚恭司さんという名ディレクターがラジカルのことを大好きで、このときもたぶん観に来ていて。のちにMr.マリックさんの番組を作るんだけど、その番組で「Legs」を使うんだよ。

──ああ! マリックさんが登場するときのBGM!

大塚さんはラジカルの印象がものすごくてあの曲を使ったんだと思う。そうとしか考えられない。

──ラジカルがなければ、ハンドパワーもなかったかもしれない……。

それくらいインパクトがあったんだよね。今に至るまで、演劇やコントライブの途中に映像を入れてカットアップするのも当たり前になったし、もう当たり前になりすぎたから違うやり方をどうにかできないかと常に考えてる。宮沢さんも何年かぶりに俺たちを使ってラジカル的なものをやったときに、逆に映像を使わず1回も暗転しない舞台にしてたから。自分たちも囚われ続けちゃうぐらいの演出が、まず最初にあったんですよ。

かけたい曲からコントを逆算する

──ほかにどんな曲が使われていたか覚えていますか?

うーん、あんまり覚えてないんだけど……Talking Headsは確実にかかってたかな。「Once in a Lifetime」とか。

──やはりニューウェイブが多かったんですかね?

流行っていたし、使いやすい音楽ではあるよね。ドーンと始まってくれるから。あと、ヒップホップのトラックの上で俺がJB(ジェームス・ブラウン)みたいに出演者の名前をシャウトするというのもやってた。芝居の中でもラップっぽいことをやってたと思う。舞台上にターンテーブルを置いて(藤原)ヒロシがDJをやってくれたはずなんだよな。

──コントと音楽がシームレスにつながっていって公演のグルーヴを途切れさせないという手法は、非常にDJ的ですよね。

そうだね。同じBPMが続いていくっていう。

──そういったアイデアの源流はどこにあったんでしょうか?

ラジカル・ガジベリビンバ・システム 第14回公演「最後の正月」パンフレット表紙(画像提供:遊園地再生事業団)

ラジカル・ガジベリビンバ・システム 第14回公演「最後の正月」パンフレット表紙(画像提供:遊園地再生事業団)

松尾スズキさんが宮沢さんへの追悼文に書いていた、ラジオコントの思い出を読んで思い出したんだけど、ラジカルを始めた頃に僕と宮沢さんは茂一さんのオフィスに週1で通っていたんだよね。クラブキング(桑原が代表を務める株式会社。日本初のクラブカルチャー情報誌「DICTIONARY」を発行していた)を立ち上げた頃で、ラジオ番組も持っていた。茂一さんがプロデューサーで、宮沢さんと僕が台本を書いていて。2人して茂一さんの薫陶を受ける感じで。そこで一番大事なのは、茂一さんはラジオでかけたい曲がすでに決まってるということ。「この曲をかけるためにはどういうコントからつなげたらいいか」「どういうタイミングでカットインしたらこの曲がカッコよく聴こえるか」「だんだんフェードインしたらみんながゾクッとするんじゃないか」……そういうことしか考えていない。青山のキラー通りにあったオフィスに行くと、「宮沢くん、いとうくん、今度かけたいのはこの曲なんだよ」と言いながらレコードを流す。「うわ、カッコいいっすね!」というところから始まるんだよね。コントの設定があって、ギャグを考えて、その合間に音楽を流すという発想とは真逆なんだ。

──「BGMではない」ということですね。

そう。音楽からの逆算でコントができている。そんな作り方を知ってしまったのが、僕と宮沢さんにとってものすごく大きくて。ラジカルでコントをやって袖にハケるときに「この曲カッコいいな」と思うことは確かに多くて、それは茂一さんからの影響が僕らの中に流れているということなんですね。あと、当時宮沢さんとよくしゃべったのは、モンティ・パイソンは大好きだけど、コント自体が面白いかというとそれは違うと。イギリスの社会問題を知らないとわからない部分もあるし、ブラックジョークがキツすぎるところもあるから。じゃあ、なんでモンティ・パイソンが好きかというと、スキットとスキットのつなぎ方なんだよね。グーッとカメラを引いていくとまったく別の世界があって……とか。そのカッコよさに、非常に影響を受けたんです。

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かっこよすぎる田島貴男を見ると、人間は笑う

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いとうせいこう @seikoito

ラジカルについて久しぶりに話しました。 https://t.co/8V48GF78T3

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