ジョン万次郎(中浜万次郎)像 - コンパスと三角定規を握って足摺岬に建つ
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[ 高知県土佐清水市足摺岬 ]
足摺岬の展望台への入口に建っちょりますジョン万次郎(中浜万次郎)さん。
この銅像は、昭和43年(1968)に除幕式が行われたがじゃそうです。
天保12年(1841)14歳の時、現在の土佐市宇佐から出航し、万次郎達はこの足摺岬の南東約15Kmの沖で操業中、嵐に合い船は航行不能となり難破するがです。
ジョン万次郎出航の浦 - 宇佐 2009-07-06
伊豆諸島の鳥島に漂着した万次郎達は何とか143日間を生き延び、ウィリアム・ホイットフィールド船長が率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されアメリカに渡るがです。
10年後の嘉永4年(1851)、当時は薩摩藩に属しちょった琉球に戻り、薩摩藩の取調べや、長崎に送られ長崎奉行所での尋問を受けたのち、土佐藩に引き渡され再び土佐の地を踏むがです。
万次郎が藩の取り調べを受けちょった間、同居させちょったのが河田小龍先生。
その時、万次郎から聞き取って書いたのが『漂巽紀略』ながです。
其の後、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命され後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えちょります。
万次郎と坂本龍馬の接点はないがですが、河田小龍先生を訪ねた坂本龍馬に、万次郎から聞いたアメリカの現状や開国の必要性等の意見を聞き、大いに影響を受けたと言われちょります。
此処に建つ万次郎さんは、左手に航海の必需品じゃったコンパスと三角定規を握って足摺岬の沖合に目線を向けちょりまうす。
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因みに万次郎の生まれた中ノ浜村(現・土佐清水市中浜)は、足摺岬から約6Km程中村市方面に戻った海沿いにあるがです。
中浜万次郎(ジョン万次郎) - 河田小龍を通して龍馬も影響を受ける 2013-07-24
森田筆之丞・五右衛門兄弟の墓 - 中濱万次郎(ジョン万次郎)たちと漂流 2020-06-01
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