日仏共同製作の「アダマン号に乗って」が、4月28日に公開される。
ニコラ・フィリベールが監督・撮影・編集を担う本作は、パリ・セーヌ川に浮かぶデイケアセンターの船・アダマン号に集う人々を追ったドキュメンタリー。共感的なメンタルケアを貫くアダマン号で、精神疾患者が社会とのつながりを目指し創造的な活動をするさまが捉えられる。
「アダマン号に乗って」は、第73回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。ドキュメンタリーが最高賞を獲得する快挙を成し遂げている。精神科医療の世界に押し寄せる均一化、非人間化の波に抵抗する“奇跡”の船に、映画界最高峰の権威が与えられるというさらなる“奇跡”が飛び込んだのだ!
映画ナタリーでは、そんな本作を織り成す“3つの輝き”を映画ライター・小川知子によるレビューで紐解く。さらに精神科医・ミュージシャンの星野概念による解説や、本作をひと足早く鑑賞した内田也哉子、常盤貴子、谷川俊太郎、山田洋次ら著名人によるコメントを掲載する。
文 / 小川知子(P1レビュー)、星野概念(P2解説)
奇跡みたいなほんとうの話、「アダマン号に乗って」3つの輝きを発見
監督もびっくり!な輝かしい最高賞、世界が絶賛したそのワケとは
フランスのドキュメンタリー監督、ニコラ・フィリベールは、40年以上、周縁化されがちなコミュニティに寄りそい、彼らについて学びながら、共に映画を生み出し続けている。これまでもろう者の世界、小さな学校の先生と子どもたち、看護学校で学ぶ看護師の卵などを優しく見つめてきた。
そんな彼が精神疾患を持つ人々に対するイメージを覆し、違いを超えて私たちを結びつけるものを見せてくれる最新ドキュメンタリー「アダマン号に乗って」は、第73回ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した。フィクションとドキュメンタリーの垣根を越え、本作に最高賞が贈られたのである。この快挙には、フィリベール自身も驚きを隠せなかったようで、授賞式で「Are you crazy?」と発言したほどだ。受賞の背景には、21世紀に入っても国際紛争は止むことなく、格差は広がり、分断は加速していることがある。フィリベールのまなざしは、観る者に、知らないことに対する恐怖心を認め、多様な他者と向き合い、試行錯誤しながら学んでいけば、お互いの感情を大事にするちょうどいい距離感、関係性を見つけることができる、という人間の可能性を開く。審査員長の俳優クリステン・スチュワートも、「人間らしい表現が生きていく上で欠かせないことを証明する映画」と語っている。
公開を待つ者たちの期待に応えるように、本作は、すでに25カ国以上の国で公開が決定。日本でも、フランスの公開から日を空けることなく緊急公開が決まった。
輝くセーヌ川で「みんな違ってみんないい」を叶える奇跡の船
精神医療の“質の低下”や“非人間化”の波が世界中で押し寄せる中、その脅威にさらされながらも、共感に基づいたメンタルケアを続ける、ユニークなデイケアセンター、アダマン号。「精神医学は、私たちの人間性について多くを語る虫眼鏡である」とフィリベールは言う。アダマン号は「奇跡だ」とも。
彼がこのデイケアセンターを映画にしたのは、パリの中心地、リヨン駅近くにありながらも、精神医療のイメージとはかけ離れた、セーヌ川に浮かぶ巨大な木造建築の船という環境の温かさ、美しさに惹かれたこと。そして、そこで過ごす人たちの生きるエネルギー、クリエイティビティに刺激を受けたからだというのは、本編のオープニングからなみなみと伝わってくる。集う人たちは、歌い、踊り、絵を描き、カフェで働き、ミーティングをし、と個々が尊重されながら生きている。そこでは病名も重要ではなく、治療する側、治療される側、という確かな境界線は存在しない。うかがえるのは、相手との違いを否定することなく受け入れ、相手のリズムに合わせて時間をつくり、思いやりのある距離感から正直に接するというフィリベール作品に一貫して流れる姿勢だ。
アダマン号で関わりあう人たちのコミュニケーションとそこに浮かび上がる感情をつぶさにながめていると、無意識の偏見がポロポロと剥がれ落ち、映る側、眺める側という境界線さえ曖昧になってくる。
生き生きと輝く乗客たちと、彼らがアダマン号で過ごす日々
患者や介護者と連帯しながら設計されたというアダマン号での過ごし方に決まりはない。訪れる人の年齢や背景もさまざまだ。定期的に来る人がいれば、不定期の人もいる。そこでは、裁縫、クラフト、ジャムづくり、音楽、読書、絵画、映画上映といったさまざまな活動が用意され、患者と介護者が一緒にミーティングをしながらさまざまなことを決めていく。こちらも参加してもいいし、参加せずにその場にいるだけでもいい。カフェや図書館で一人で過ごしてもいい。個人の選択に委ねられている。
フィリベールは、精神疾患を抱える人についてのドキュメンタリーを撮っているのではなく、そこでカルチャーを通して、生き生きと表現活動するアダマン号のクルー、一人ひとりの姿を映し出し、時に病気との葛藤、失ったもの、押し付けられることからくる苦しみを吐露する声を届ける。間違いなく言えるのは、ヴィム・ヴェンダースの映画「パリ、テキサス」のモデルは自分だ、と断言するミュージシャンのフレデリックも、病気のために息子を引き離されてしまった辛さを語る中年女性も、とにかく魅力的な人間であるということだ。彼らの表情に、言葉に、居方に、それを引き出せるカメラの裏側にいる人々にまで惹きつけられてしまう。
思いやりという繊細な配慮によってできあがった、温かく、ゆるやかで、色とりどりのケアの世界へ誘うフィリベールのアダマン号に乗っているうちに、「狂った」人と呼ばれる彼らとそうでないとされる人々の間にあったはずの距離はなくなっていく。そもそも、それぞれに異なる感受性や背景を持ち、傷つきやすく、揺らぎながら生きている、同じ人間なのだから。