下元西州先生退筆塚 - 死後13年目に下元西州の門人たちが建てる
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[ 高知県須崎市西町 ]
この下元先生退筆塚ちゅうがは、須崎市の四国別格二十霊場第5番札所・大善寺の大師堂の脇に建てられちょります。
下元西州塾跡 - 武市瑞山の叔父・鹿持雅澄も門人の一人じゃったと 2014.10.27
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この石碑は下元西州の死後13年目の天保14年(1843)に、下元西州の門人じゃった人々によって建てたもので、廃筆を埋めた上にこの石碑が建てられちょるそうです。
先生之書 白唐溯晋 特慕右軍 技与道進
玩字読文 贈言有訓 勝遊有記 政令有論
於戯先生 徳芸兼并 宣哉遠近 化及教成
筆或雖朽 不朽者名 聞名懐実 吾斯作銘
天保十四年九月 浪華篠崎弼撰書
撰文は大阪の書家・篠崎小竹と刻まれちょります。
篠崎小竹
天明元年(1781年) 、豊後国の医師・加藤周貞の次男として大坂に生まれる。
9歳で篠崎三島の私塾梅花社に入門し、古文辞学を受ける。
三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。
しかし、江戸幕府による寛政の改革が進む中、頼山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学。尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。
その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。
詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。
温厚で社交好きな性格だったこともあり、関西学芸界の名士となった。
頼山陽とは、養父・三島が菅茶山と悶着のあった春水の長子・山陽を預かることとなり、小竹はすぐさま山陽の才能を見抜き、茶山との間柄を取り持ち常に山陽を擁護した。
その友情は山陽の死後も続き、遺児の面倒までみている。
また、大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。
嘉永4年([1851年)、死去。享年72。
【 参考・引用 】 篠崎小竹 - Wikipedia
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右が下元西州の筆塚で、左側は明治6年に建てられた下元西州の養子になった下元州浦の退筆塚ながです。
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